2・黒き悪魔(ガル・マーラー)
天幕に招かれたシャリファンとサーナは、羊肉を茹でたものと乳茶で歓待された。
「あー……なんつーか、生き返るなぁ」
器を手に、サーナはほうと息を吐いた。
「ここしばらくろくなもん食ってなかったから、あったけーもんは本当にありがたい」
「土地神様にそこまで喜んでいただけて、こちらとしても光栄です」
快活とした笑みを浮かべてサーナの器に乳茶を注ぐのは、族長であるガラの妻、ラエラだった。
「集落を……娘を助けていただいて、本当に感謝しております。さぁ、シャリファン様ももう一杯どうぞ。羊肉もまだまだありますし、いかがですか」
「ありがとうございます、奥方。ですが、私のことは呼び捨てで結構。そこの土地神はともかく、私はただびとですから」
ナイフで器用に羊の肉を剥ぎながら、シャリファンは小さく首を振った。
「それに、草原を生きるものならば、互いに助け合って生きるものです。ときには争いも起こりますが、今は冬の近付く次期。アラワ山への行程は、皆が等しく辿るのですから」
ガラハーンの草原に生きる遊牧民は、例外なく北のアラワ山を越冬地とする。
そのため、人々は秋の終わりごろから一斉に北を目指した。
集落を持たないシャリファンとサーナも例外ではない。
「しかし、今年はひどく狼が多いんだな。あれじゃ、家畜も相当な被害を受けてるんじゃねぇか?」
羊肉を頬張りながら、サーナが表情を曇らせた。
「そのことなのですが……」
ラエラが表情が曇らせる。
と、天幕の入り口が開き、大きな体を縮めるようにしてガラが入ってきた。
「お待たせして申し訳ない、お客人」
「いや。食事をいただけて感謝している。……と、そちらは」
族長に続いて天幕に入ってきた人物を目にして、シャリファンは目を瞠った。
「ルル・イシク。この集落の土地神じゃ」
シャリファンと同じ年頃に見える少女は美しく微笑んだ。
しかし、サーナと同じく、その長い髪と瞳は薄灰に染まっている。
「本来ならば己の天幕から出ることはないのだがな。『お仲間』がおると聞いて、いてもたってもいられなくなった。無理を言ってガラに連れてきてもろうたのよ」
他の人々と同じように不織布と毛皮の服を着ていたが、締められた帯は緑だ。
見れば、ガラやラエラ、安心しきったのか寝台で眠りに落ちたネルグイも皆、帯の色を同じくしていた。
草原において、帯の色は大きく三つに分けられる。
古来より、草原に住む三種の部族のどれに属しているかを示すためだ。
同色の帯を持つものは氏族として、より固い絆で結ばれるが、違うからといってやみくもに争うわけでもない。
戦とは、土地の所有について争うもの――つまりは家畜の餌を巡って行われるものだからだ。
「そちらは赤の部族のものか。旅をしている土地神など初めて会うたが……我よりも随分と若い様子じゃな。名は、なんと」
「サーナ。このシャリファンって娘の爺さんの爺さんくらいの代で選ばれて、名をもらった。あんたはひどく若く見えるけど、俺なんかよりも年よ……経験豊富そうだな」
年寄り、と言いかけてサーナは止める。
ルルは満足そうにふふんと笑った。ただそれだけで、外見相応の幼い顔つきになる。
「ふふ、それでよい。……しかしおぬし、よく食べるな。我は朝の乳茶一杯がせいぜいじゃが、他の土地神というのはそういうものだったか?」
「いんや、俺の場合は特別だろ。なんたって集落持たずの土地神だからな。その分を食って補ってるんだろうさ」
本来ならば、土地神は集落全体で一人を養うものだ。サーナは肩をすくめる。
「それに、さっきは久々に本気で剣も振るっちまった。なぁ、シャリファン。あんだけ立ち回れば腹も空くよなぁ」
「確かに、あれだけの数の獣を相手にしたのは久しぶりだが……少し、気になることがある」
「気になること……と、いうと?」
ルルはそのとき初めてシャリファンを見た。その瞳が、どこか愉快そうに光る。
「いくら狼が賢くても人の多い集落を襲うのは稀だし、それも昼日中からだなんてもってのほかだ。それに、状況判断がひどく人間くさい。野生のそれならば、焦るよりも先に退くはずだ」
「確かに、俺もそれは感じた」
シャリファンの言葉に、サーナもうなずいた。
「それに……なんつーか、嫌な感じがあったんだよな、最初に見たとき」
「ちょっと待て、そんなこと聞いていないぞ」
シャリファンのまなじりがつり上がった。
「聞いていれば、いつも以上に用心したものを。何故、すぐに話さない」
「話す前にお前が行っちまったんだろうが。ったく、頭に血が上る性格、少しはどうにかしろよ」
「なにを……!」
「落ち着いてください、シャリファン殿」
そのまま言い争いに発展しようとしていた二人を宥めたのは、苦笑を浮かべる族長・ガラだった。
