4・元凶
「そこを退いてくれないか、ファン」
獣を引き連れて現れた『黒き悪魔』――リズルカは、シャリファンの元にたどり着くや否や、彼女に剣を向けてそう告げた。
「君に、手荒なことはあまりしたくないんだ」
「あれだけ残虐な真似を続けておきながら、よくも平気でそんなことを言えるな」
襲撃は男たちを欠いた昼やすべてのものが寝静まった夜半、獣と共に訪れることが多い。
『黒き悪魔』は劣勢を嫌う。今までの集落においてもそれは同じことで、戦いを逃れたものは残された亡骸に涙しながら復讐を誓うのだ。
すべてのものが殺し尽くされたに等しい集落が元のように機能することはなく、生き残った幸運な人間の大半は残されたわずかな家畜を分け合って他の集落に合流する。
シャリファンのように帯に黒い線を入れ、放浪する道を選ぶものも少なからず存在した。
しかし今、空は赤味を帯び、そろそろ家畜を連れた男たちが帰ってくる時間だ。
――今までのことを考えると、ありえない頃合での襲撃だった。
「……君は僕の義妹だ。身内が暗い道を選ぼうとするならば、止めようとするのが兄というものだろう?」
「だからこその襲撃か? 随分と鼻が利くな、リズ。まるで従えている獣と同じ深みにでも堕ちてしまったかのようじゃないか」
黒く塗り潰されたような外套の隙間から声が漏れる。
シャリファンはそれを鼻で笑い飛ばした。
「私を真実から遠ざけて、それでどうするつもりだ。生憎、私はお前の非道を見逃せるような性格ではないし、お前の手を煩わせずとも仇を討ってみせる。そのためには、ルル・イシクに話を聞かなければいけないし……お前に、これ以上の殺戮を許すわけにはいかないんだ!」
シャリファンは吠えた。
気合と共に振り下ろされた剣はしかし、鈍い音を立ててリズルカのそれに防がれる。
「僕は君に知って欲しくない。僕の知っていること、すべてを」
リズルカの剣が、シャリファンの一撃を押し返した。
「君には、女として生きていく方が似合っている。……今からでも遅くはない。剣を収めて、僕の前から消えてくれ」
「…………お前が、それを言うのか!」
かっと顔が熱くなる。
激昂のままに、シャリファンはリズルカに向けて幾度も剣を振り下ろした。
「変わってないね、ファン。怒ると剣が荒くなるのは昔のままだ」
「煩い! 元はと言えば、お前が……!」
と、シャリファンは己の言わんとすることに気付き、わずかな困惑を見せる。
「君とこうして剣を交えるのはとても懐かしくて温かい気分にさせられるけれど……今の僕に、そんな感情は不必要なものさ。さあ、道を空けてもらおう」
シャリファンの身に訪れた一瞬の混乱を、リズルカはけして見逃さなかった。
剣が跳ね飛ばされる。自分の失敗を悔いる暇も与えられず、シャリファンはリズルカが天幕のひとつに走るのを地面に倒れ込みながら見つめるしかなかった。
「この馬鹿! 戦いは熱くなったら負けだって散々教えてやっただろうが!」
ぐ、と腕を引かれ、かろうじて倒れ込むことは避けられた。耳元でサーナの怒鳴り声が響く。
「剣を拾って、早くリズルカのところに行け! ……あいつの狙いは、多分」
「わかっている」
小さくうなずくと、すぐ近くに落ちていた剣を再び握りしめる。
リズルカは今にも天幕の中に押し入ろうとしていた。
集落の男たちが必死に食い止めようとするが、次々となぎ倒されてしまう。
流された血の跡が、まっすぐに道を作り上げていた。
「リズルカ……!」
「やれやれ、君は本当にしつこいな。仕方ない。……そんなに知りたければ、教えてあげるよ」
ちらりと視線だけを寄越したリズルカは、天幕の入り口を大きく開いた。
「……っ!」
押し殺された悲鳴が上がった。
天幕の中に座り込む小さな影がある。ネルグイだった。
リズルカは最初から、迷うことなく土地神の居、祭祀用の天幕へと向かっていたのだ。
「おねえ、ちゃん……」
大きく見開かれたネルグイの瞳は、恐れに満たされている。
「ファン。君の知りたいこと、これが答えだ」
外套の奥でふ、と笑う気配がした。
「ようやく見つけた、忌み名を持つ娘……ネルグイこそが、僕たちの集落を滅ぼした元凶だ」
「なっ……!」
シャリファンは、絶句するしかなかった。
リズルカがネルグイを狙っていたのは想像がつく。彼は常に忌み名を持つものを狙い、様々な集落を襲っていたのだろうと、過去の事例で容易に想像のつくことだったのだから。
しかし――。
「何故、ネルグイが……」
「そんなことは、彼女の父親に聞けばいい。……本当なら、何も教えたくなかったんだ。君は、優しいから」
吐き捨てるようにそう言うと、リズルカはおもむろに剣を構える。
――瞬間、シャリファンの横を疾風のごとく駆け抜けた人影があった。
「娘に手を出すな……!」
ガラだった。見たこともないような憤怒の表情で、幾度もリズルカと剣を合わせている。
「……お前がそれを言うのか、殺戮者の分際で」
リズルカの声は、そばで聞いていたシャリファンの背筋が凍るほどに冷たい。
ガラは沈黙を守っていた。
まるで、悪魔ごときに与える言葉は持たないとでも言うかのように、じっと唇を引き結んでいた。
「今ここでお前の行いを彼女に教えてやれば、僕の目的は容易に果たされることだろう。……けれど、ね。残念ながら時間切れだ。ちょうど、呼ばれていることだしね」
やれやれ、と残念そうに漏らしてから、ガラの剣を流すように逸らす。
「待て!」
喰らい付くように、ガラはリズルカへと剣を振るった。
再びその一撃を受け止めたリズルカだったが、その手に握る剣はガラの剣戟の重さに耐え切れない。刃が折れて、勢いのままに飛んだ。
反動でガラの体勢が崩れると、リズルカはその隙を逃すことなく飛笛で馬を呼び、いつかと同じように集落から去っていった。
「……っ! 待て!」
シャリファンは慌ててその後を追った。
いつかのように呆然と立ちすくんでいては、いつまでも彼を逃がすばかりだ。
しかし、その足はすぐに止まることとなる。
地平線の彼方――リズルカが向かう先に、あるはずのない人影を認めたためだった。
「……おいおい、どういうことだよ、ありゃあ」
後から走ってきたサーナが、呆然と呟いた。
「それは、私がお前に聞きたいことだな、サーナ・イシク」
シャリファンは、苦々しくそう吐き捨てた。
「どうして……ティグナ義母上があそこにいる。リズルカと、共に」
見間違えるわけがなかった。
人影は、シャリファンの記憶の中そのままの姿を留めていたのだから。
呆然とする二人の後ろで、声も上げずに泣くネルグイを、ガラが優しく抱き上げた。