4・襲撃
――――ようやく、見つけた。
呟かれた言葉は、風と共に草原を駆ける。
「……なんだ……?」
自らの耳に届く音色が信じられず、シャリファンはしゃがみ込んだネルグイのことも忘れ、周囲を忙しなく見回した。
正真正銘、同じ音色だった。
けれど、シャリファンの持つ飛笛は、既に自身の胸元に下がっている。
幻聴かとも思ったが、傍らに繋がれた愛馬は、彼女が飛笛を鳴らしたときと同じような興奮を見せていた。
(これはいったい、どういうことだ)
飛笛の音色には作った人間の個性が色濃く現れる。
他人と同じ音を作り出すことはできないし、また、同じ人間がまったく違った音色を作り上げることもできない。
ならば、今聴こえているこの音色は、シャリファンの持つ飛笛と同じ人間が作ったのでなければいけないはずだった。
シャリファンはひどく混乱していた。
――だからこそ、それに気付くのがわずかばかり遅れたのだ。
「……っ!」
風を切る鋭い音と共に、一本の矢が飛来する。
シャリファンの頬をかすめた矢は、その頬に一筋の傷を残し、背後の天幕へと突き刺さった。
「シャリファン!」
焦ったようにサーナが叫ぶ。
「わかっている!」
傍らにしゃがみ込んでいたネルグイを、シャリファンは慌てて近くの天幕に押し込んだ。
繋いでいた馬を放ち、その背にまたがる。
弓をつがえる間もなく、外敵は集落――シャリファンたちに迫っていた。
「くそっ! 私としたことが、どうしてこんなに近付かれるまで気付かなかった!」
黒い狼の一群は、既に集落を取り囲んでいた。
低い唸り声を上げながら、こちらの様子をじっと観察しているようだ。
対するシャリファンたちはといえば、女たちや遊んでいた子どもを天幕に避難させ、用心のために残っていた少ない男たちで狼と対峙するのが精一杯だった。
「……気味が悪いな」
思わず、シャリファンはそう呟いていた。
神経を集中させて、どこから狼が襲ってきてもいいように殺気を張り巡らせる。
それを可能とさせるほどの猶予を、かれらはなぜこちらに与えたのだろう。
――いいや、そもそも。
「狼は、弓矢を扱わない。彼らには手がないからだ」
「サーナ……」
いつのまにか、彼の土地神はシャリファンの傍らに立っていた。
「なあ、シャリファン。なら、お前に向けて矢を放ったのは、何だ?」
「……答えなど、決まっている」
シャリファンは剣を構えた――と同時に、馬に乗って飛び込んできた黒い人影が、彼女に向けて手に持った剣を振り下ろした。
重く、硬い音を響かせて、シャリファンの剣はかろうじてその凶刃を防いだ。
しかし、黒い人影は馬から飛び降りると、なおもシャリファンに向けて剣を振り下ろした。
何度となく、その刃を打ち合わせる。
「……そこを退け」
力の拮抗する中で、人影はやがてそう呟いた。
低い、男の声だった。
筋肉のついた体は黒い外套に覆われ、剣の刃もまた黒く染まっている。
積み重ねられた殺戮の末に変色した血の色だ、と――黒色の正体を察した瞬間、シャリファンは人影の正体に気付いた。
「お前が、『黒き悪魔』か」
答えはなかった。
ただ、振り下ろされる剣だけがあった。
「そこを退け」
低い声。繰り返される言葉と、剣戟。
「その前に、私の問いに答えろ。お前が『黒き悪魔』……草原の緑を殺戮の赤と黒に染めるものなのか」
「答えなど、君の中ではとうに出ているだろう」
頭まで覆った外套の隙間から、微かに歪められた口元が覗く。
「一度たりとも自分から名乗ったことなどない。君たちが僕に名前をつけたんだ。だから僕は、君に答える名を持たない」
男の声はどこか皮肉を滲ませている。
「僕が持っているのは刃と、それに付随する理由だけだ。そこを退いてくれないか、赤き戦士。僕は彼らに刃を振るう理由を持っている。ようやく見つけた、すべての始まりだ。……君なら、理解できるだろう」
「なっ……!」
思わぬ言葉に、シャリファンは絶句した。
「お前はいったい、何を……!」
シャリファンの問いが、最後まで発せられることはなかった。
男は頭部を覆っていた布を肩口まで落とす。
現れた顔に、シャリファンは小さく悲鳴を上げた。
「嘘だ……」
シャリファンは頼りなく呟いた。
「お前は、どうして……どうしてリズの、リズルカの顔をしている!」
絶叫と共に、シャリファンは目の前の男に斬りかかる。
剣を握る手には力が入らず、弱々しい斬撃はいともたやすく弾かれた。
しかし、シャリファンは二度、三度と男に斬りかかっていく。
自分の目に映る光景が信じられなかった。
黒い髪と黒い瞳、痩せた頬。目の前の男の顔は確かに見覚えのあるものだったのだ。
「リズは死んだはずだ! あのとき、あの場所で!」
「そうだね、ファン」
しかし、目の前の男はシャリファンの記憶と寸分違わぬ声で、彼しか口にしなかったはずの愛称を口にした。
「僕はあのとき一度、死んだ。だから今、君に名乗る名を持ち合わせてはいないんだ」
柔らかな響きの声で、優しく言い聞かせるようにそう言って。
黒をまとった男は強烈な一撃でシャリファンの剣を跳ね飛ばし、血に染まった黒い剣をその喉元に突き付けた。
「名前を失った男はたったひとつの復讐のために生きている。……君は、どうなんだい?」
「っ……! それは、どういう……」
剣の先端が喉元に触れて、シャリファンは小さく息を呑んだ。
黒い男がくっ、と喉を震わせる。かつての彼からは想像もできない、残酷な笑みだった。
「シャリファン!」
そのとき、飛来した一本の矢が、相対する二人の間に張り詰めていた緊張を破った。
「悪いが、そいつを殺させてやるわけにはいかねぇんだよ」
狼の群れを撃退したサーナが、男に向けて弓を構えていた。
吐き捨てるようにそう口にして、彼は次の矢をつがえる。
「殺す? そんなこと、僕がするはずもないでしょう、サーナ・イシク。彼女に邪魔をされては困ると、そう思っただけですよ」
男は小さく肩をすくめると、胸元から飛笛を取り出し、ひゅん、と軽く回した。
男の乗ってきた馬はその音に反応し、すぐさま主人の傍らへと駆けつける。
「感動の再会に免じて、今日のところは帰るとするよ」
「待て、リズ……!」
「待たないよ。もうすぐ放牧に向かった男たちの帰ってくる時間だ。そうすれば僕には随分と不利な状況が出来上がるね。……生憎だけど、厄介事が増えるのを僕は好まない」
馬上に飛び乗り、黒い男はシャリファンに向けて皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「君に会えて嬉しかったよ、ファン。けれど、そこにいるのは止めた方がいい。君のためを思って言っているんだ。今は、理解できないかもしれないけれど」
「どういうことだ……」
「教えないよ。……真実を知れば、君もいずれこの暗闇に落ちてしまうだろうから」
シャリファンの持つ飛笛と同じ音を響かせて、黒い男は地平線の彼方へと去っていく。
集落を襲っていた狼の群れも、彼を追うようにして走っていった。
一人、残されたものは、といえば。
「リズルカ……」
シャリファンは呆然としたまま、その名前を唇に乗せる。
どうして、と問う声は言葉にならない。
――それは、死んだはずの義兄の名前だった。




