婚約破棄は構いませんが、出ていくのはあなたです
「君の荷物は、明日までに片づけてくれ」
黄色い壁の前に、木箱が三つ並んでいた。
いちばん上の箱から、刺繍籠の持ち手が出ている。その隣に本が積まれ、窓辺に置いていた小さな花瓶は、布にくるまれて床へ寝かされていた。
私は扉のところで立ち止まった。今日は、この部屋のカーテンを選びに来たのだ。
「どうして、私の物を箱に?」
「先に話すべきだったね。オデット、君との婚約を解消したい。ほかに、結婚したい人ができたんだ」
ヴィクトル様は、窓の外から私へ顔を向けた。
朝の光が、彼の肩に当たっていた。ここで二人でお茶を飲んだら気持ちがいいだろうと、つい先週考えた場所だった。
私は返事をしようとして、箱を見た。先に話すべきだった。それだけで、私の荷物が箱へ入っている理由になるのだろうか。
「お相手は、ルシール嬢だ。お父上ともお話ししている。君のご両親には、僕の父から正式に申し入れるよ」
「……私には、もう、決まったお話をなさっているのですね」
彼は少し眉を寄せた。責める言い方をされたと感じた時の顔だった。
いつもなら、そんなつもりではないのですと、私が先に言っていた。今日は声が出なかった。胸のあたりが冷たく、手袋の中で指が震えている。
「突然で悪いとは思う。ただ、彼女はこの部屋を気に入っていてね。壁の色を変えたいそうだから、君の物は早めに引き取ってほしい」
「この部屋へ、その方を?」
「先日、家を案内したんだ。結婚したら王都で暮らすことになるから」
彼の後ろで、黄色い壁が明るかった。
祖母と私が、壁の色見本を並べて選んだ色だ。冬でも朝食がおいしく食べられそうね、と祖母が笑った。その時のことを、ヴィクトル様にも話した。
私がここを自分の部屋にするのを楽しみにしていると、知っていたはずだった。
「あなたは、ここで、その方と暮らすおつもりなのですか」
「もちろん、君が訪ねてきたい時は相談に乗るよ。ご実家も近いし、思い出のある家だろうから」
「私の家です」
ようやく出た声が、思ったより大きかった。
ヴィクトル様は口を閉じた。
この家は、私が二十一歳になった時、祖母から譲り受けたものだ。
名義も私に移してある。南の領地へ住まいを移す祖母が、気の合う人を招いて暮らしなさい、と鍵を渡してくれた。
結婚後はここを二人の住まいにしようと決め、ご実家の屋敷が修繕中の彼に、先に住んでいただいていた。今月十五日の正午までという覚書も交わしている。期限までは、あと十日だった。
「それは分かっている。ただ、僕の家の工事がまだ終わらないんだ。君も、今すぐここへ住む必要はないだろう」
「必要がなければ、婚約をやめたあなたと、別の奥様にお貸しするのですか」
「別れたからといって、何もかも取り上げなくてもいいじゃないか。僕は君に、何も恨んでいないよ」
恨むことなど、この方にあっただろうか。
私はまだ、彼から何一つ取り上げていない。部屋から出されたのは私の本で、花瓶で、結婚してから使おうと思っていた刺繍籠だった。
籠の中には、縫いかけの卓布があった。
食堂の大きな卓に合うものが欲しくて、端に小さな葉を刺していた。祖母から引き継いだ食卓に、夫になる人と向かい合って座るつもりだった。
それを彼が、ほかの荷物と一緒に片づけさせた。
「ルネ夫人を、呼んでいただけますか」
扉の外にいた女中へ頼むと、ヴィクトル様が苛立ったように息を吐いた。
「人前で騒ぎにするつもりかい。君だって、もっとよい縁談があるかもしれない。家くらい、気持ちよく使わせてくれても」
「家くらいとおっしゃるなら、ご自分でお探しください」
彼は私を見た。
家政婦のルネ夫人が来るまで、私は箱のそばに立っていた。床から花瓶を拾うと、布の端にかかった手が震えた。落としたくなくて、両手で抱えた。
「婚約破棄は構いませんが、出ていくのはあなたです。十五日の正午までに、お荷物を運び出してください」
「オデット。今のは、売り言葉だろう」
「もともと、その日までお貸しするお約束です。延長はいたしません」
ルネ夫人が私の隣へ来た。
祖母の頃からこの家に勤めている人だ。箱の中を見て、申し訳ございません、と頭を下げた。
