明日の、方程式(3)
再び急展開です。
「わたしは、リイドの事が好きだ」
「………はっ?」
どういう展開なんだろう、これは。
「そんなこと言われても…え?」
「だから、わたしはリイドの事が好きだ」
「………えっ??」
⇒明日の、方程式(3)
状況はしばらく前に戻る。
プールにつれてこられたものの、特にこれといって遊ぶ気分ではなかったし、何よりエアリオがおぼれてそれのまき沿いを食らって死に掛けたというのは、もうプールに入りたくなくなる理由としては十分だったんじゃないだろうか。
何はともあれ、結局はカイトとルクレツィアに助けてもらったものの、あと数分遅かったら二人ともまじめに死んでいたかもしれない。
プールサイドの隅に腰掛けながら息を切らす。 溺れる感覚というものをはじめて味わったけれど、あれはもう本当に怖い。 泳げない人が水に入りたくない気持ちがよくわかった。
だってもう、レーヴァで戦うより怖かったくらいだ。 もう二度と溺れたくない。 出来れば水にも入りたくない。
隣でぐったりしているエアリオは尚更だろう。 長すぎるツインテールからぽたぽたとしずくが零れ落ちている。
疲れた顔でボクを見ると、少しだけ申し訳なさそうに口ごもりながら、
「リイドが悪いんだぞ…。 わたしはいいっていったのに…」
そんな事を口にした。
「泳げないなら泳げないって最初から言えよ。 そうしたらボクだってつれてかなかったのに…」
「む…。 わたしが悪いっていうのか?」
「そうじゃないけどさあ〜…だってボク死にかけたんだしさ〜…」
「…」
二人して明後日の方向を見る。 太陽は眩くて、みんなのはしゃぎ声が遠く響いていた。
なんとなく開いた間。 動かした指先が互いに触れて、驚いて引っ込める。
「…エアリオ」
「?」
「あのさ…。 こんな事、訊いて良いのか良くわからないんだけどさ」
顔を上げるエアリオ。 まっすぐその目を見られないのは、きっと後ろめたい気持ちがあるからだ。
「昨日、シンクロしただろ? ボクたち」
「したな」
「その時…エアリオの心の中が、少し見えたんだ」
何も無い空っぽの世界。 永遠の孤独。 寒すぎる氷の世界。
そんなものをイメージさせる。 彼女の中にあるのは蒼と白だけ。 暖かさも優しさもないけれど、苦しみも悲しみもない。
何も無い。 無。 そんなものがあるのだろうか。 そんな心があるのだろうか。
「お前の中、何にもなかった…。 あれってどういう意味なんだ?」
「どうもこうも…そのままの意味。 わたしは、からっぽだから」
「からっぽって、なんだよ…。 イリアだって、あの馬鹿オリカでさえ、もっと色々考えてたぞ。 何でお前はそうなんだ? なんかおかしいじゃないか」
「…そんなこと言われても困る。 そんなにわたしの中は…へんだったのか?」
「あ―――いや…その」
そりゃそうだ。 困るのも当然だ。 というか、すごく失礼なことを言っていたんじゃないだろうか。
心の中を覗いてしまうのは仕方のないことだ。 ボクだってそうだし、エアリオだってそのはずだ。 それは干渉者と適合者の定めだ。
けれどのその中身について相手に問うとか、挙句の果て変だなんていうのは、明らかにマナー違反じゃないのか。
反省する。 頭を掻きながらため息をつくと、エアリオは目を閉じて微笑んだ。
「いい。 わかってる。 自分がからっぽだってことも…変だって事も。 リイドは気にしなくてもいい。 そういう風に思うのが、普通だから」
「いや…そうじゃなくてさ。 ボクが言いたいことは、エアリオが変だとか、そういうことじゃなくて…」
「じゃなくて?」
「だから、ボクは…お前の事が心配なんだよ」
何もなくて寒い場所で一人だけ立ち尽くしているエアリオ。
そんなイメージを思い浮かべる。 頭の中に直接入り込んでくる。 エアリオの気持ちは何も感じられないけれど、それは感じられないだけで本当はちゃんとあって、それが何らかの理由で凍り付いてしまっているだけなんじゃないか。 そんな風に思う。
でもそれはとても悲しい事だ。 気持ちを誰にも伝えられない事は絶対に幸せなんかじゃない。 一人で抱え込んで他人を排除しても、いいことなんて何もないんだ。
