婚約破棄ありがとうございます。では、王家に貸していた幸運を返していただきます
「ルディア・ルシュフォード。お前との婚約を破棄する」
王太子殿下がそう告げた瞬間、私は胸元の鍵に手を添えた。ルシュフォード家が七十年、王家に貸し続けてきた幸運を、返していただくための鍵だった。
三日後、この方はようやく知ることになる。自分の人生がうまくいっていた理由を。
舞踏会場に変な沈黙が落ちた。同情ではない。期待だ。
誰もが私が泣き崩れるところを待っている。王太子ヴェルナルド殿下の隣には、私の異母妹セレイナが立っていた。薄桃色のドレスに、王家の宝物庫から貸し出された真珠の首飾り。いつ見ても、泣く直前の顔が上手な子だ。本当に泣いているわけではない。泣けば勝てると知っているだけ。
父は病を理由に領地へ下がって久しい。セレイナの母である継母も、もういない。王都の屋敷で同じ姓を名乗る肉親は、腹違いの妹だけだった。
「お前のように地味で、冷たく、何の役にも立たぬ女を王妃にするつもりはない」
殿下の声は、よく通った。
「セレイナには華がある。人を癒やす祈りもある。お前のように、古い紙束を抱えて歩くだけの女とは違う」
扇の陰で笑い声が漏れた。
「ルディア様はいつも契約書ばかりですものね」
「王太子妃には、やはりセレイナ様のような方が」
セレイナは殿下の腕に寄り添い、私を見た。
「お姉様、ごめんなさい。でも、殿下には私の祈りが必要なのです。去年の収穫祭だって、私が祈ったから雨が止んだのでしょう? 皆さま、そうおっしゃってくださいましたもの」
ああ、と私は思った。まだその話をするのか。
去年の収穫祭。あの日の貸与記録は、昨夜まで私の鞄に入っていた。セレイナは一度も見ようとしなかったけれど。ささやかな代償だ。王宮では奇跡と呼ばれ、我が家では片づけられて終わるもの。
「お姉様が夜遅くまで書いていた協定書の訂正控えも、もう要りませんわよね。今朝、古紙箱に入れておきましたわ。あんな縁起の悪いものより、祈りのほうがずっと尊いでしょう?」
胸の奥がすっと冷えた。怒鳴りたかったわけではない。ただ、七年かけても何も届いていなかったことに、少しだけ息が詰まった。
一族としての貸与は七十年。私が引き継いだのは、ヴェルナルド殿下の婚約者になった七年前からだ。王家の儀礼、外交、婚姻契約に、毎月少しずつ幸運を貸してきた。晴れるはずのない日に雨を遅らせる。毒杯を取るはずの指を迷わせる。会談相手が怒って席を立つ前に、好物の菓子が出る。その程度のことだ。
幸運は、何もないところから湧く祝福ではない。誰かが約束を守り、窓を閉め、書類を読み直し、眠い目をこすって備えた分だけ、ほんの少しずつ積まれる。その積まれた分を、黒革の手帳に日付、貸与先、用途、代償、返却条件、署名で縛って貸す。備えのない願いは、手帳に書いてもただの願いのままだ。鍵は、その貸与契約を大きく開け閉めするためのもの。小さな幸運は、条件が満たされたとき、手帳に結ばれた範囲で流れる。
「確認いたします、殿下」
私は、なるべく声を乱さないように言った。
「いまのご発言は、ルシュフォード伯爵家とクラウディア王家の幸運貸与契約における、契約継続意思の放棄に該当いたします。今ならまだ間に合います。お取り消しになりますか」
会場がまた笑った。殿下も笑った。
「取り消すものか。幸運貸与契約など、古い家が王家に恩を着せるための作り話だろう」
会場の端で、宮廷占星術師のサイナス卿だけが顔色を失っていた。やはり彼は知っている。知っていて黙っていたのだ。私は銀の鍵を外した。
「作り話であれば、解除しても問題はございませんね」
「好きにしろ」
「承知いたしました」
かちり、と鍵を回す。小さな音だった。その瞬間、楽団の弦が一本切れた。甲高い音が舞踏会場を裂き、音楽が一拍だけ崩れる。