「お嬢様にはお話ししてあると、おっしゃいましたので」
「これからは、私に確かめてください。この部屋の物は、戻していただきたいの。壁も、変えません」
夫人が頷くと、ヴィクトル様が私の腕へ手を伸ばした。
私は花瓶を抱えたまま、一歩下がった。
「君を追い出すという意味じゃない。言い方が悪かったよ」
「私の物を出して、次の奥様を入れるとおっしゃいました」
彼の手が下がった。
窓の前へ行き、花瓶を元の場所へ置いた。何も挿していない小さな花瓶だった。来週には花を飾りに来ようと、昨日まで考えていた。
今は、そこへ置いて立っているだけで精いっぱいだった。
* * *
実家へ帰り、母にどうしたのと聞かれた時には、まだ泣かなかった。
婚約を解消したいと言われたこと、別の相手を家へ案内していたことを話した。母が私の手を握り、父が呼ばれて応接間へ入ってきた。
父にも、同じことを話せた。
でも、夕方、母と一緒に自分の部屋へ戻り、手袋を外した時に、止まらなくなった。
花瓶を抱えていた手に、布の感触が残っている気がした。片づけなければいけない荷物の中に、自分まで入れられたようだった。
一年半前、彼を初めてあの家へ招いた日には、庭の木にまだ葉が少なかった。
食堂へ入った彼が、広いな、と声を上げた。夫婦二人では持て余すかしらと私が言うと、友人を呼べばいいと笑ってくれた。
その返事が嬉しくて、私は食卓の端へ手を置き、何人座れるか数えた。
結婚したら、彼の友人と私の友人を、一緒に招く。
話が長くなっても、私だけ帰りの馬車の時刻を気にしなくていい。最後のお客様を見送ったら、二人で椅子を戻し、今日の話の続きをする。
そんな夜が欲しかった。
同じ家で、ほかの女性とならそうできると言われた。
私はいなくなればいい。部屋も家具も、暮らしも残して。
「私だけ、要らないんだわ」
口にした途端、息が詰まった。
母が抱き寄せてくれたので、その肩へ顔を押しつけた。泣きながら、悔しい、嫌だ、と何度も言った。婚約破棄は構わないと言ったけれど、こんな扱いをされて平気だったわけではない。
「お母様。あの家へ、行きたくなくなってしまったの」
「今夜は、ここにいましょう」
「違うの。明日も、その先も、私の家なのに……」
母は私の背へ腕を回し直した。
早く忘れなさいとも、まだ話し合えるとも言わなかった。声がかすれるまで泣いてから、ようやく私は顔を上げた。
翌朝、父のところへ行った。
相手の伯爵家から、正式な婚約解消の申し入れが届いていた。私は受け入れたいと答え、家についても期限を守っていただくよう頼んだ。
「家のことは、少し落ち着いてから考えてもいい。借り手として家賃を納めてもらう方法もある。住みたくない家へ、急いで戻る必要はないよ」
「私が嫌になったから、あの方のものにするのですか」
父は驚いた顔をした。
私も、自分の声が尖っていることは分かった。それでも、言い直して取り繕いたくはなかった。
「毎月あの方たちの家のことで、連絡を受けるのは嫌です。屋根を直してほしいとか、部屋を変えたいとか。そこで幸せに暮らすために、また私が返事をするのは」
「そうか。家賃を取れば済む話ではなかったね」
父は机の上の手紙を閉じた。
もう一度、貸し続けた方が得だとは言わなかった。
「家は返してもらいます。そのあと、いつ住むかは、私が決めたいです」
父にそう頼んでから、祖母へ手紙を書いた。
婚約が終わることと、家を返してもらうこと。祖母からもらった家なのに、扉を開けるのが怖くなったことまで書いたら、また涙が落ちた。
それでも、返事が来るまで待つとは書かなかった。家へ行く支度をするため、封をした便箋を母へ預けた。
* * *
黄色い小部屋には、棚へ戻された本と、椅子に載せた刺繍籠があった。
ヴィクトル様は仕事へ出ていた。ルネ夫人と一緒に戻された物を確かめると、私の荷物はすべて揃っていた。
籠から卓布を出し、窓のそばで広げた。葉の模様は、まだ一辺にしかない。
「こちらも、お持ち帰りになりますか」
夫人の問いに、私は首を横へ振った。
卓布の皺を伸ばして畳み直し、籠へ戻した。
「使いたいの。縫い上がったら、あの食卓で」
言ってから、涙が出た。
