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婚約破棄ありがとうございます。では、王家に貸していた幸運を返していただきます

作者: 宇多川マチ
掲載日:2026/06/26

「ルディア・ルシュフォード。お前との婚約を破棄する」


 王太子殿下がそう告げた瞬間、私は胸元の鍵に手を添えた。ルシュフォード家が七十年、王家に貸し続けてきた幸運を、返していただくための鍵だった。


 三日後、この方はようやく知ることになる。自分の人生がうまくいっていた理由を。

 舞踏会場に変な沈黙が落ちた。同情ではない。期待だ。


 誰もが私が泣き崩れるところを待っている。王太子ヴェルナルド殿下の隣には、私の異母妹セレイナが立っていた。薄桃色のドレスに、王家の宝物庫から貸し出された真珠の首飾り。いつ見ても、泣く直前の顔が上手な子だ。本当に泣いているわけではない。泣けば勝てると知っているだけ。


 父は病を理由に領地へ下がって久しい。セレイナの母である継母も、もういない。王都の屋敷で同じ姓を名乗る肉親は、腹違いの妹だけだった。


「お前のように地味で、冷たく、何の役にも立たぬ女を王妃にするつもりはない」

 殿下の声は、よく通った。

「セレイナには華がある。人を癒やす祈りもある。お前のように、古い紙束を抱えて歩くだけの女とは違う」


 扇の陰で笑い声が漏れた。


「ルディア様はいつも契約書ばかりですものね」

「王太子妃には、やはりセレイナ様のような方が」


 セレイナは殿下の腕に寄り添い、私を見た。


「お姉様、ごめんなさい。でも、殿下には私の祈りが必要なのです。去年の収穫祭だって、私が祈ったから雨が止んだのでしょう? 皆さま、そうおっしゃってくださいましたもの」


 ああ、と私は思った。まだその話をするのか。


 去年の収穫祭。あの日の貸与記録は、昨夜まで私の鞄に入っていた。セレイナは一度も見ようとしなかったけれど。ささやかな代償だ。王宮では奇跡と呼ばれ、我が家では片づけられて終わるもの。


「お姉様が夜遅くまで書いていた協定書の訂正控えも、もう要りませんわよね。今朝、古紙箱に入れておきましたわ。あんな縁起の悪いものより、祈りのほうがずっと尊いでしょう?」


 胸の奥がすっと冷えた。怒鳴りたかったわけではない。ただ、七年かけても何も届いていなかったことに、少しだけ息が詰まった。


 一族としての貸与は七十年。私が引き継いだのは、ヴェルナルド殿下の婚約者になった七年前からだ。王家の儀礼、外交、婚姻契約に、毎月少しずつ幸運を貸してきた。晴れるはずのない日に雨を遅らせる。毒杯を取るはずの指を迷わせる。会談相手が怒って席を立つ前に、好物の菓子が出る。その程度のことだ。


 幸運は、何もないところから湧く祝福ではない。誰かが約束を守り、窓を閉め、書類を読み直し、眠い目をこすって備えた分だけ、ほんの少しずつ積まれる。その積まれた分を、黒革の手帳に日付、貸与先、用途、代償、返却条件、署名で縛って貸す。備えのない願いは、手帳に書いてもただの願いのままだ。鍵は、その貸与契約を大きく開け閉めするためのもの。小さな幸運は、条件が満たされたとき、手帳に結ばれた範囲で流れる。


「確認いたします、殿下」

 私は、なるべく声を乱さないように言った。

「いまのご発言は、ルシュフォード伯爵家とクラウディア王家の幸運貸与契約における、契約継続意思の放棄に該当いたします。今ならまだ間に合います。お取り消しになりますか」