それだけだった。シャンデリアは落ちない。誰も倒れない。王城に雷も落ちない。けれど、サイナス卿の唇は白くなっていた。
「本日をもって、クラウディア王家への幸運貸与契約を終了いたします」
私は鍵を掌に収めた。
「貸与中の幸運は、ただいまをもって全て返却されました」
「終わったか」
殿下は鼻で笑った。
「では出て行け。二度と私の前に姿を見せるな」
そのとき、セレイナの首元で小さな音がした。
ぱちん。
王家の真珠の首飾りが切れ、白い粒が大理石の床を転がっていった。七十年間、一度も糸が切れたことのない、由緒正しき王家の祝福の首飾り。セレイナが短く悲鳴を上げた。会場がざわめいた。
「ただの古い糸ですわ」
私はそう言って、笑った。ちゃんと笑った。少なくとも、あの子に泣き顔は見せなかった。
「幸運など、作り話なのでしょう?」
殿下の眉が、初めてわずかに動いた。
もう遅い。
私は深く礼をした。
「私を軽んじる方々の幸福まで、私が背負う理由はなくなりました」
誰も答えなかった。
大扉へ向かう途中、サイナス卿だけが震える声で私を呼んだ。
「ル、ルディア嬢。ほ、本当に、全てを引き上げたのか?」
「はい」
「一部だけでも、王都に残すことは……」
「王都ではなく、王家から引き上げただけです。民の暮らしを巻き込むつもりはございません」
「では、今夜の星読みは」
私は足を止めた。今夜は隣国使節の前で吉兆を示す星読みの儀がある。三日前から占星術師たちは晴天を保証していた。先ほどまでは晴天だったが、耳を澄ますと窓の外から雨音が聞こえてきた。
「晴れる準備をなさっていたなら、大丈夫でしょう」
サイナス卿は何も答えなかった。雨音が強くなる。王太子殿下はまだ、何が起きたのかわかっていない顔をしていた。それでいい。
今夜だけで終わる話ではないのだから。
翌朝、私はルシュフォード伯爵邸で荷をまとめていた。持っていくものは多くない。古い契約書に、母の鍵箱、数冊の帳簿。幸運貸与の記録を綴った黒革の手帳。
ドレスも宝石も、ほとんど王宮に置いてきた。惜しくはない。あれらは王太子妃になるために必要だったものだ。もう、私には必要ない。
「お嬢様、本当に王都を出られるのですか」
侍女のライラが、泣きそうな顔で尋ねた。
「ええ。午前中には」
「ですが、王宮からお迎えが来るのでは……」
「来ないわ。少なくとも、午前中には」
「どうしてですか?」
「殿下の馬車は、時間どおりに出ないから」
私が答えたちょうどそのときだった。玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえた。執事が扉の前で一礼する。
「お嬢様。王宮より、早馬で知らせが」
「早馬?」
「はい。ただ、途中で馬が蹄鉄を落としたそうで。早馬というには、いささか遅い到着でございますが」
ライラが息を呑んだ。私は手袋の紐を結びながら頷いた。
「通して」
現れたのは、昨夜の舞踏会で壁際に控えていた若い文官だった。髪は乱れ、外套には泥が跳ねている。
「ル、ルディア様。王宮にお戻りください」
「何があったのですか」
「星読みの儀が失敗しました」
「えっ」
ライラが小さく声を上げる。
「それだけではございません。雨雲の切れ間を待つため、開始を一刻遅らせました。ですが、そのあいだに隣国使節団の馬車が水溜まりで車輪を取られまして。ようやく全員が揃ったと思ったら、星見台へ上がる階段で、殿下が滑られました」
「お怪我は?」
「足首を少し。命に別状はありません。ただ、隣国使節の前で、その……」
文官は言いにくそうに視線を落とした。
「セレイナ様が殿下を癒やそうと祈られたのですが、何も起きず」
部屋が静かになった。セレイナの祈りは昔から劇的だった。雨の止んだ収穫祭。王女殿下の熱が下がった夜。怒っていた公爵が、急に会談の席に笑顔で戻った朝。どれも彼女の祈りのおかげだと、王宮は喜んだ。