ルネ夫人はしばらく黙っていて、では、お茶をこちらへお持ちしますね、と部屋を出ていった。私は椅子に座り、泣き止むまで黄色い壁を見ていた。
窓は東を向いていた。彼が好きだと言う前から、私はこの部屋の朝が好きだった。
婚約の解消は、八日に両家で確かめた。
指輪はその席で返した。ヴィクトル様は気まずそうに受け取り、私が泣きも怒りもしないのを見て、最後には少し安心した顔をした。
私は彼の前で泣くのに疲れていただけだった。
家の返却については、父が最初の覚書を取り出した。
十五日正午。ヴィクトル様自身の署名がある。お父上の伯爵様は、息子が家の使用を続けられると考えていたことを、その場で初めて知ったらしい。
「修繕が済むまでなら、別の宿を手配できる。荷物をまとめなさい」
息子へ向けた声に、ヴィクトル様は返事をせず、私を見た。
私はその目を見返した。相手が困っているからと、ここで貸しますと言うために出席したのではなかった。
それから二日後、彼から手紙が届いた。
新しい家を用意するまで、もうしばらく貸してほしい。急に住所を変えれば仕事にも差し障る。君にも不都合のない条件を考える。
最後に、今までの仲なのだから、と書いてあった。
私は返事を一通書いた。
期限の延長はしない。返却後は自分が住む支度をする。荷物の運び出しについては、ルネ夫人と連絡を取ってほしい。
書いている間、何度も便箋を伏せた。あの方の頼みを断る文章は、一度書けば慣れるものではなかった。
十一日の午後、家政婦から知らせが来た。
翌日、ルシール様とお母様が、家を見にいらっしゃるという。ヴィクトル様は、食堂でお茶を用意するよう頼んだそうだ。
「お嬢様からのお返事は、届いているはずですが」
「ええ。父の使いが、直接お渡ししました」
私は受け取った手紙をもう一度読んだ。
家を用意するまで、と彼は書いている。それなのに、返す三日前の家を、次の奥様に見せる。
「夫人。私も同席します。お二人に、家の持ち主としてご挨拶したいとお伝えください。ヴィクトル様にも、そうお知らせして」
返事を待つ間、心臓が落ち着かなかった。
会えば、彼が選んだ女性がどんな人なのか分かってしまう。綺麗で、話が上手で、私よりずっと彼を喜ばせる方かもしれない。
それを見たくない気持ちと、私が黙っていればこの家まで彼のものになるような悔しさが、胸の中でぶつかった。
夕方には、先方から承知の返事が届いた。
家の持ち主とお会いできるなら、ぜひ、と。
その返事を読み、私は椅子に座り直した。先方に何が伝わっているのか、まだ分からない。だからこそ、明日は自分で話そうと思った。
翌日、ルシール様は淡い緑の服でいらした。
落ち着いた声の方だった。玄関で挨拶を交わす間、私は、手袋の指先を握りすぎないよう気をつけていた。
ヴィクトル様は、その少し後ろに立っていた。
「ロゼール家から、お借りになっているお家だったのですね」
食堂へ入ると、ルシール様のお母様がそう尋ねた。
私は食卓の窓側へお二人を案内し、向かい側へ座った。
「祖母から私個人に譲られた家です。ブレサック家のお屋敷の修繕中、十五日までお貸ししています」
「十五日?」
ルシール様が、ヴィクトル様を見た。
彼は椅子を引く手を止めた。やがて腰を下ろし、まだ細かいところを相談している最中です、と言った。
「僕の家の工事が延びていまして。ただ、こちらも使えるように」
「延長はお断りしました。今月十五日の正午に、お返しいただきます」
私は膝の上で両手を重ねた。
お茶を運んできた女中が、私の前へカップを置いた。その小さな音が、妙にはっきり聞こえた。
「でも、昨日のお手紙には、ここの窓の寸法を測っておくと。私の部屋のカーテンを注文するから、とお書きでしたわよね」
ルシール様は、私ではなく彼を見ていた。
ヴィクトル様の頬が赤くなった。
「オデットと、少し行き違いがあったんだ。気持ちが落ち着けば――」
「行き違いではありません。お貸ししないと、お返事をしています」
声が強くなった。
私はお二人へ頭を下げ、それから、ヴィクトル様の顔を見た。
「私がまだあなたを好きなら、最後には困らないようにしてくれると、そうお考えなのですか」