 会場がまた笑った。殿下も笑った。


「取り消すものか。幸運貸与契約など、古い家が王家に恩を着せるための作り話だろう」


 会場の端で、宮廷占星術師のサイナス卿だけが顔色を失っていた。やはり彼は知っている。知っていて黙っていたのだ。私は銀の鍵を外した。


「作り話であれば、解除しても問題はございませんね」

「好きにしろ」

「承知いたしました」


 かちり、と鍵を回す。小さな音だった。その瞬間、楽団の弦が一本切れた。甲高い音が舞踏会場を裂き、音楽が一拍だけ崩れる。


 それだけだった。シャンデリアは落ちない。誰も倒れない。王城に雷も落ちない。けれど、サイナス卿の唇は白くなっていた。


「本日をもって、クラウディア王家への幸運貸与契約を終了いたします」

 私は鍵を掌に収めた。

「貸与中の幸運は、ただいまをもって全て返却されました」


「終わったか」

 殿下は鼻で笑った。

「では出て行け。二度と私の前に姿を見せるな」


 そのとき、セレイナの首元で小さな音がした。


 ぱちん。


 王家の真珠の首飾りが切れ、白い粒が大理石の床を転がっていった。七十年間、一度も糸が切れたことのない、由緒正しき王家の祝福の首飾り。セレイナが短く悲鳴を上げた。会場がざわめいた。


「ただの古い糸ですわ」

 私はそう言って、笑った。ちゃんと笑った。少なくとも、あの子に泣き顔は見せなかった。

「幸運など、作り話なのでしょう?」


 殿下の眉が、初めてわずかに動いた。


 もう遅い。


 私は深く礼をした。

「私を軽んじる方々の幸福まで、私が背負う理由はなくなりました」


 誰も答えなかった。

 大扉へ向かう途中、サイナス卿だけが震える声で私を呼んだ。


「ル、ルディア嬢。ほ、本当に、全てを引き上げたのか?」

「はい」

「一部だけでも、王都に残すことは……」

「王都ではなく、王家から引き上げただけです。民の暮らしを巻き込むつもりはございません」

「では、今夜の星読みは」


 私は足を止めた。今夜は隣国使節の前で吉兆を示す星読みの儀がある。三日前から占星術師たちは晴天を保証していた。先ほどまでは晴天だったが、耳を澄ますと窓の外から雨音が聞こえてきた。


「晴れる準備をなさっていたなら、大丈夫でしょう」


 サイナス卿は何も答えなかった。雨音が強くなる。王太子殿下はまだ、何が起きたのかわかっていない顔をしていた。それでいい。


 今夜だけで終わる話ではないのだから。


 翌朝、私はルシュフォード伯爵邸で荷をまとめていた。持っていくものは多くない。古い契約書に、母の鍵箱、数冊の帳簿。幸運貸与の記録を綴った黒革の手帳。


 ドレスも宝石も、ほとんど王宮に置いてきた。惜しくはない。あれらは王太子妃になるために必要だったものだ。もう、私には必要ない。


「お嬢様、本当に王都を出られるのですか」

 侍女のライラが、泣きそうな顔で尋ねた。


「ええ。午前中には」

「ですが、王宮からお迎えが来るのでは……」

「来ないわ。少なくとも、午前中には」

「どうしてですか?」

「殿下の馬車は、時間どおりに出ないから」

 私が答えたちょうどそのときだった。玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえた。執事が扉の前で一礼する。


「お嬢様。王宮より、早馬で知らせが」

「早馬?」

「はい。ただ、途中で馬が蹄鉄を落としたそうで。早馬というには、いささか遅い到着でございますが」

 ライラが息を呑んだ。私は手袋の紐を結びながら頷いた。

「通して」


 現れたのは、昨夜の舞踏会で壁際に控えていた若い文官だった。髪は乱れ、外套には泥が跳ねている。


「ル、ルディア様。王宮にお戻りください」

「何があったのですか」

「星読みの儀が失敗しました」

「えっ」

 ライラが小さく声を上げる。


「それだけではございません。雨雲の切れ間を待つため、開始を一刻遅らせました。ですが、そのあいだに隣国使節団の馬車が水溜まりで車輪を取られまして。ようやく全員が揃ったと思ったら、星見台へ上がる階段で、殿下が滑られました」