そのたびに、黒革の手帳には日付と用途と、小さな銀の印が増えた。誰もそれを知らなかった。
「宮廷医師が処置をなさいました。ですが、包帯を巻こうとしたところ、用意していた包帯が湿っておりまして」
「昨夜の雨で?」
「保管庫の窓が、閉まりきっていなかったそうです」
「そう」
「さらに、隣国使節へ提出するはずだった吉兆の記録書に、雨漏りの水が落ちました」
「そんなに重なること、あります?」
ライラがぽつりと言った。
ある。
これまでも、あり得た。ただ今までは、閉まりきっていない窓に誰かが気づいた。馬車が水溜まりに入る前に御者が手綱を引いた。濡れるはずの書類を、偶然、別の机に移していた。王宮の人々は、それを「いつも通り」と呼んでいた。
「で、王太子殿下は、なんと?」
「ルディア様を、すぐ連れ戻せと」
「どのような理由で?」
「昨夜の無礼を許してやる、と」
文官は喉を鳴らした。
ライラの顔から表情が消えた。執事も静かに目を細める。私は少しだけ笑ってしまった。本当に、何もわかっていない。
「戻りません」
「ですが」
「私は昨夜、正式に婚約を解消されました。王宮への出仕義務も、王家への幸運貸与契約も終了しています」
「サイナス卿も、そうおっしゃっていました」
「では、なぜあなたが来たのですか?」
「殿下が、サイナス卿を謹慎させると。あの者が不吉なことを言うから儀式が乱れたのだ、と」
私は手を止めた。
サイナス卿は保身の人だ。知っていながら黙っていた。けれど、今朝の失敗は彼のせいではない。
「お伝えください」
私は文官を見た。
「契約を終えた相手に、返却を求めることはできません。それから、殿下にもう一つ」
文官が背筋を伸ばす。
「私を許す必要はございません。私も、殿下に許しを求めておりませんので」
文官は目を見開いた。それから深く頭を下げた。彼が去ったあと、ライラが震える声で言った。
「お嬢様、怖くないのですか」
「怖いわ」
王太子に逆らった。王家との契約を終えた。七十年続いた役目を、私の代で断ち切った。怖くないはずがない。
「でもね、ライラ。怖いから戻るなら、七年間の帳簿まで笑いものにされるわ」
それだけは、もう嫌だった。
そのとき、門の外で馬車が止まる音がした。王宮のものではない。車輪の音が軽く、馬の足取りも整っている。家紋の入った深緑の馬車だ。ライラが窓辺へ駆け寄った。
「お嬢様、隣国の使節団の馬車です」
扉が開き、長身の男性が降りてくる。黒髪に灰色の瞳。昨夜、星読みの儀に招かれていた隣国外交官。ローレンツ・ヴァルシュタイン卿だった。彼は雨上がりの庭を進み、玄関先で私に礼をした。
「ルディア・ルシュフォード嬢。突然の訪問をどうかお許しください」
「王宮ではなく、こちらにいらしたのですね」
「王宮へ戻れば、あなたを呼び戻すための道具にされそうでしたので」
思っていたより、はっきりした物言いだった。ローレンツ卿は、少し困ったように笑う。
「本国の上官からは、王家の内紛に関わるなと釘を刺されています。ですので、これは少々、私の出世によろしくない訪問です」
「それなのに?」
「昨夜、あなたが一人で会場を出ていくのを見ました」
彼は私の胸元の鍵に、一瞬だけ視線を落とした。「あの場で止められなかったことを、今朝からずっと後悔しています」
うまい返事が出てこなかった。完璧な救いの手ではない。遅れた手だ。でも、遅れたことを言える人だった。
「クラウディア王家は今朝、我が国との予備協定書に印章を押し間違えました。こちらにとっては好都合でしたが、私は不注意の原因に興味があります」
「原因もなにも、それは王家の不注意でしょう?」
「はい。だから、これまで不注意が表に出なかった理由にも興味があります」
風が吹いた。雲の切れ間から、細い光が庭に落ちる。ローレンツ卿は私に向き直った。