彼は唇を引き結んだ。
ルシール様のお母様がカップへ伸ばしかけた手を戻した。私は恥ずかしかった。新しい相手の前で、自分がまだ傷ついていることまで口にしてしまった。
けれど、その恥ずかしさを理由に引き下がったら、彼はまた、落ち着くのを待てばいいと思う。
「ここで暮らすのを、楽しみにしていました。あなたが帰ってきたら、私もここにいるつもりだったんです。その私を出して、部屋と家具だけ使わせてほしいと頼まれて、嬉しいはずがないでしょう」
ヴィクトル様が、オデット、と低い声で呼んだ。
私は止めなかった。
「私の家です。私が住みます。あなたの次の結婚のために、空けてはおきません」
ルシール様が、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
私は一度息を吸い、彼女にも伝えた。
「今日お越しいただいたのは、あなたを責めるためではありません。ただ、この家をお二人の住まいとして使うお約束は、できません。それを、私からお伝えしたかったのです」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、分かりました、と頷き、自分の母親を見た。お母様も頷いた。
「ヴィクトル様。あなたは、私が気に入ったなら壁を塗り替えてもよいとおっしゃいましたね。持ち主の方には、もうお断りされていたのですか」
「壁の話をした時には、まだ――」
「家を使うことを、今はお断りされているのですね」
彼は私を見た。
私が一言、そこまでではありませんと言えば、彼はこの話をいったん終えられる。そのことが分かって、以前なら助けたかもしれない自分に腹が立った。
私はカップを持ち上げた。冷めかけたお茶を飲み、黙って置いた。
「……そうだ。ただ、そんなに急いで追い立てなくても」
「最初のお約束の日です」
それ以上は、繰り返さなかった。
ヴィクトル様はお母様の方へ身体を向け、修繕中の屋敷のことを説明し始めた。お母様は、それは別の席で伺います、と答えた。
お二人はお茶を飲み終えると、席を立った。
ルシール様は黄色い部屋をもう一度見たいとは言わなかった。玄関で私へ挨拶をし、それから、ヴィクトル様には今日このあと母と一緒に話を聞きたいと伝えた。
彼は慌てて上着を取りに行った。
門のところで、ルシール様が私へ向き直った。
「この家で暮らすと、お聞きしていました。あなたが同意していないことまでは、知りませんでした」
「今日、お伝えできてよかったです」
それだけ答えると、彼女は頭を下げた。
友達になりましょうと言う気持ちは、私にはなかった。彼女にもなかったと思う。それでも、二人で彼の都合を守る必要はないことだけは、同じ場所で分かった。
馬車が行ってしまうと、私は門の内側へ戻った。
脚から力が抜け、庭の縁に腰を下ろしかけて、ルネ夫人に止められた。昨日の雨で、石が濡れている。
「椅子なら、中にございますよ」
「そうだったわね」
自分の家なのに、座るところを探していた。
おかしくて少し笑ったあと、やっぱり涙が出た。夫人は私を急がせず、食堂まで一緒に歩いてくれた。
翌日、祖母から返事が届いた。十五日の夕方から泊まりに行きたいという。私は何度も読み返し、ぜひ来てほしいと返事を書いた。返してもらった家へ、自分で最初の客を招く。その日を、少し楽しみに思えた。
* * *
十五日の朝、玄関には旅行鞄と衣装箱が並んだ。
ヴィクトル様の従者が荷札を確かめ、馬車へ運んでいる。ルネ夫人は戸口に立ち、家の物が混じっていないかを見ていた。
父も来てくれたが、私が頼んだ通り、話が終わるまでは食堂で待っていた。
ヴィクトル様は、最後の箱に蓋をするところを見ていた。
次の住まいは、伯爵様が手配した宿だそうだ。屋敷の修繕が終わるまで、そこで暮らすという。
「これで満足かい」
彼は箱から顔を上げずに言った。
私は返事をしなかった。喜んで頷くことも、そんなつもりではないと慰めることもできなかった。
「ルシールの家から、縁談は一度考え直したいと言われた。家のことだけじゃなく、僕の説明を信用できなくなったと」
「私には、この家をお貸しするお約束はできませんでした」