「お怪我は?」

「足首を少し。命に別状はありません。ただ、隣国使節の前で、その……」

 文官は言いにくそうに視線を落とした。

「セレイナ様が殿下を癒やそうと祈られたのですが、何も起きず」


 部屋が静かになった。セレイナの祈りは昔から劇的だった。雨の止んだ収穫祭。王女殿下の熱が下がった夜。怒っていた公爵が、急に会談の席に笑顔で戻った朝。どれも彼女の祈りのおかげだと、王宮は喜んだ。


 そのたびに、黒革の手帳には日付と用途と、小さな銀の印が増えた。誰もそれを知らなかった。


「宮廷医師が処置をなさいました。ですが、包帯を巻こうとしたところ、用意していた包帯が湿っておりまして」

「昨夜の雨で?」

「保管庫の窓が、閉まりきっていなかったそうです」

「そう」

「さらに、隣国使節へ提出するはずだった吉兆の記録書に、雨漏りの水が落ちました」

「そんなに重なること、あります?」

 ライラがぽつりと言った。


 ある。


 これまでも、あり得た。ただ今までは、閉まりきっていない窓に誰かが気づいた。馬車が水溜まりに入る前に御者が手綱を引いた。濡れるはずの書類を、偶然、別の机に移していた。王宮の人々は、それを「いつも通り」と呼んでいた。


「で、王太子殿下は、なんと?」

「ルディア様を、すぐ連れ戻せと」

「どのような理由で?」

「昨夜の無礼を許してやる、と」

 文官は喉を鳴らした。


 ライラの顔から表情が消えた。執事も静かに目を細める。私は少しだけ笑ってしまった。本当に、何もわかっていない。


「戻りません」

「ですが」

「私は昨夜、正式に婚約を解消されました。王宮への出仕義務も、王家への幸運貸与契約も終了しています」

「サイナス卿も、そうおっしゃっていました」

「では、なぜあなたが来たのですか?」

「殿下が、サイナス卿を謹慎させると。あの者が不吉なことを言うから儀式が乱れたのだ、と」

 私は手を止めた。


 サイナス卿は保身の人だ。知っていながら黙っていた。けれど、今朝の失敗は彼のせいではない。

「お伝えください」

 私は文官を見た。

「契約を終えた相手に、返却を求めることはできません。それから、殿下にもう一つ」

 文官が背筋を伸ばす。

「私を許す必要はございません。私も、殿下に許しを求めておりませんので」

 文官は目を見開いた。それから深く頭を下げた。彼が去ったあと、ライラが震える声で言った。


「お嬢様、怖くないのですか」

「怖いわ」

 王太子に逆らった。王家との契約を終えた。七十年続いた役目を、私の代で断ち切った。怖くないはずがない。


「でもね、ライラ。怖いから戻るなら、七年間の帳簿まで笑いものにされるわ」

 それだけは、もう嫌だった。


 そのとき、門の外で馬車が止まる音がした。王宮のものではない。車輪の音が軽く、馬の足取りも整っている。家紋の入った深緑の馬車だ。ライラが窓辺へ駆け寄った。


「お嬢様、隣国の使節団の馬車です」


 扉が開き、長身の男性が降りてくる。黒髪に灰色の瞳。昨夜、星読みの儀に招かれていた隣国外交官。ローレンツ・ヴァルシュタイン卿だった。彼は雨上がりの庭を進み、玄関先で私に礼をした。


「ルディア・ルシュフォード嬢。突然の訪問をどうかお許しください」

「王宮ではなく、こちらにいらしたのですね」

「王宮へ戻れば、あなたを呼び戻すための道具にされそうでしたので」

 