「あなたのお母上から、一度だけ聞いたことがあります。幸運を貸す家の者は、自分の幸福まで契約に混ぜてしまうことがある、と」
胸の奥が、静かに揺れた。この人は母を知っている。それだけで、昨夜から凍っていたものが、ほんの少しほどける気がした。
「我が国には、あなたの力を奇跡として消費するつもりはありません。契約として、敬意をもって迎えたい」
王宮の方角で、遠く鐘が鳴った。一度。二度。三度。予定より早い鐘だ。きっとまた、何かが起きたのだろう。
「ローレンツ卿。私は、幸運を売る女ではありません」
「存じています」
「努力のない場所に、風は貸せません」
「その条件で結構です」
迷いのない返事だった。
「では、まず契約書を拝見します」
「もちろん。三部用意してきました」
「手際がよろしいのですね」
「ここで一部だけ差し出したら、あなたに門前払いされると思いましたので」
少しだけ笑ってしまった。ローレンツ卿が持参した契約書は、角が少しだけ潰れていた。急いで鞄に詰めたのだろう。けれど中身は、きちんとしていた。契約期間、貸与範囲、対価、解除条件、貸与者の尊厳を侵害した場合の即時停止条項。契約書の三枚目で、私は手を止めた。
「貸与者本人の不利益をもって、契約相手の利益を補填してはならない。……この条項は、どなたが?」
「私です。不備がありましたか?」
「いいえ。驚いただけです」
母は優しい人だった。否、優しすぎる人だった。王家のために、王妃様のために、国のために。そう言いながら、いつも自分のことを最後にしていた。気づいた時には、母は病に倒れた。一日発見が早ければ助かったと、のちに王国の主治医から言われた。
私はその一日を、まだ許せずにいる。
「母をご存じだったのですね」
「一度だけお会いしたことがございます。私がまだ少年だったころです。国境の会談で、クラウディア側の随員として来ていらした」
「母は何を?」
「会談前夜、父が落とした万年筆を拾ってくださいました。父はその万年筆で、翌日、協定書に署名した。あとで知りました。別の筆を使っていたら、インクがにじんで署名が無効になるところだったと」
「それは偶然です」
「はい」
ローレンツ卿は頷いた。「私は、その偶然を雑に扱う人間が嫌いです」
そのとき、屋敷の外から乱暴な馬車の音が響いた。先ほどのローレンツ卿の馬車とは違う。車輪が石を踏み、馬が落ち着きなく鼻を鳴らしている。ライラが窓の外を見て、顔をこわばらせた。
「お嬢様。王太子殿下です」
思ったより早い。
玄関広間に出ると、扉が開くより先に殿下の声がした。
「ルディア! いるのだろう!」
ヴェルナルド殿下は、昨夜の華やかさをどこかに落としてきたようだった。金髪は湿って乱れ、片足をかばうように歩いている。外套の裾には泥がつき、右手には折れた杖を握りしめている。その隣に、セレイナがいた。首元にはあの王家の真珠はない。代わりに巻かれた薄桃色のリボンが、妙に安っぽく見えた。
「ルディア」
殿下は私を見るなり、安堵と怒りの混ざった顔をした。
「すぐに、王宮へ戻れ」
挨拶も謝罪もない。この方は、本当に一度も私を対等な契約相手だと思ったことがないのだ。
「戻りません」
「意地を張るな。昨夜の件は、もう水に流してやる」
ローレンツ卿が、隣でわずかに眉を上げた。
「私は水に流していただく立場ではございません。昨夜、殿下はご自身の意思で婚約を破棄なさいました」
「だから、もう一度婚約者にしてやると言っている」
セレイナが、慌てて殿下の袖を引いた。
「殿下、それでは私が」
「黙っていろ、セレイナ」
セレイナの顔が強張った。昨夜、あれほど甘く見つめていた相手に、殿下はもう苛立ちを隠さない。幸運がなくなったから、性格が変わったわけではない。うまくいかないときに隠れていた本性が、表へ出ただけだ。