取り乱したところを見せてしまった、と、シャリファンは思わず頬を染める。
「あなたがそうして走ってきてくれなければ、私の娘は死んでおりました。それに……あなた方もそれに気付いていたというのならば、お話しなければならないことがあります」
ガラの言葉に、ルルが笑みで喉を震わせた。
「ふふ……ガラよ、年寄りの言うことには従うものじゃと、いつも言うておろう」
「ええ、そのとおりのようだ、ルル・イシク。お客人は、随分な腕をお持ちだ。このまま送り出すには惜しい」
「……それは何の話ですか、ガラ殿」
「シャリファン殿、サーナ・イシク。……あなた方に、助力をお願いしたいのです」
族長は、深々と頭を下げた。
思いがけない事態にシャリファンは慌てた。
見れば、族長の妻であるラエラも、それどころか土地神であるはずのルルでさえもが、自分たち二人に頭を下げているではないか。
「どうか顔をお上げください、皆様。私には、あなたがたがそうしてくださる理由がわからない。これでは困ってしまう」
「まあ、それもそうじゃな」
ルルはあっさりと顔を上げた。
もとより人の上位に存在するものだ、今の行いは、ほんの戯れに過ぎないのだろう。
しかし、ガラとラエラは一向に顔を上げようとしなかった。
「……シャリファン殿は、『黒き悪魔』をご存知か」
深々と頭を垂れたまま、族長はそう尋ねる。
その名を耳にした瞬間、シャリファンはす、と表情を引き締めた。
「それは……草原に生きていれば、知らぬものの方が稀です。あのもののおかげで、どれほどの集落と民、家畜が奪われたか……!」
憎々しげに、そう呟く。
――『黒き悪魔』。
それは、草原におけるひとつの災厄の名だった。
あやしげな術を使い、肉食の獣や死人を従えると噂されたそれは、一人の男の姿をしているという。
他の遊牧民と同じように不織布と毛皮の服を着て、しかし三つの部族のどれにも属さない黒い帯を締めたその男は、気まぐれに集落を襲い、人命や家畜の命を奪うと、その亡骸を野ざらしにして貶めた。
この数年で恐るべき広さにとどろいたその名を聞くと、シャリファンの胸の中は憎悪で暗く染まる。
四年前、シャリファンの暮らしていたエルトーの集落は、正体不明の一群に奇襲を受けた。
一人の男と、多数の獣によって不意を突かれた集落は壊滅し、生き残ったものはほとんどいなかった。
シャリファンは、数少ない生存者の一人だ。
少し遅れて、草原には『黒き悪魔』の名が轟いた。
シャリファンの集落を襲ったものと同じようなその行いに、彼女はそれこそが自らの集落を襲った仇なのではないかと考えていた。
「……そういうことならば、この力、集落のため存分に振るいましょう」
シャリファンは、迷うことなくそう答えた。
ガラハーンの草原は広大だ。シャリファンは何度となく『黒き悪魔』を追ったが、かの災厄はいつも、目的である殺戮を行ったのちに姿を消していた。
――しかし今、彼はシャリファンの目の前に自ら姿を現そうとしている。
かのものが自分の集落を襲ったものかどうか、今回こそ見極めなければいけない。
もしもそれが仇ではなかったとしても、草原に生きるものとしてその行いを許しては置けないのだから。
「では……我らと共に、戦っていただけますか」
族長・ガラはぱっと顔を上げた。視線は、安堵したようにシャリファンをとらえる。
「ああ」
うなずこうとしたシャリファンだったが。
「……やめとけよ、シャリファン」
冷たく尖ったサーナの声に、それを阻まれた。
「いい加減、敵討ちなんて忘れちまえ。若い娘がそこまで必死になるようなことじゃねぇだろ」
「悪いが、いくら私の土地神の言うこととはいえ、それだけは聞き入れられない。お前だって知っているはずだろう。私が、どういう人間であるかは」
シャリファンはといえば、生真面目な顔で首を横に振った。
こういった会話は、今まで何度となく交わしている。
そもそも、サーナはシャリファンの保護を自ら申し出たが、その生き方には常に否定的だ。
「お前は女なんだから、もっと女らしく生きたって誰も文句は言わないだろう。……まあ、だからって、俺の言葉くらいで考えを曲げてたら、ここまで来ることもなかったよなぁ」
サーナはやれやれ、と大仰にため息をついた。それから、
「……ま、好きにしろ」
「すまない。感謝するよ、サーナ・イシク」
シャリファンは少し笑った。天幕の中、張りつめていた空気も同時にゆるむ。
「というわけだ、族長殿。幸いにして私の土地神も許してくれたことだし、今日からしばらく、私はあなた方のためにこの剣を振るうと約束しよう」
「……感謝する、シャリファン殿、サーナ・イシク」
ガラは再び、深々と頭を下げた。