 思っていたより、はっきりした物言いだった。ローレンツ卿は、少し困ったように笑う。


「本国の上官からは、王家の内紛に関わるなと釘を刺されています。ですので、これは少々、私の出世によろしくない訪問です」

「それなのに?」

「昨夜、あなたが一人で会場を出ていくのを見ました」

 彼は私の胸元の鍵に、一瞬だけ視線を落とした。「あの場で止められなかったことを、今朝からずっと後悔しています」


 うまい返事が出てこなかった。完璧な救いの手ではない。遅れた手だ。でも、遅れたことを言える人だった。


「クラウディア王家は今朝、我が国との予備協定書に印章を押し間違えました。こちらにとっては好都合でしたが、私は不注意の原因に興味があります」

「原因もなにも、それは王家の不注意でしょう?」

「はい。だから、これまで不注意が表に出なかった理由にも興味があります」

 風が吹いた。雲の切れ間から、細い光が庭に落ちる。ローレンツ卿は私に向き直った。


「あなたのお母上から、一度だけ聞いたことがあります。幸運を貸す家の者は、自分の幸福まで契約に混ぜてしまうことがある、と」


 胸の奥が、静かに揺れた。この人は母を知っている。それだけで、昨夜から凍っていたものが、ほんの少しほどける気がした。


「我が国には、あなたの力を奇跡として消費するつもりはありません。契約として、敬意をもって迎えたい」


 王宮の方角で、遠く鐘が鳴った。一度。二度。三度。予定より早い鐘だ。きっとまた、何かが起きたのだろう。


「ローレンツ卿。私は、幸運を売る女ではありません」

「存じています」

「努力のない場所に、風は貸せません」

「その条件で結構です」

 迷いのない返事だった。

「では、まず契約書を拝見します」

「もちろん。三部用意してきました」

「手際がよろしいのですね」

「ここで一部だけ差し出したら、あなたに門前払いされると思いましたので」


 少しだけ笑ってしまった。ローレンツ卿が持参した契約書は、角が少しだけ潰れていた。急いで鞄に詰めたのだろう。けれど中身は、きちんとしていた。契約期間、貸与範囲、対価、解除条件、貸与者の尊厳を侵害した場合の即時停止条項。契約書の三枚目で、私は手を止めた。


「貸与者本人の不利益をもって、契約相手の利益を補填してはならない。……この条項は、どなたが?」

「私です。不備がありましたか?」

「いいえ。驚いただけです」


 母は優しい人だった。否、優しすぎる人だった。王家のために、王妃様のために、国のために。そう言いながら、いつも自分のことを最後にしていた。気づいた時には、母は病に倒れた。一日発見が早ければ助かったと、のちに王国の主治医から言われた。


 私はその一日を、まだ許せずにいる。


「母をご存じだったのですね」

「一度だけお会いしたことがございます。私がまだ少年だったころです。国境の会談で、クラウディア側の随員として来ていらした」

「母は何を?」

「会談前夜、父が落とした万年筆を拾ってくださいました。父はその万年筆で、翌日、協定書に署名した。あとで知りました。別の筆を使っていたら、インクがにじんで署名が無効になるところだったと」

「それは偶然です」

「はい」

 ローレンツ卿は頷いた。「私は、その偶然を雑に扱う人間が嫌いです」


 そのとき、屋敷の外から乱暴な馬車の音が響いた。先ほどのローレンツ卿の馬車とは違う。車輪が石を踏み、馬が落ち着きなく鼻を鳴らしている。ライラが窓の外を見て、顔をこわばらせた。


「お嬢様。王太子殿下です」

 思ったより早い。

 玄関広間に出ると、扉が開くより先に殿下の声がした。


「ルディア! いるのだろう!」


 ヴェルナルド殿下は、昨夜の華やかさをどこかに落としてきたようだった。金髪は湿って乱れ、片足をかばうように歩いている。外套の裾には泥がつき、右手には折れた杖を握りしめている。その隣に、セレイナがいた。首元にはあの王家の真珠はない。代わりに巻かれた薄桃色のリボンが、妙に安っぽく見えた。


