3・疑惑
「……族長殿。少し、よろしいか」
天幕の中、シャリファンが族長と二人きりになれたのは、サーナと話をしてから一週間ほどが過ぎた頃のことだった。
『黒き悪魔』が操っていると思われる黒い狼はあれからも幾度か集落を襲ったが、シャリファンとサーナの働きによって被害はほとんど出ていない。
不思議なことに、家畜の餌場に向かう男たちの方にはまったくそういった襲撃が起こらないので、最近ではシャリファンも男たちの留守を守るのが常になっている。
とはいえ、先日の『黒き悪魔』本人の襲撃によって出た被害は、集落にいまだ深い傷を残している。
破れた天幕を繕い、骨組を補修したりと忙しく働いているため、シャリファンがガラとゆっくり話をするような機会はなかなか訪れなかった。
「何かありましたか、シャリファン殿」
「……少し、お聞きしたいことがあります。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、構いません。……とはいえ、あまり長い時間は取れませんが」
族長は多忙だ。集落のすべてを取り仕切らなければいけない上に、土地神の言葉を聞いて今後の予定を立てなければならない。
シャリファンは亡き父を見ているため、そういったことの大変さをよく理解していた。
「申し訳ない。ひとつだけ、お答えいただけるようでしたらすぐに退散いたします」
そう前置きして、シャリファンは一度、深呼吸をした。
吸って、吐く。それから改めて口を開き、言葉を紡ぐ。
「ネルグイという名は忌み名である、とサーナから教えられました。……単刀直入にお聞きします。彼女は『黒い悪魔』に襲われることと何か、関係があるのですか」
シャリファンの問いに、ガラはわずかに瞠目したが、やがて小さく息を吐いた。
「やはり、土地神という方は聡明ですな。我らただびととは、まったく違う世界を見ておられる」
「……と、いうことは」
「…………ですが、それをあなたにお教えすることはできない」
ガラは、重々しくかぶりを振った。
「シャリファン殿。すまないが、この話はこれきりにさせていただきたい」
「族長殿……しかし……!」
シャリファンの制止を振り切るように、ガラは天幕を出ていった。
「待ってください、族長殿!」
シャリファンは後を追う。外に出れば、ガラは早足で駒つなぎの方へと向かっていた。
このまま馬に乗られては、話を聞くのがますます困難になってしまう。
「族長殿!」
「村を守っている恩人にこんな態度を取るのは、私の望むところではないのですが。……これは村の話ではなく、私個人の話になります。あなたに話すわけにはいかないのです」
「……知られてはいけないことが、あるのですね」
「…………」
ガラの答えは沈黙だった。
実直なのだな、と改めて思った。
聞こえのいい偽りを作り上げることもできるはずなのに、ガラはそれをしない。
ただ真実と秘密と沈黙を以ってシャリファンの問いに答えている。
しかし――。
「こちらとしても、それで引き下がるわけにはいかないのです」
言い放つと、シャリファンは腰に下げている剣をすらりと抜き放った。
ただならぬ雰囲気に、周囲で作業をしている女たちの視線は先ほどからシャリファンたち二人に注がれている。そこに、抜き身の刃が現れたのだ。
押し殺された悲鳴が上がる。周囲の空気は一瞬で重苦しい緊張を帯びた。
「私の集落が失われたことを、ガラ殿はご存知でしょう。その仇を討つために、私は旅をしています」
「……ええ」
剣の切っ先は、ガラの喉元に向けられていた。
しかし、彼は動揺することもなく、ただ静かな面持ちでシャリファンの視線を真っ向から受け止めている。
「私は長い間、その仇が『黒き悪魔』だと思っていました。私の集落を滅ぼしたものと同じ、残虐な所業を重ねていたからです」
シャリファンは静かに、けれど強い意志を持つ瞳でガラを見据えた。
「けれど、この集落に現れた『黒き悪魔』は、私と同じ仇を追っているはずのものでした。……族長も、すでにご存知のはず」
あのとき、戦いのさなかで、シャリファンはリズルカと相対し、わずかばかりの会話を交わした。
近くでそれを聞いているものがいてもおかしくないし、それならば真っ先に族長であるガラの耳に届くはずだ。
「……ええ。報告は受けています。あなたが、『黒き悪魔』と言葉を交わしていた、と」
「ならば話は早い。彼の目的がネルグイにまつわるものならば、私はそれを知らねばなりません。……そうしなければ、彼女を守ることはできませんから」
知り合いでも関係ない、と暗に示した。
たとえあれがリズルカだったとしても、シャリファンが『黒き悪魔』を許せないという、その事実は変わらないからだ。
「……それでも、お教えすることはできません」
「何故ですか……!」
剣を握るシャリファンの手が、小さく震えた。
「同じ氏族のものに剣を向けてまで私の娘を守っていただけることについては、非常に感謝しております。……ですが、だからこそお教えできないのです」