だからそうやって悲しんでいる誰かに手を差し伸べることが出来るなら、ボクはそうしたい。 みんなに助けてもらったボクだからこそ。 エアリオが大事だからこそ、気になる。
「あれは、シンクロしても結局ボクらに心を開いてくれてないって事だろ? 何ていうか…心配なんだよ、お前の事が」
「…心配?」
「そうだよ。 だってお前、自分の事ぜんぜん口にしないじゃないか。 お前が自分の事語ってくれたことなんて、一度もないだろ」
ボクはエアリオの事を何も知らない。
それはエアリオの過去を誰も知らなくて、それをエアリオ自身が何も語らないせいだ。
カイトの過去も、アイリスの過去も、ボクは知る事が出来た。 謎だらけのオリカだってそうなのに、エアリオの事は何も知らない。
誰よりずっと一緒に居たはずなのに、ボクらの心の距離はぜんぜん縮まっていないんじゃないか。 そんな風に思う。 少しずつ向き合うように努力してはいるものの、結局シンクロしても彼女の心はわからなかった。
「何でなんだろうな。 なんかいつも、ボクとお前ってすれ違ってばっかりだ。 すれ違ってる事にすら誰も気づかないくらい…まるでそうなるのが自然みたいに」
「わたしは…」
悲しそうなエアリオの顔。 その顔を見ているのはやっぱり嫌だ。 こいつは無表情だけど、無表情なりに笑っていてほしいと思う。
「だから、やっぱ悪いなあと思いながらも、訊いてみちゃったんだよね…。 それだけだから、ごめん」
なんとなく気まずくなる。 やっぱりアイリスしかり、ボクは女の子と話すのは苦手な方らしい。
少しだけ触れていた指先。 離そうと手を引くと、エアリオはその手を取って顔を上げた。
時間が止まるかと思った一瞬。 彼女は涙ぐんだ瞳でボクを―――いや、きっとボクの瞳に映るどこか遠い場所を見つめていた。
「リイドは、変わったな」
「え―――? そりゃ、まあ―――」
「いや…。 おまえは昔から…初めて会った時から、本当はそうだったな」
「な、何が…?」
「わたしにも判らない」
「はっ?」
「どうしてなんだろうな」
寄せる身体。 肩にもたれる小さな頭。 水滴をこぼしてきらきら光る蒼白い髪。 絡み合う指と指。
「え、エアリオ…?」
「わたしは、リイドの事が好きだ」
「………はっ?」
どういう展開なんだろう、これは。
「そんなこと言われても…え?」
「だから、わたしはリイドの事が好きだ」
「………えっ??」
困る。 どういう意味なのかわからない。
オリカには何度もいわれているけれど、あの馬鹿そうな女の口から飛び出すのと、寡黙なエアリオの口から飛び出すのとでは言葉の重さが違いすぎる。
顔が赤くなるのを感じる。 エアリオは這うようにしてボクの目の前に座り、顔を近づける。
「だから、お前には見せてやってもいい。 わたしの中にあるものを」
「え? ええ?」
背中を向けるエアリオ。 髪を掻き分けるその白いうなじには、青白く光るユグドラ因子が隠れていた。
オリカの時も驚いたけれど、それは非常に不思議な雰囲気を持っていた。 全身に光を送る機械。 こんなものを体内に―――こんな小さな身体に埋め込んでいるなんて事自体、ボクにとっては衝撃以外の何者でもない。
「あらかじめ言っておく。 普通は、誰にも触らせないんだぞ」
「え? あ、うん」
「けど、リイドなら触ってもいい」
「えっ? さ、触るとどうなるの…?」
「触ればわかる」
息を呑む。
触るとどうなるのだろう? 触った事もないし、そもそもこれって干渉者の大事なところなんじゃないだろうか。
触るっていったってどう触るのだろうか。 恐る恐る伸ばす指先。 触れていいのかどうかわからなくなる。
「痛かったりしないの…?」
「そんなことはない」
「そう…? だったらいいけど…」
ゆっくりと伸ばす指先。
そうだ。 何が起こるのかわからなくても、ボクはもっとエアリオのことを知らなくちゃならないんだ。
彼女の心を覆っているわけのわからない虚無の世界を、壊してあげなくてはならないんだ―――。
「 ぼ くは」
えっ?
