1・真実
夜半過ぎに、ネルグイはようやく寝付いてくれた。
『黒き悪魔』と対面し、その手に握る刃で命を奪われそうになったという事実は、彼女に暗い恐怖を植え付けている。
母であるラエラはそばで寄り添い、彼女がうなされるたびに優しくその額を撫でた。
「……場所を変えるかの」
心配そうにその様子を見守っていたルルは、やがてそう提案した。
「いえ。娘の未来に関わる話です。……できれば、ここで」
ガラの言葉に、ラエラも重々しくうなずく。
「そうか。……では、ここで話すとしよう」
「はい」
シャリファンも同じようにネルグイを見守っていたが、やがてゆっくりとうなずく。
傍らには、彼女を守るようにしてサーナが立っていた。
「……始まりは、ネルグイの生まれた日の夜でした」
ガラが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める――。
生まれ落ちたその日から、ネルグイは忌神に魅入られていた。
名無し、という意味を冠された名前を与えられてもさしたる効果はなく、夜毎、忌神はネルグイの元に現れた。
外見はその日ごとに違ったが、すべて美しい女の姿をしていた。そうして油断を誘うのだと、のちに知った。
どれだけ周囲を警戒しても、忌神は毎夜、蕩けそうなほどに艶然とした笑みを、あるいは処女のごとき優しげな微笑を浮かべて天幕を訪れた。
姿だけではなく、その声にも不可思議な力を持ち、ガラは一度だけ魅入られ、ネルグイを自らの手で渡しそうになったことがある。
ラエラが、そしてネルグイが激しく泣いて彼の正気を取り戻さなければ、今頃どうなっていただろう。思い返すたびに背筋が凍る。それほどに、忌神の力は強力だった。
忌神を斬ることはできなかった。
剣を向けると、その意思を跳ね返すかのように魅了の力が強まる。
ガラが、ラエラができることはといえば、ネルグイを奪われないようにと毎夜、寝ずの番をすることだけだった。
けれどその日、変化は急に訪れた。
「どうしてもネルグイをわたくしに渡さないというのであれば、代償をいただきたく思いますわ」
艶然と笑う女の姿をしていた忌神は、おもむろにガラへとそう告げた。
「そうですわねぇ……あなたの、ネルグイへの愛を示していただきたいの」
かのものが提示した数は、ゆうに集落ひとつ分はあるほどの数の人間の命だった。
「娘を愛しているのでしたら、それくらいは容易いことでしょう?」
その、途方もない取引に、けれどガラは応じてしまった。
忌み名のおかげか、かろうじて忌神の影響を受けることなく、安らかに眠る娘を見下ろして――ガラはやがて、唸るような声で忌神に了承を告げた。
「……ラエラは、知らないことです。私が個人的に取り交わした契約ですから」
ガラは、シャリファンにそう語った。
事実、ラエラはぽつぽつと話し続ける夫の横で、細かに体を震わせている。
「そうして、私は一人、誰にも知られぬようにと集落を離れました。一人では数に届かないだろうと、忌神は狼の群れを寄越しました」
「……そうして選ばれたのが、私の集落だった、と。そういうこと、ですか」
シャリファンの問いに、ガラは沈黙を以って肯定した。
「あなたがその生き残りだ、と、気付いたのは『黒き悪魔』とのことがあってからです。……いくら謝罪したところで、到底許されるような行いではありません」
ガラは、ゆっくりとかぶりを振った。
「私にはあのとき、あれだけしか道がなかったのです。……だから、悔いてはいません。あなたが仇を討つと言うのであれば、ネルグイを守るために戦います。そして、もし負ければ潔く殺されましょう」
「そのときは、我も共に逝こうぞ。元はといえば我が忌神の侵入を防げなかったことが悪いのだからな」
ルルが、困ったような微笑を浮かべた。
「……こういうわけじゃよ、シャリファン。そなたの幼なじみとやらはどこぞからこの話を知り、だからこそ、忌み名を持つ人間のいる集落ばかりを狙ったのじゃろうな。つまりのところ、『黒き悪魔』の災厄も我らが原因か。……いやはや、なんとも罪深いものじゃのう」
「笑い事ではありませんわ、ルル・イシク……!」
唐突に、ラエラが泣き崩れた。
「旦那様も、どうして、私に何も言ってくださらなかったのですか。今までずっと私ひとりだけ、今まで何も知らずに……」
「ラエラ殿……彼らは、あなたにつらい思いをさせまいとしていたのではないですか」
シャリファンは思わず、泣き崩れたラエラに手を差し伸べていた。
「ええ、そうかもしれません。……けれど、私はネルグイの母です。この子を守るために罪を犯したというのであれば、その重さは私にも等しく降りかかるものであるはず」
ラエラは、泣き濡れた瞳でシャリファンを見つめた。
「その剣を夫やルル・イシクに振るうのであれば、私も共に殺してください、シャリファンさん。夫の行為を、私は否定することができません。同じ契約を持ちかけられたならば、私も同じように答えるでしょう」
「ラエラ殿……」
「子どもとは、それほどに可愛いものなのです……首飾りを持たないあなたには、理解できないかもしれませんが」
「おい!」
サーナが声を荒げた。ラエラの発言にではなく、シャリファンに対してである。
「……っ。……すまない、サーナ」
シャリファンは詰めていた息をほぅ、と吐いた。
無意識の内に、剣に手が伸びていた。
サーナが止めてくれなければ、今頃は衝動のまま誰かに斬りかかっていたことだろう。 手のひらは汗でぐっしょりと濡れていた。
ラエラは、はっと顔を歪める。
「すみません、シャリファンさん。……元はといえば、あなたにつらい運命を背負わせたのは私たちですのに……それなのに……」
「構いません、奥方」
シャリファンはかすかに笑う。痛みを堪えたような、寂しい表情で。
「ですが、ネルグイを守護する件については、少しだけ考える時間をいただけますか。……突然のことで、私も混乱しているのです」
シャリファンは眠っているネルグイへと視線を向けた。
可愛らしいネルグイ。
けれど、彼女ひとりのために、シャリファンの大切にしていたすべてのものが失われた。
真に憎むべきはネルグイをつけ狙った忌神だ。
けれど、年月と共に膨れ上がった憎しみは、シャリファンの中で行き場を失い、ぐるぐると胸の奥に渦巻いている。
――許すことはできないだろう、と。
ただそれだけははっきりとわかる。思う。
「許せないとお思いでしたら、ためらうことなく私に剣を向けてくだされればよいのです。……しかし、今宵はもう眠った方がよろしいでしょう。私も、妻も……あなたも、ひどく疲れているはず。安らかな眠りを、シャリファン殿。どの口が言うのかとお思いでしょうが」
ガラの言葉に小さくうなずき、シャリファンは天幕を後にした。
少し遅れてついてきたサーナが、大仰なため息を漏らす。
満天の星の下、沈黙は重く世界に横たわっていた。