「ルディア」

 殿下は私を見るなり、安堵と怒りの混ざった顔をした。

「すぐに、王宮へ戻れ」


 挨拶も謝罪もない。この方は、本当に一度も私を対等な契約相手だと思ったことがないのだ。


「戻りません」

「意地を張るな。昨夜の件は、もう水に流してやる」

 ローレンツ卿が、隣でわずかに眉を上げた。


「私は水に流していただく立場ではございません。昨夜、殿下はご自身の意思で婚約を破棄なさいました」

「だから、もう一度婚約者にしてやると言っている」

 セレイナが、慌てて殿下の袖を引いた。

「殿下、それでは私が」

「黙っていろ、セレイナ」


 セレイナの顔が強張った。昨夜、あれほど甘く見つめていた相手に、殿下はもう苛立ちを隠さない。幸運がなくなったから、性格が変わったわけではない。うまくいかないときに隠れていた本性が、表へ出ただけだ。


「王宮は混乱している。星読みは失敗し、隣国との協定書も差し戻された。朝議では大臣が二人、同じ資料を別々に読み上げた。厨房では祝宴用の菓子が焦げた。セレイナの祈りも、なぜか今日はうまく働かない」

「どれも起こり得ることですよ」

「だが、今までは起きなかった!」

「はい。今までは」

 殿下は息を詰まらせた。その顔に、ようやく理解の影が差した。反省ではない。失ったものの価値に気づいた者の焦りだ。


「ならば戻せ」

「何をでしょう」

「幸運だ!」

 広間に声が響いた。


「できません」

「なぜだ? 契約だろう。もう一度結べばいい」

「一度破った契約を、同じ顔で差し戻されても困ります」

「私は王太子だぞ」

「はい」

 私はまっすぐ殿下を見た。

「だからこそ、契約を軽んじる方とは結べません」

 ヴェルナルド殿下の目が、細くなった。


「ならば、ルシュフォード家の書庫を封じる。王家に関わる契約書は、すべて王家の管理下に置く。お前が持ち出した黒革の手帳もだ」

 ライラが息を呑んだ。執事の顔から血の気が引く。


「従わぬなら、契約解除を王家への背信として扱う。伯爵家の爵位も、無事では済まぬぞ」

 怖くない、と言えば嘘になる。


 母の鍵箱。祖母の帳簿。曾祖母が最初に結んだ、雨染みのある契約書。


 私だけのものではない。七十年分の沈黙と、七十年分の小さな代償だ。それでも、差し出すわけにはいかなかった。私は鞄から黒革の手帳を取り出した。


 表紙の裏には、母の字で三つの決まりが残っている。

 備えのない願いに貸すな。返却条件のない貸与をするな。貸与者の尊厳を代償にするな。


「では、差し押さえられる前に写しを取ります」

 殿下が眉を跳ね上げる。

「何?」

「ライラ、青封筒を二つ。執事長、控え用の羊皮紙を」

 震えた返事が、二つ重なった。それでも二人は動いた。誰かが動く音がするだけで、足元の床が少し戻る。


「貸与記録の写しを、クラウディア国王陛下と、昨夜の隣国使節団へ提出します。王家が私を背信者として裁くなら、私も記録で答えます」

 広間の空気が、一段冷えた。ローレンツ卿が、静かに手を差し出す。


「私が預かりましょう」

「ローレンツ卿」

「本国からは、関わるなと言われています」

 彼は困ったように笑った。

「ですが、ここで見なかったふりをしたら、父の万年筆の話をした資格がなくなる」


 私は手帳を渡した。その瞬間、セレイナが涙を浮かべて前へ出た。

「お姉様、お願いします。殿下を困らせないで。あなたは昔からそうでした。難しい書類ばかり持ち出して、みんなを不安にさせて。鍵箱の前に座って、大人たちにだけ必要とされて。私は笑って、祈って、綺麗な服を着るしかなかったのに」