指がユグドラ因子に触れた瞬間、『ボク』という存在そのものが肉体も世界も離れ、どこかへズレこむような感触。
上下左右がわからない。 落ちているのか上っているのかもわからない。 そんな身体の感覚がめちゃくちゃになり続ける中、白い闇の中を漂っていた。
口を利くことも出来ない。 ただただそうして黙って周りを見ているだけだ。 肉体があるのはわかるのに、自分の身体全てが真っ白だ。
いや、世界そのものが無いんだ。 立つべき大地も吸うべき大気もここにはない。 何もない。 まっさらなんだ。
エアリオ、これがお前の世界なのか? お前の中にある全てなのか? 本当にこんな何も無い、自分さえあいまいなのがお前の中なのか?
寂しさしかそこにはない。 悲しみさえそこにはない。 たださびしくて、苦しくて。 流す涙さえなくて。
けれどそんな世界の彼方は、確かにどこかにつながっている。 光の速さで突き進むその先で、ボクは夢を見るようにどこかの世界を見ていた。
そこにはレーヴァテインがいた。 マルドゥークは降り注ぐ天使の攻撃の中、たった一人、地球も見えない場所を突き進んでいた。
誰もいない、命もないその世界の先で、ただたどり着く場所もわからない戦場を、たった一人で突き進んでいた。
コックピットにはエアリオと。 そして、ボクが乗っていた。 ボクはボクの知っているボクよりも少しだけ大人で、泣きながら戦っていた。
振り返る景色の先。 崩れ去ってしまったヴァルハラが見えた。 そこにはきっとボクの大切なものが埋もれていて、瓦礫の中で全てが終わってしまっていた。
世界が崩れていく音が聞こえる。 もう何もなくて。 生きているのはボクとエアリオだけだった。
目指す先にあるもの。 それはレーヴァテインでもトライデントでもエクスカリバーでもない、見た事も無いアーティフェクタだった。
それと戦って、戦いつくしてマルドゥークは堕ちて行く。 果てない闇の中、漂うように、静かに落ちていく。
コックピットの中で静かに目を閉じるエアリオ。 ボクは泣きながらその身体を抱き寄せて、音も無い世界で叫んでいた。
それがどこの景色で、いつの景色で、何の景色なのかもわからない。 けれどボクはそれを見て涙が止まらなかった。
流すべき涙もないはずなのに、自分が泣いているのが判る。 心が、魂が、全てが泣いている。 そんな感覚。
エアリオの中にあったのは、途方も無い闇と空白と―――終わりの景色だった。
「ねぇ、カイト」
「ん?」
「ジェネシスってさ…。 何ていうか…変な会社よね」
「あぁ? なんだ、いきなり?」
「だってさ―――」
海辺で無邪気に遊ぶパイロットたち。
その誰もが本当ならば戦いとは無縁で、いつだってそう、今のように遊んで笑っていられる…そんな未来が約束されているはずで。
今だけは悲しい事も、苦しい事も知らなくていいはずで。 子供の間しか手に入らない特権を放棄して、戦っているのに。
それなのに時々無邪気で幼くて。 上手くいかなかったりすれ違ったりしながらも、少しずつ心の距離を縮めていく。
まるで普通の子供たちのようなのに、そうじゃない。 つらくて悲しいことも、笑って乗り越えてしまう。
「みんな―――楽しそう」
争いの最中でさえ、どうかその気持ちを忘れないで居てほしい。