「王宮は混乱している。星読みは失敗し、隣国との協定書も差し戻された。朝議では大臣が二人、同じ資料を別々に読み上げた。厨房では祝宴用の菓子が焦げた。セレイナの祈りも、なぜか今日はうまく働かない」
「どれも起こり得ることですよ」
「だが、今までは起きなかった!」
「はい。今までは」
殿下は息を詰まらせた。その顔に、ようやく理解の影が差した。反省ではない。失ったものの価値に気づいた者の焦りだ。
「ならば戻せ」
「何をでしょう」
「幸運だ!」
広間に声が響いた。
「できません」
「なぜだ? 契約だろう。もう一度結べばいい」
「一度破った契約を、同じ顔で差し戻されても困ります」
「私は王太子だぞ」
「はい」
私はまっすぐ殿下を見た。
「だからこそ、契約を軽んじる方とは結べません」
ヴェルナルド殿下の目が、細くなった。
「ならば、ルシュフォード家の書庫を封じる。王家に関わる契約書は、すべて王家の管理下に置く。お前が持ち出した黒革の手帳もだ」
ライラが息を呑んだ。執事の顔から血の気が引く。
「従わぬなら、契約解除を王家への背信として扱う。伯爵家の爵位も、無事では済まぬぞ」
怖くない、と言えば嘘になる。
母の鍵箱。祖母の帳簿。曾祖母が最初に結んだ、雨染みのある契約書。
私だけのものではない。七十年分の沈黙と、七十年分の小さな代償だ。それでも、差し出すわけにはいかなかった。私は鞄から黒革の手帳を取り出した。
表紙の裏には、母の字で三つの決まりが残っている。
備えのない願いに貸すな。返却条件のない貸与をするな。貸与者の尊厳を代償にするな。
「では、差し押さえられる前に写しを取ります」
殿下が眉を跳ね上げる。
「何?」
「ライラ、青封筒を二つ。執事長、控え用の羊皮紙を」
震えた返事が、二つ重なった。それでも二人は動いた。誰かが動く音がするだけで、足元の床が少し戻る。
「貸与記録の写しを、クラウディア国王陛下と、昨夜の隣国使節団へ提出します。王家が私を背信者として裁くなら、私も記録で答えます」
広間の空気が、一段冷えた。ローレンツ卿が、静かに手を差し出す。
「私が預かりましょう」
「ローレンツ卿」
「本国からは、関わるなと言われています」
彼は困ったように笑った。
「ですが、ここで見なかったふりをしたら、父の万年筆の話をした資格がなくなる」
私は手帳を渡した。その瞬間、セレイナが涙を浮かべて前へ出た。
「お姉様、お願いします。殿下を困らせないで。あなたは昔からそうでした。難しい書類ばかり持ち出して、みんなを不安にさせて。鍵箱の前に座って、大人たちにだけ必要とされて。私は笑って、祈って、綺麗な服を着るしかなかったのに」
その声には、演技ではない棘が混じっていた。
「セレイナ」
私は彼女の名を呼んだ。妹は、勝てると思ったのだろう。涙を浮かべたまま、可憐に微笑む。
「はい、お姉様」
「あなたは昨夜、私の控え書類を要らないと言いましたね」
「だって、本当に縁起が悪くて」
「今朝、王宮で印章を押し間違えた協定書。本来なら、私の控え書類に訂正履歴がありました」
彼女の唇が止まった。
「あなたが捨てた書類です」
広間が静まり返った。殿下がセレイナを見た。
「わ、私は知りません。そんな大事なものだなんて、お姉様が教えてくださらなかったから」
「教えました。三度。あなたはそのたび、私の話を最後まで聞きませんでした」
セレイナの目に、今度は本当の涙が浮かんだ。
「去年の収穫祭で、雨が止んだ日を覚えていますか」
「え?」
「あなたの祈りのおかげだと、皆が褒めた日です」
セレイナは、反射のように顎を上げた。
「そうですわ。あれは私が」
「幸運貸与記録には、私の署名があります」
セレイナの顔から、色が引いていく。
「王女殿下の熱が下がった夜も。公爵が会談に戻った朝も。あなたが祈ったあとに起きた奇跡のほとんどは、王家名義の幸運貸与の範囲内でした」