 その声には、演技ではない棘が混じっていた。


「セレイナ」

 私は彼女の名を呼んだ。妹は、勝てると思ったのだろう。涙を浮かべたまま、可憐に微笑む。

「はい、お姉様」

「あなたは昨夜、私の控え書類を要らないと言いましたね」

「だって、本当に縁起が悪くて」

「今朝、王宮で印章を押し間違えた協定書。本来なら、私の控え書類に訂正履歴がありました」

 彼女の唇が止まった。

「あなたが捨てた書類です」

 広間が静まり返った。殿下がセレイナを見た。


「わ、私は知りません。そんな大事なものだなんて、お姉様が教えてくださらなかったから」

「教えました。三度。あなたはそのたび、私の話を最後まで聞きませんでした」

 セレイナの目に、今度は本当の涙が浮かんだ。


「去年の収穫祭で、雨が止んだ日を覚えていますか」

「え?」

「あなたの祈りのおかげだと、皆が褒めた日です」

 セレイナは、反射のように顎を上げた。

「そうですわ。あれは私が」


「幸運貸与記録には、私の署名があります」

 セレイナの顔から、色が引いていく。

「王女殿下の熱が下がった夜も。公爵が会談に戻った朝も。あなたが祈ったあとに起きた奇跡のほとんどは、王家名義の幸運貸与の範囲内でした」

「嘘よ」

「嘘なら、今朝の殿下の足首も癒やせたはずです」

 セレイナは口を開けた。だが何も出てこなかった。ローレンツ卿が、静かに契約書を差し出す。

「ルディア嬢」

 その声で、私は我に返った。


「この契約書には、訂正用の余白も、証人欄も、解除条件もある。あなたの指摘に耐えられるよう、私なりに準備しました」

 ヴェルナルド殿下の視線が、初めてローレンツ卿に向いた。

「貴様、ルディアに何を」


「契約を申し込んでいます」

 ローレンツ卿は穏やかに答えた。

「敬意をもって」


「ルディアは、私の婚約者だ」

「昨夜、公衆の面前で婚約を破棄されたと聞いています」

「取り消す」

「婚約は契約です。相手の同意なく、取り消すことはできません」

 殿下は私を見た。命令すれば、私が従うと思っている目だった。かつての私は、従っていたかもしれない。国のために。家のために。母が守ったものを壊さないために。


 でも、母が守りたかったのは、王家の椅子ではなかったはずだ。

「殿下。私はあなたの婚約者には戻りません」

「なぜだ?」

「私は幸運を貸す家の娘です」

 銀の鍵を、掌の中で握る。「けれど、私自身の不幸まで差し出す契約は、先祖から一度も結んでおりません」

 殿下の顔から、血の気が引いた。セレイナが小さく首を振る。

「お姉様、そんな言い方」

「あなたにも貸せません」

 私は妹を見た。

「誰かの仕事を捨てて、その成果だけを祈りと呼ぶ人には」

 今度は誰も彼女を庇わなかった。外でまた雨が降り始める。殿下は唇を震わせた。

「では、王家はどうなる?」

 その問いだけは、少しだけ本音に聞こえた。


「書類を確認し、約束を守り、失敗したら謝る。それだけです」

 殿下は呆然とした。まるで、途方もない難題を出されたような顔だった。


「帰ってください、殿下」

 私は言った。「あなたの幸運は、もうあなた自身で育てるものです」


 殿下が何かを言おうとしたとき、玄関の外で馬が大きく嘶いた。従者が駆け込んでくる。

「殿下! 馬車の車輪が、また」

「まただと?」

「はい。昨夜応急処置した箇所が、まだ直りきっていなかったようで」

 私は何も言わなかった。ローレンツ卿が、私の隣で契約書を差し出す。

「雨が強くなる前に、署名を済ませましょう。私の馬車は整備済みですので」