「どういう意味、ですか」
「………………」
ガラは沈黙する。どうあっても、それ以上口にするつもりはないようだった。
シャリファンは試しに剣の切っ先でガラの喉元を浅く切りつける。
細い筋から赤い血が滲んだが、ガラは呼吸ひとつ乱すことなく、ただシャリファンを見つめているだけだった。
「……父さま!」
やがて、騒ぎを聞きつけて天幕の中から顔を覗かせたネルグイが、展開される光景に高い悲鳴を上げた。
子ども特有のあどけない足取りで走ってきたネルグイは、ぎゅ、とシャリファンの腰に抱き付いた。
「やめて、おねえちゃん! 父さまを苛めないで!」
「ネルグイ……」
お前のためだ、と言いかけて、止めた。
シャリファンの行いは、根底としては個人的な理由によるものだ。
「……ネルグイ、危ないから下がっていなさい。これは私とシャリファン殿の、大人の話なんだ」
「でも、父さま!」
「ガラの言うとおりじゃ、我が愛し児よ」
なおもシャリファンに縋りつこうとするネルグイを押し留めたのは、どこか現実離れした声だった。
「こちらにおいで、ネルグイ。この話、そなたが知るにはまだ早い」
ルルだった。薄灰の長い髪が、北の山脈から大地へ吹き降ろす風に揺れる。
祭祀用の天幕から姿を現した彼女は、傷ひとつない白い手でネルグイを苦もなく引き寄せると、その小さな体を自らの天幕へと押し入れた。
「赤の部族の女、シャリファン。そなたの知りたいことならば、土地神の我も知っておる。そして我はガラのように強情ではないからな、そなたが望むなら真実を教えてやらんでもない」
「それは……本当ですか、ルル・イシク」
「ああ、本当じゃ。だから、まずはその剣を収めてはくれぬか」
その言葉に、ガラが初めて慌てた表情を見せた。
「ルル・イシク……!」
「黙りや、ガラ。先ほどからラエラが今にも倒れそうな顔をしておるのを、我が許すと思うておるのか?」
見れば、ラエラは共に作業をしていた女たちに支えられながら、真っ青な顔でことの成りゆきを見守っている。
「我の乳茶はラエラが美味しく淹れてくれる。なのに、そのラエラが倒れてしもうては、我の力にも支障が出てしまうではないか。……なに、真実などというものは、それを追うものが核心に近付いてしまえば、おのずと明らかになってしまうものじゃ。惜しむことはない」
「ルル・イシク……」
ガラが、どこか縋るような面持ちでルルを見つめた。
けれど彼女は鬱陶しそうに首を振ってそれに答えるだけだ。
「我の口からでも構わぬな、シャリファン」
「もちろん。手段は違えど、結果が同じであればいいことです」
シャリファンはゆっくりとうなずいた。
ふふ、と不意にルルが笑った。彼女はす、と目を細め、検分するようにシャリファンを眺める。
「覚悟は、できておるのか?」
居心地悪そうに身じろぎしていたシャリファンは、急な問いかけに驚くことしかできなかった。
「……族長殿といい、ルル・イシクといい、先ほどからそれはどういう意味なのですか」
それは現在におけるシャリファンの素直な心情で、そして、わずかな苛立ちを込めた言葉だった。
己の悲願である敵討ちや、リズルカの変貌の理由に繋がる何かが、たった今、目の前にあるのに。
真実を知るものの口はあくまで重く、固く閉ざされたままだ。
「私は知りたいのです。私や……あの『黒き悪魔』の運命を狂わせたものの正体を」
「……我は、そなたの土地神の言葉こそがもっともだと思うのじゃよ」
ルルが言った。どこか皮肉に歪む口元は、白い頬から浮き上がるように紅い。
「敵討ちのために剣など持たずとも、そなたには草原の女として生きる道がある。そちらの方が、よほど幸福に生きてゆけるぞ」
「ですが、私は首飾りを持たぬものです。今さら女としての道など望むべくもない。子どもを産めぬ女に何の価値がありましょう」
「確かに。草原の因果はかたくなな理によって成り立っておる。……じゃがな、シャリファン。真に本来の在り方を望むならば、そなたの土地神は容易にそれを可能とするぞ。子種の有無なんてものは所詮、数多き草原の理のひとつに過ぎぬのじゃからな」
「……必要ありません。もしもあなたの言葉が本当だったとして、それは私の真に望む形ではない。私に必要なのは、今、目の前にある真実だけです」
「そうか。……しかし、まずはそなたにやってもらわねばならぬことがある」
と、ルルはす、と片手を上げた。
シャリファンがその仕草を怪訝に思う間もなく、高らかに飛笛の音が鳴り響く。
同時に飛来した一本の矢をルルの手が掴んだ。
「そなたの言葉を、この我に信じさせておくれ。同じ氏族である『黒き悪魔』よりも、我が愛し児、可愛いネルグイを守ると言った、その誓いを」
飛笛の音はひどく聞き慣れたものだった。
背中に負っていた弓を構え、シャリファンは静かにうなずく。
「ええ、あなたの言うとおりにいたしましょう。そうでなくては、ゆっくりと話をする暇もない」
はるか地平線には、見慣れた黒い波――狼の群れがその姿を見せようとしていた。