3・覚悟
翌日の朝早く、シャリファンたちの天幕を訪れた人物がいた。
「おねえちゃん……お水をくみにいきませんか」
ネルグイだった。
泣き腫らした赤い目をしていながら、幼い少女は笑顔を浮かべて自分を見つめている。
そこには一片の恐れもない。
「……ああ」
シャリファンは思わず言葉を失う。
一晩中考えて、それでも答えは出なかった。
けれどこうしてネルグイの顔を見てしまえば、彼女に対して憎しみを抱く気には到底なれない。
他愛のない話をして、あどけなさに心を揺らして――のんびりと並んで歩きながら、不意にシャリファンは小さく笑う。昔、リズルカともこうして共に水汲みに出かけていたものだ。
(…………もし、彼女と同じ立場に立ったのがリズルカや妹だったら)
夜明けの光が満ちた草原を歩きながら、思う。
「……ああ、そうか」
息を吐く。考え込む必要など、どこにもなかったのだ。
悩むまでもなく、おのずと答えは出ていた。
シャリファンが気付こうとしなかっただけだ。
近くの川で水を汲んで戻ると、天幕のそばには二人を心配するようにガラが立っていた。
「お帰り、ネルグイ」
「……父さま! 羊さんのごはんはいいの?」
「ああ。私がいない間にネルグイがまた怖い目に遭ってはいけないからな、今日は他のものに頼んだんだ。それよりも、シャリファン殿の手伝いはきちんとできたか?」
「ええ、族長殿。ネルグイはとてもよく働いてくれました。……それよりも」
シャリファンは小さく微笑むと、おもむろに水桶を地面に置いた。
「族長殿が心配しておられるのは……こういうこと、でしょうか」
腰に差していた剣をすらりと抜き放つと、シャリファンはネルグイの喉元にその切っ先を突き付けた。
「……え?」
水桶を両手で抱えていたネルグイは、不思議そうにシャリファンを見上げた。
「どうしたの、おねえちゃん」
「……私には、どうしても斬らねばならぬものがあってね。すまないが、少しだけ大人しくしていてくれないか」
シャリファンの言葉に、ネルグイは素直にうなずいた。
一方、ガラはといえば。
「お止めください、シャリファン殿……! 剣を向けられるべきは私であって、その子ではありません!」
「……少し、黙っていてください、族長殿。彼女が大人しくしていれば、傷ひとつ負わせることなくあなたの元にお返ししましょう」
「なっ……! いったい、何を……!」
平静を失うガラにそれ以上言葉を返すこともなく、シャリファンは剣を振り上げ、目の前のネルグイに向かって勢いよく振り下ろした。
「――――っ!」
言葉にならない悲鳴が上がった。
ふわん、とネルグイの前髪が剣の起こした風に揺れて、やがて止まる。
「…………これで、いいの?」
ネルグイは、恐れることもなくじっとシャリファンを見上げていた。
振り下ろされた剣はシャリファンの言葉どおり、幼い体を傷つけることなく空を斬り、やがて役目を終えたとばかりに再び鞘へと収められる。
「ああ。……怖い思いをさせてすまなかった」
「ううん、平気だよ」
ネルグイは、花開くように笑う。
「おねえちゃんは怖くない。怖かったことなんて、一回もないよ」
「……そうか」
つられるように、シャリファンも笑った。
それからシャリファンは族長の方に向き直ると、まっすぐに彼の瞳を見据えた。
「族長殿。……我が憎しみは、この一度で断ち切りたく思います」
「……それで、よろしいのか」
「ええ」
重苦しいガラの問いに、シャリファンははっきりとうなずいた。
「争いは、草原を生きるもののさだめ。それがどんな行いであれ、誰かが生きるために引き起こされたものだというのなら、納得しなければいけないと……私は、思うのです」
それに、と心の中で呟く。
(同じ立場に置かれたなら……私も、きっと)
「……感謝します、シャリファン殿」
ガラは、深々と頭を下げた。
「頭を上げてください、族長殿。それよりも、『黒き悪魔』の次の襲撃に備えるよう、皆で話し合う必要があります。アラワ山はもはや間近にあり、あの場所までは『黒き悪魔』も追っては来れません。……族長殿もおわかりのはず」
「ええ。あの災厄は、今にも我らを仕留めようとどこかで目を光らせているでしょうな。……落ち着いたら、私の天幕においでください」
そう告げると、ガラは水桶を抱えたネルグイと共に己の天幕に戻っていった。
「……よう。お前、本当にそれでいいんだな」
二人の姿が見えなくなった頃、サーナはひょっこりと天幕の入り口から顔を覗かせた。
「ああ」
シャリファンは、かすかに笑ってうなずく。
「いいんだ、あれで。……義母上には怒られるかも知れないが、それでも」
「そっか。……じゃあ、娘がひとつ大人になった記念ってことで、お父さんがいいことを教えてやろう」
「誰がお父さんだ、馬鹿が。外見を見てからものを言え」
「まあそう言うなって。……リズルカと一緒にいたティグナ、な。あれ、ネルグイと同じ匂いがするぜ」
「……どういうことだ」
思わぬ言葉に、シャリファンは訝しげに目を細めた。
「ネルグイは一度、散々つけ回されてるだろ。そういうやつには少しだけど残り香があるんだ。自分を狙ってた忌神の気配……って言えばわかるか?」
「まどろっこしいな、お前の言い方は。……つまり、こういうことだろう」
シャリファンは唇を皮肉に歪める。
――リズルカは、(ティグナの姿をした)忌神と行動を共にしているのだ。
知ってか、それとも知らずのことか。
「……ったく、こういうときまで母親に優しいってのはどうかと思うぜ」
サーナの言葉に、まったくだ、とシャリファンも肩をすくめる。
ふと北方に目を向ければ、高くそびえるアラワ山は昇り始めた日の光を受けて、その輪郭をひときわ大きく主張するように輝いていた。
冬は、刻一刻と近付いている。