誰もがそう願う。 大人たちも、彼らさえも。 自らの心の中から、そうした気持ちがなくなってしまわないように。
迷い悩んで苦しんでたどり着いた今の仲間たちを大事にしたい。 大切に思う。 それは少しもおかしなことではない。
だからこそ笑っていられる。 それがエリザベスにはまぶしくて、理解出来なかった。
「もしかしたら―――あたしにも、こんな未来があったのかな」
ラグナロクのパイロットとしてではなく、ごく普通の子供として生まれたのならば。
いつか、こんな、幸せな景色にたどり着けたのだろうか。
そんな事を思う。
願ってはいけないと知っていても。
そう、願ってしまう。
忘れたいと思っても。
その可能性は捨てきれず。
心にもやをかけたまま、少しずつしこりを残してしまう。
「別に、今からでも遅くねぇんじゃないか」
顔を上げるとカイトは波間を眺めながら無邪気に微笑んでいた。
「まだ俺たちは子供だから、いつかちゃんと大人になって、今のことを振り返る時が来る。 でもそれ以前にお前は俺たちよりさらに子供なんだから…まだまだ十分楽しい事はあるさ」
「他人事だからそんな事言えるのよ」
「他人事なんかじゃないさ」
振り返る日々。 故郷を失い、逃げ続けた毎日。
カイトの過去にある悲惨な記憶。 けれど、誰か手を差し伸べてくれる人が居れば、その地獄から這い上がることだって、不可能なんかじゃない。
苦しい事しか続かない未来なんて変えていける。 一人じゃ無理でも、そこに誰かがいてくれれば。 きっと、変えていけるのだ。
「俺が何か言っても、どうせ意味なんかないんだけどよ」
そうだ。 出来れば。
「誰も、戦ったりしなくていい世界が…いつか来れば良いのにな」
「ん―――」
静かな空白の中から目を覚ました。
なんだか長い間夢を見ていたような気がする。
身体を起こすとそこはプールサイドの一角で、隣にエアリオが座って―――。
「えっ?」
目の前に突きつけられたのは、小さな拳銃だった。
一体どこに隠し持っていたのかわからないけれど、とにかくそこには銃があった。
その銃を手にしているのは他でもないエアリオで、彼女は表情も無く冷たい瞳でボクを見つめていた。
そう、それはまるで。
初めて巨大な力を目にした時、ボクはその銃口を気にもしなかった。
思えばボクらの出会いはこの銃口から始まり、そして今に至る。 全ての始まりは、暗い夜の闇の中、月明かりを受けて輝く銃口からだった。
「何で…」
そんな言葉しか口に出来なかったのはきっと想像以上にボクがショックを受けていたからなのだろう。
静かな瞳でボクを見下ろしながら、何の感情も読み取れない顔で、エアリオはボクに告げる。
「リイド・レンブラム。 わたしについてきて」
有無を言わさぬ強い言葉。 判らなくなる。 今までのエアリオと、今目の前に立っているエアリオと…どちらが本当の彼女なのか。
「会わせたい人がいるの」
逃れる事は出来そうにない。 エアリオがボクを撃つなんてことは信じていないけれど。
「…そう。 だったら喜んで着いていくよ」
出来るだけ強がって見せる。
本当の裏切り者は誰なのかわからないけれど。
少なくとも、彼女はボクに銃を向けたのだから。
「教えてくれるんだろうな…何もかも」
エアリオは頷かない。 答えない。
ただ金色の瞳だけが、透き通るガラス玉のように輝いていた。