「それは幸運ではなく、準備ですね」

「ええ。だから、最後の一押しだけお願いしたい」


 私は羽根ペンを取った。インク壺の縁に、一滴、黒い雫が揺れている。落ちれば契約書を汚す位置だった。ローレンツ卿は、すぐに吸い取り紙を差し出した。


 こういう人たちになら貸せる。私は署名した。ルディア・ルシュフォード。その名を書き終えた瞬間、窓の外で雲が切れた。


 雨はまだ降っていた。けれど屋敷の門から馬車までの道だけに、淡い光が差していた。ローレンツ卿は大げさには驚かなかった。ただ、私に向かって丁寧に頭を下げた。


「ようこそ、ルディア嬢。我が国は、あなたを契約相手として歓迎します」

 私は銀の鍵を胸元に戻した。もう、王家に繋がれた鍵ではない。私が、私の意思で使う鍵だ。


 三日後、私はクラウディア王城の謁見の間にいた。戻りたかったわけではない。


 ローレンツ卿に預けた貸与記録の写しは、その日のうちに隣国使節団と国王陛下の手元へ届いた。翌朝、王宮から正式な召喚状が来た。そこには、謝罪と証言要請の文字があった。


 隣にはローレンツ卿がいる。

「本当に同席なさるのですか?」

「はい。ここまで来て廊下で待つほど、私は行儀よくありませんので」

 そう言って笑う目の下に、薄い隈があった。この三日、彼は私の後ろ盾になるために、本国と何通もの書簡を交わしていたらしい。越権だと叱責も受けたと、ライラがこっそり教えてくれた。本人は言わない。だから私も気づいていないふりをした。


 謁見の間の中央に、ヴェルナルド殿下とセレイナが立っていた。殿下の顔は青ざめていた。セレイナは泣いていない。泣く余裕がないのだろう。国王陛下は、私に深く頭を下げた。


 広間が息を呑んだ。

「ルディア・ルシュフォード嬢。クラウディア王家は、ルシュフォード伯爵家への侮辱を認める。七十年にわたる幸運貸与契約の貢献を、公的記録に残す」


 一度、陛下の声が詰まった。ほんの短い沈黙だった。けれど、王冠より重いものがそこにある気がした。


「破棄された婚約について、そなたに一切の非はない」

 陛下の視線が、黒革の手帳に落ちた。

「また、ルシュフォード家の書庫および貸与記録の差し押さえ命令は、王太子の越権として無効とする」


 ヴェルナルド殿下の肩が震えた。陛下は続ける。


「ヴェルナルドを王太子位から外す。北方離宮で謹慎せよ。王家の契約を理解せず、貸与者を公の場で侮辱した責は軽くない」


 その場で、殿下の肩から王太子の飾緒が外された。金糸が床に触れる音はしなかった。けれど広間中が、その音を聞いたように静まり返った。


「父上」

 殿下の声は掠れていた。「私は、本当に知らなかったのです」


「知らなかったことも罪だ」

 国王陛下は、短く言った。


 それで終わりではなかった。舞踏会で扇の陰から笑っていた者たちにも、王の視線が向いた。

「私は何も申し上げておりません」

 一人が震える声で弁明した。書記官は、淡々と控えを読み上げる。

「『ルディア様はいつも契約書ばかりですものね』。この発言で間違いないか」

 令嬢の顔が赤くなり、次に青くなった。


 ほかの者も同じだった。昨夜の笑い声は、もう誰の味方にもならない。彼女たちは一人ずつ顔を伏せ、正式な謝罪を命じられた。軽い笑い声の代金としては、安くない。


 次に呼ばれたのは、セレイナだった。宮廷書記官が、古い記録を読み上げる。収穫祭の晴天。王女殿下の快癒。公爵との会談成立。セレイナが聖女候補として称えられた出来事の横には、ルシュフォード家の貸与記録が並んでいた。


