3・終焉(2)
シャリファンが駆け寄ったとき、リズルカはまだかろうじて意識を繋いでいた。
「リズ、大丈夫か、リズ!」
シャリファンは慌ててその体を抱き起こした。
けれど彼は、かすかに笑って首を振る。
「僕は助からない。……あの忌神の言ったことは、本当だ」
ふ、と短く息を吐いた。
「……それに、助かるべきではないよ。僕はそれだけのことをしてきた。それくらい、痛いくらい理解してるんだから」
「けど、それはお前のせいじゃない! すべてはあの忌神が引き起こしたことだ!」
「たとえそこにわずかでも己の意思が介在していたならば、責任は公平に負うべきだよ。……僕は間違いなく復讐を望んでいた。それは、到底許されることではない」
「だが、しかし……!」
「君も、わかってるはずだ。……ね、ファン」
優しい声だった。
ずっと求めていたはずのそれは、間違いなく、あの日失ったリズルカの姿そのものだった。
「それでも僕の死を悲しんでくれるなら……これを、受け取ってくれるかな」
と、リズルカは己の懐から取り出したそれを、シャリファンへと差し出した。
「これは……首飾り、か」
磨き上げられた薄青の玉が幾重にも連なる首飾りを受け取り、思わずシャリファンはリズルカが先ほどまで手にしていた剣に視線を移した。
「……そう。僕は、剣を選ばなかったんだ」
リズルカの言葉を、シャリファンは何となく察していた。
一度、ガラが彼の剣を折ったことがある。
けれど。石は、草原を支配する大いなる力の片鱗だ。
そこから産み出された剣が折れるなど、あってはならないことだった。
「……大好きな女の子が、いた。すべてが終わったら、喪われたその子に首飾りを捧げて、僕も死ぬつもりだった」
「止めろ、リズ……私はここにいる、ここにいるから! だから……」
「うん。……だから、安心して眠れるよ。アラワ山に流しただけでは本当に君の元に届くのか、少し不安だったんだ。だから……」
「行くな、リズ! お願いだ、お願いだから……!」
シャリファンは、リズルカの体を強く抱きしめた。腕の中の体はしかし、徐々に力を失い、冷たくなってゆく。
「最後に、君に会えてよかった」
囁くようにそう言って、それきりリズルカは目を閉じた。
声にならない声が、絶叫が、高い空に吸い込まれる。
腹が立つくらいに、青い空だった。
「……おい」
どれくらい時間が経ったのかわからなかった。
ただ、空は吸い込まれそうなほど黒く、辺りはしんと静まり返っていた。傷口の痛みを麻痺させる、冷え切った空気で満ちていた。
不意にサーナに肩を叩かれて、シャリファンはゆっくりと顔を上げる。
「そろそろ立て。……リズルカを、埋葬しなきゃいけねぇだろ」
「……嫌だ」
駄々を捏ねるように、シャリファンは小さく首を振った。
「おい、馬鹿娘……」
「私のことは、放っておいてくれ……!」
シャリファンの双眸から、大粒の涙が零れ落ちた。
「生きていてくれたと思ったのに……それがどんなかたちであれ、それだけでよかったのに……!」
「……ああ、そうだな」
サーナは屈み込むと、シャリファンの頭を優しく撫でた。
「けど、それはリズルカも同じことを思ってた。だから、お前は生きなきゃなんねぇ。……俺との契約もあるだろ?」
「残された時間をお前と共に生きる、か……」
呆然と呟く。
「…………悪いが、それは無理だな」
囁きのようにかすかに、けれどはっきりと言い放たれた言葉。
と、次の瞬間。
シャリファンはサーナを突き飛ばすと、懐から食事の際に使う短剣を取り出し、それを自らの首元にあてがった。
「止めろ、この馬鹿!」
「無理だ。……最初から、こうするつもりだった」
自嘲するように、シャリファンは口元を歪ませた。
「お前に嘘をついたこと、悪いと思っている。……けれど、駄目なんだ」
ゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏に残るたったひとつの面影は、先ほど永遠に失われてしまった。
「私の幸せにはリズが必要で、誰もその代わりにはならない」
だから、剣を選んだことを後悔しなかった。
思い描いた幸福は永遠に失われ、女としての道に、シャリファンは何の意味も見出せなかったのだ。
「……すまなかった、サーナ。お前の力があれば、これからの冬、義母上や妹にまみえることも叶うだろう。どうかこれからはあの二人にその加護を与えて欲しい」
「んな都合のいいこと、できるはずねぇだろう! 俺は大切なものを守れなかった、駄目な土地神だ! だからこそ、最後に残ったお前だけは守ってやりたかった! 幸せになって欲しかった! それなのに……」
訴えるように言葉をぶつけるが、シャリファンはただ黙って首を振るだけだった。
首筋には変わらず、短剣が押し当てられている。
やがてサーナは、あきらめたように息を吐いた。
「……なら、仕方ねぇ」
「サーナ……」
ほっとシャリファンは息を吐く。
しかし、ぐっと力を込めた手を押し留めたのは、次の瞬間に発せられたサーナの言葉だった。
「お前を殺すわけにはいかないんだ。……それなら、失ったものを取り戻すしかねぇだろ」
あからさまな舌打ちを響かせて、それからサーナは乱暴に頭を掻いた。
「知ってのとおり、俺は土地神だ。草原の大いなる力によって選ばれ、その理を操ることができる。ある程度、だけどな。しかしまあ、首飾りを持たないお前に子どもを与えてやるくらいのことなら容易かったんだぜ」
「サーナ、私は……」
「わかってる。リズルカ以外の男なんて眼中にねぇんだろ。……要するに、リズルカを戻せばいいわけだ」
「サーナ……?」
「なぁ、シャリファン。契約は残ってるんだぜ。……お前が喪われるその日まで、しっかり俺に付き合ってくれよ?」
「何を言って……!」
シャリファンの言葉が遮られた。目を開けていられないほどに強い光が、サーナの体から迸ったためだ。
光はその輝きと同じくらい強い力を有していた。
外気に晒されていたシャリファンの頬や額がびりびりと震える。
何かが渦を巻き、猛烈な勢いで流れ――やがて、治まった。
シャリファンがゆっくりと目を開くと、サーナの姿は忽然と消えていた。