「分かっているよ。君は、そう言うだろうね」
彼は苛立ったように髪へ手をやった。
廊下の時計を見てから、食堂の方へ歩きかけたが、父がいると知ると、途中の椅子へ腰を下ろした。
玄関脇に置いた、木の椅子だった。
彼が初めて泊まる前の日、私はその椅子へ座ってみた。
帰ってきて靴を替える時に、使いやすいだろうかと思ったのだ。もう少し壁から離した方がよいと言われ、ルネ夫人と二人で動かした。
今、彼は何のためらいもなく、そこに座っていた。
「宿には、こんな玄関もない。仕事から戻っても、自分の部屋へ上がるだけだ」
彼の声が、少し小さくなった。
私は、ええ、とだけ答えた。
「君がここを気に入っていることは、知っていたんだ。ただ、実家にいる方が楽だろうと思っていた。食事も、身の回りのことも、ご両親が」
「私も、ここで暮らしたかったのです」
言い終えると、胸が痛んだ。
彼の顔を見ているのがつらくなり、黄色い小部屋へ続く廊下を見た。あちらの扉は開いていた。昨日、私がカーテンを選び終えた部屋だった。
「家のことを決めるたび、結婚が近づいたと思って嬉しかったです。椅子を置いたり、花を選んだりするのを、あなたのお世話が好きだからしていたのではありません。一緒に暮らすつもりだったからです」
「……そうだったね」
ヴィクトル様は、椅子の縁を見下ろした。
馬車の御者が、荷物を積み終えたと知らせに来た。彼は頷いたが、すぐには立たなかった。
「すまなかった。君の物を運び出させるべきではなかった。あんなふうに話せば、傷つくに決まっていた」
私は、彼の言葉を聞いた。
ずっと聞きたかった謝罪だった。自分が傷ついて当然だったと、ようやく相手の口から言われた。
でも、その言葉を聞く場所が、出ていく日の玄関であることも、悲しかった。
「君が部屋を見せてくれた日のことを、覚えているよ。食卓に何人座れるか、指を折って数えていた」
同じ日を覚えていた。
そう分かっただけで、喉が熱くなった。私は目を伏せた。彼に見せたくないというより、その記憶まで嫌なものにしたくなかった。
「また、あの頃のように話せないだろうか。僕は……君といる時は、こんなに何もかも説明しなくてよかった。家へ帰るのも、楽しみだったんだ」
私は顔を上げた。
彼は、私を見ていた。もう怒った顔ではなかった。それでも私が頷けば、ここに居続けられるかもしれないという期待は、まだあった。
「私が何も尋ねずに用意していたからでしょう。あなたが帰ってきたら嬉しかったから、そうしていました」
「それに甘えていた。これからは」
「その私に、次の奥様のために出ていけとおっしゃったのです」
彼の声が止まった。
私は息を吸った。途中で泣いても、言い終えたいと思った。
「あの頃の私は、あなたとの結婚を楽しみにしていました。でも今の私は、あなたにこの家を返してほしいのです。前の私だけを呼び戻そうとしないでください」
ヴィクトル様は、長い間黙っていた。
外で馬が足を踏み替えた。彼の従者が玄関へ来たが、ルネ夫人が小さく首を振り、もう少し外で待ってもらった。
私は自分の手を握り直し、彼の顔を見た。
「鍵を、お返しください」
彼は上着の内側へ手を入れた。
出てきたのは、赤い紐を結んだ玄関の鍵だった。彼がほかの鍵と間違えないよう、貸す時に私がつけた紐だ。
受け取ろうと手を伸ばすと、彼の指が一度強く閉じた。それから、ゆっくり開いた。
鍵が、私の掌へ載った。
思っていたより温かかった。
「……さようなら、オデット」
彼が立ち上がった。
私は、さようなら、と返した。食堂から来た父が彼へ挨拶し、玄関の扉が開いた。
ヴィクトル様は一度、家の中を振り返った。私が見送りのために隣へ並ぶのを待つように、足が止まったが、そのまま外へ出ていった。
馬車が門を出るまで、私は玄関にいた。
ルネ夫人と、すべての部屋を見て回った。彼の私物は残っていなかった。返してもらった鍵を、私の鍵と一緒にしまう。
昼の鐘が鳴る前に、それは終わった。
父は昼食を一緒に取ってから帰った。
夕方まで残ろうかと言ってくれたが、私は首を振った。今夜は、この家に泊まりたかった。女中も夫人もいる。困ったらすぐに知らせるからと頼むと、父は私の肩をそっと叩いた。