「もう一度、祈りなさい」

 国王陛下が言った。セレイナは震える手を組んだ。

「光よ、癒やしを……」

 謁見の間に、薄い声が響く。何も起きなかった。


 セレイナは、もう一度手を組んだ。

「光よ、お願い。お願いですから」

 声が裏返る。祈りの形をした、ただの懇願だった。三度目には、彼女はヴェルナルド殿下を振り返った。

「殿下、私を信じてください。私は、私は聖女だって、皆が……」

 殿下は一歩、後ろへ下がった。


 それが答えだった。


 誰も、咳払いすらしなかった。その沈黙が、彼女の称号を剥がした。


 セレイナは膝から崩れ落ちた。

「違うの。私は、本当に、皆が喜んでくれるから」

 その言葉だけは、少し本当だったのかもしれない。でも、誰かの仕事を自分の奇跡として受け取ったまま、返そうとしなかった。それもまた、選んだことだ。


「セレイナ・ルシュフォードの聖女候補資格を剥奪する。王家より受けた褒賞も、すべて返上せよ」


「そんな……」

 セレイナは私を見た。助けて、と唇が動いた。けれど声にはならなかった。私も手を伸ばさなかった。


 宮廷占星術師サイナス卿は、最後に証言台へ立った。

「私は、契約が本物であると知っていました」

 彼は一度だけ、私を見た。「知っていながら、守りませんでした」

 それだけ言うと、彼は深く頭を下げた。宮廷を去ることは、もう決まっているらしかった。


 謁見が終わったあと、廊下でヴェルナルド殿下に呼び止められた。


「ルディア」

 以前のような命令の声ではなかった。だから、足を止めた。「本当に、私は外されたらしい」


 殿下は、ぼんやりと自分の手を見ていた。

「私は知らなかった。あの契約のことも、セレイナの祈りのことも。本当に、誰も教えなかったのだ」


 殿下は一歩、こちらへ寄った。護衛が止めるより早く、彼の膝が折れた。磨かれた廊下に、片手がつく。王太子だった人が、私の前で床を見ていた。


「だから戻ってくれ。私には、まだお前が必要だ」

 私は答えなかった。何か慰めを言えば、きっと楽だった。でもそれはもう、私の役目ではない。


 知ろうとなさらなかっただけです。


 その言葉は、胸の内にしまった。


「殿下」

 私は、床についたその手を見下ろした。「私を見捨てたのは、殿下が先です」

 殿下の顔が歪んだ。




 一か月後、私は隣国ヴァルシュタイン公国の契約庁にいた。


 ローレンツ卿が用意した部屋は、王宮の控室よりずっと小さい。だが窓が大きく、机は明るく、書類はきちんと分類されていた。


「ルディア嬢」

 ローレンツ卿が扉を叩いた。

「本日の式典は、予定どおり始められそうです。ただ、朝から雨でして」

 私は窓の外を見た。石畳を濡らす雨は、静かで、やさしい。

「晴れにしなくてよいのですか?」

 私が尋ねると、ローレンツ卿が微笑んだ。

「雨でも式典が開催できるよう、準備していましたから」

 侍従たちは大きな傘で濡れないよう通路を整え、料理人たちは温かいスープを用意し、楽師たちは湿気に強い弦を選んでいた。


 窓の向こうで、雲の縁が少しだけ薄くなっていた。

 鍵を開ける必要はなかった。この国の準備は、もう契約の中にある。

 雲の切れ間から光が差し、濡れた石畳が明るく光る。ローレンツ卿が隣に立つ。


「これは、あなたの幸運ですか?」

「いいえ。皆さまが昨日まで準備を怠らなかったからです」

 私は少しだけ笑った。

「私は、風を少し借りただけ」


 ローレンツ卿は私の手を取った。王太子殿下のように、所有物をつかむ手ではない。触れてよいか、こちらの様子をうかがうような様子だった。


 この手なら、怖くないと思った。


「では、これからも」

「はい」


 私は胸元の銀の鍵に触れた。雨上がりの空は、よく晴れていた。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 少しでも楽しんでいただけましたら、評価で応援していただけると嬉しいです。

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