第10話 フォームの壁
第10話です。お読みいただきありがとうございます。
今回は、蓮が最初にぶつかる大きな壁——フォームの安定と、感情のコントロールというテーマを描きました。負けず嫌いで熱くなりやすい性格が、時に武器にも弱点にもなる。そんな蓮の内面に、少し踏み込んだ回になっています。
黒沢コーチの言葉一つひとつにも、ぜひ注目していただけたら嬉しいです。
基礎練習を始めてひと月が過ぎた頃、蓮は思わぬ壁にぶつかっていた。
「また、力んでる」
黒沢の声が、コートに響く。蓮は、素振りの手を止めて、小さくため息をついた。
「すみません……分かってるんですけど、なかなか」
頭では理解しているつもりだった。腕の力ではなく、下半身から連動させてラケットを振る。だが、実際にボールを目の前にすると、無意識のうちに腕に力が入ってしまう。特に、強く打ち返したいと思う場面ほど、その傾向が顕著だった。
「お前の悪い癖だ。気持ちが先走ると、すぐ力に頼ろうとする」
黒沢の指摘は的確だった。陸上をやっていたときも、蓮にはそういう傾向があった。追い上げたい場面、負けたくない場面ほど、力任せになって、かえってフォームを崩してしまう。
「もう一回、ゆっくりでいいから、確認しながらやってみろ」
蓮は、深呼吸をして、もう一度素振りに取り組んだ。腰の回転、体重移動、そして最後にラケットへ力を伝える――一つひとつの動作を、意識的に分解しながら丁寧に行う。
ゆっくりとしたスピードでは、なんとか正しいフォームを再現できる。だが、実戦を意識したスピードで振ろうとすると、途端に元の悪い癖が顔を出してしまう。
「くそっ……」
思わず漏れた蓮の呟きに、黒沢が反応した。
「苛立つのは分かる。だが、それも力みの原因だ。落ち着け」
「分かってます。分かってるんですけど……」
もどかしさが、蓮の中で募っていた。これまでの陸上では、真面目に練習を積み重ねれば、確かにタイムという結果がついてきた。だが、テニスのフォームという課題は、単純な反復練習だけでは、なかなか克服できないもどかしさがあった。
その日の練習の後半、黒沢は一つの提案をした。
「今日は、球出しをしてみる。ただし、条件がある」
「条件、ですか」
「思い切り打とうとするな。七割の力で、フォームを崩さないことだけを意識しろ」
言われた通り、蓮は力を抑えて、丁寧にボールを打ち返す練習に取り組んだ。最初のうちは、物足りなさを感じるほど軽く振っていたが、不思議なことに、その方がボールはしっかりとコートに収まった。
「今のは、悪くないぞ」
黒沢の言葉に、蓮は驚いた。力を抑えたほうが、かえって良い結果につながる――その感覚は、蓮にとって新鮮な発見だった。
「テニスは、力任せのスポーツじゃない。効率よく力を伝えることが大事だ。お前は今、力を"入れる"方向にばかり意識が向いてる。まずは、無駄な力を"抜く"ことを覚えろ」
その言葉を胸に、蓮は練習を続けた。だが、翌週になると、また別の問題が浮上した。
試合形式を意識した練習になると、緊張や気持ちの昂りから、また力みが戻ってきてしまうのだ。頭では分かっていても、実戦に近い状況になると、身体が勝手に反応してしまう。
「お前は、感情がそのまま身体に出るタイプだな」
ある日の練習後、黒沢がぽつりと言った。
「悪いことばかりじゃない。その熱さが、お前の原動力になってる部分もある。だが、コントロールできなければ、ただの欠点だ」
その指摘は、蓮の胸に深く刺さった。負けず嫌いで、熱くなりやすい性格――それは、蓮自身が自覚している部分でもあった。陸上でも、劣勢になると熱くなって、かえって空回りすることがあった。
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
思わず、縋るような口調で尋ねた。黒沢は、少し考えるような間を置いてから答えた。
「感情を消せとは言わない。むしろ、それはお前の武器だ。だが、その熱を、正しい技術に乗せることを覚えろ。感情のままに振り回されるんじゃなく、感情を燃料にして、技術を磨け」
抽象的な言葉ではあったが、蓮には、その意味が少しずつ理解できるような気がした。感情を消すのではなく、コントロールする。それは、これまでの蓮にはなかった発想だった。
その日から、蓮は練習の中で、意識的に「一呼吸置く」ことを心がけるようになった。ボールを打つ直前、あるいはポイントとポイントの間に、深呼吸を一つ挟む。単純な工夫だったが、それだけで、力みの頻度が少しずつ減っていくのを感じた。
もちろん、すぐに全てが解決したわけではない。試合を想定した実戦形式の練習になると、まだまだ力みが顔を出すことも多かった。だが、少なくとも、自分自身の「癖」を自覚し、それに向き合う術を、蓮は少しずつ身につけ始めていた。
ある日の練習終わり、黒沢が珍しく、練習メニューとは関係のない話を切り出した。
「フォームの壁ってのは、誰もが通る道だ。お前だけじゃない。今、ラケットを握ってる誰もが、同じような壁にぶつかってきてる」
「黒沢さんも、ですか」
その問いに、黒沢は一瞬、遠くを見るような表情を浮かべた。
「……ああ。俺にも、そういう時期があった」
それ以上は語らなかったが、蓮は、その一言だけで、少し救われたような気持ちになった。今、自分が直面している壁は、決して特別なものではない。誰もが通る道であり、乗り越えられるはずのものなのだ。
帰り道、夕暮れの中を自転車で走りながら、蓮は今日一日の練習を振り返っていた。まだ、フォームは完全には固まっていない。それでも、確かに何かが変わり始めている実感があった。
(力を抜く。感情を燃料にする)
黒沢の言葉を、心の中で何度も反芻する。分かるようで、まだ完全には掴みきれていない感覚。それでも、この地道な試行錯誤の先に、きっと自分だけのフォームがあるはずだと、蓮は信じていた。
(第10話・了)
第10話、お読みいただきありがとうございました!
「力を抜く」「感情を燃料にする」——言葉にするのは簡単でも、実際に体得するのは難しいものですよね。蓮と一緒に、読者の皆さんにもその難しさとちょっとした発見を感じていただけたら嬉しいです。
黒沢コーチが漏らした「俺にも、そういう時期があった」という一言も、今後の伏線として少しずつ回収していく予定です。
次話では、蓮にとって大きな一歩となる「初めてラリーが続く」瞬間を描きます。どうぞお楽しみに。
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