父の馬車まで行ってしまうと、家が静かになった。
食堂へ戻り、卓の前に立った。いつも彼を座らせるつもりでいた椅子が、空いていた。
そこを見た途端、私は椅子の背へ顔を伏せて泣いた。
帰ってきてほしいのではなかった。
ここへ一緒に帰りたかった。そんな日が来ると思っていた自分が、まだ悲しかった。
ルネ夫人が部屋へ入ってきた時も、顔を上げられなかった。
「お嬢様、奥様がお着きになりました」
慌てて目を拭き、私は振り返った。
祖母が、扉のところにいた。旅の外套を着たまま、こちらを見ている。待っていたはずなのに、顔を見たら何も言えなくなった。
「ただいまと、言いそうになったわ。オデット、お邪魔してもいい?」
「お祖母様」
駆け寄ると、祖母は外套の前を開けて私を抱き締めた。
幼い頃と同じ香りがした。その肩へ顔を寄せたら、もう一度声が出た。泣いているのに、会えて嬉しかった。
祖母はしばらく私の背を撫で、それから、荷物も入れてちょうだい、と戸口へ声をかけた。
「二週間はいるつもりなの。客間を使ってもいい?」
「もちろんよ。今夜だけでは、足りないもの」
私が答えると、祖母はよかった、と笑った。
家を譲られた時に、お祖母様のお部屋は残しておくと約束した。その部屋へ祖母を案内し、外套を預かると、ようやく私は目を拭けた。
「今夜のお夕食は、どうしましょう。私、何も考えていなくて」
「ルネと相談すればいいでしょう。ここに住む人は、まだ今日の夕食を頼めるわよ」
慌てて廊下へ顔を出すと、夫人は笑って待っていた。
私は祖母の分もお願いし、それから、食卓にあの卓布を使いたいと付け足した。刺繍が途中のものだ。
夫人が頷くと、祖母が私の顔を覗き込んだ。
「続きを、今夜見せてね」
私は頷いた。
明日、針を持てるかは分からない。でも、ここに置いておきたいものがあった。
* * *
週末、友人を四人招いた。
母も祖母もいて、食卓はずいぶん賑やかになった。途中まで刺した卓布を広げ、その上に庭の花を飾った。
前の年、ヴィクトル様は黄色い花が多すぎると言った。それから、彼が来る日には白いものを選んでいた。今日は黄色をいちばん多くした。
「オデット。私、あなたの顔が花に隠れて見えないわ」
向かいに座った友人のエマが、首を伸ばした。
私は花瓶を見た。嬉しくなって挿しすぎたらしい。茎を抜こうとすると、隣のアニエスが、自分の方にも分けてほしいと言った。
ルネ夫人が小さな花瓶を二つ持ってきた。
私たちは花を分けた。エマが長さを比べ、アニエスが切りすぎた一本を自分の杯のそばへ置く。あちらにも、こちらにも黄色が残った。
祖母が食卓を眺めて、春みたいね、と言った。
「次は、庭でお茶を飲みましょうよ。暖かくなったら」
エマが言ったので、私はすぐに頷いた。
それから、今でも昼なら日が当たるのだと話した。裏の壁のそばは風が弱く、椅子を置けば気持ちがいい。話しているうちに見せたくなって、食事のあと、友人たちを庭へ連れ出した。
母と祖母は窓辺から見ていた。
私たちは、どこに卓を置くかで意見が分かれた。木の下がよいと言ったエマが落ち葉を髪へ載せ、アニエスはそれを取ってあげながら笑った。
私は声を上げて笑い、自分も落ち葉を踏んだ。乾いた音がした。
あの人の好む家にしようと、ずっと考えていた。
でも、この庭が好きだったのも、明るい部屋へみんなを呼びたかったのも、私だった。
「今度は、朝からいらして。黄色い部屋が、いちばん綺麗なの」
私が言うと、エマが、それなら朝ご飯も、と遠慮のない返事をした。
もちろんよと言ってから、私はルネ夫人を見た。窓を開けていた夫人が、何人分でしょう、と尋ねる。
祖母まで窓へ顔を出し、私も数に入れてね、と言った。
私は指を折った。
一人、二人。みんなの顔を見ながら数えると、最初から数え直してと笑われた。自分を入れていなかったのだ。
慌ててもう一本指を曲げ、私は窓の中へ人数を伝えた。
ここに帰ってきたら、私もいる。
明日の朝、この家で誰より先に起きて、カーテンを開けるのが楽しみだった。
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