「嘘よ」
「嘘なら、今朝の殿下の足首も癒やせたはずです」
セレイナは口を開けた。だが何も出てこなかった。ローレンツ卿が、静かに契約書を差し出す。
「ルディア嬢」
その声で、私は我に返った。
「この契約書には、訂正用の余白も、証人欄も、解除条件もある。あなたの指摘に耐えられるよう、私なりに準備しました」
ヴェルナルド殿下の視線が、初めてローレンツ卿に向いた。
「貴様、ルディアに何を」
「契約を申し込んでいます」
ローレンツ卿は穏やかに答えた。
「敬意をもって」
「ルディアは、私の婚約者だ」
「昨夜、公衆の面前で婚約を破棄されたと聞いています」
「取り消す」
「婚約は契約です。相手の同意なく、取り消すことはできません」
殿下は私を見た。命令すれば、私が従うと思っている目だった。かつての私は、従っていたかもしれない。国のために。家のために。母が守ったものを壊さないために。
でも、母が守りたかったのは、王家の椅子ではなかったはずだ。
「殿下。私はあなたの婚約者には戻りません」
「なぜだ?」
「私は幸運を貸す家の娘です」
銀の鍵を、掌の中で握る。「けれど、私自身の不幸まで差し出す契約は、先祖から一度も結んでおりません」
殿下の顔から、血の気が引いた。セレイナが小さく首を振る。
「お姉様、そんな言い方」
「あなたにも貸せません」
私は妹を見た。
「誰かの仕事を捨てて、その成果だけを祈りと呼ぶ人には」
今度は誰も彼女を庇わなかった。外でまた雨が降り始める。殿下は唇を震わせた。
「では、王家はどうなる?」
その問いだけは、少しだけ本音に聞こえた。
「書類を確認し、約束を守り、失敗したら謝る。それだけです」
殿下は呆然とした。まるで、途方もない難題を出されたような顔だった。
「帰ってください、殿下」
私は言った。「あなたの幸運は、もうあなた自身で育てるものです」
殿下が何かを言おうとしたとき、玄関の外で馬が大きく嘶いた。従者が駆け込んでくる。
「殿下! 馬車の車輪が、また」
「まただと?」
「はい。昨夜応急処置した箇所が、まだ直りきっていなかったようで」
私は何も言わなかった。ローレンツ卿が、私の隣で契約書を差し出す。
「雨が強くなる前に、署名を済ませましょう。私の馬車は整備済みですので」
「それは幸運ではなく、準備ですね」
「ええ。だから、最後の一押しだけお願いしたい」
私は羽根ペンを取った。インク壺の縁に、一滴、黒い雫が揺れている。落ちれば契約書を汚す位置だった。ローレンツ卿は、すぐに吸い取り紙を差し出した。
こういう人たちになら貸せる。私は署名した。ルディア・ルシュフォード。その名を書き終えた瞬間、窓の外で雲が切れた。
雨はまだ降っていた。けれど屋敷の門から馬車までの道だけに、淡い光が差していた。ローレンツ卿は大げさには驚かなかった。ただ、私に向かって丁寧に頭を下げた。
「ようこそ、ルディア嬢。我が国は、あなたを契約相手として歓迎します」
私は銀の鍵を胸元に戻した。もう、王家に繋がれた鍵ではない。私が、私の意思で使う鍵だ。
三日後、私はクラウディア王城の謁見の間にいた。戻りたかったわけではない。
ローレンツ卿に預けた貸与記録の写しは、その日のうちに隣国使節団と国王陛下の手元へ届いた。翌朝、王宮から正式な召喚状が来た。そこには、謝罪と証言要請の文字があった。
隣にはローレンツ卿がいる。
「本当に同席なさるのですか?」
「はい。ここまで来て廊下で待つほど、私は行儀よくありませんので」
そう言って笑う目の下に、薄い隈があった。この三日、彼は私の後ろ盾になるために、本国と何通もの書簡を交わしていたらしい。越権だと叱責も受けたと、ライラがこっそり教えてくれた。本人は言わない。だから私も気づいていないふりをした。
謁見の間の中央に、ヴェルナルド殿下とセレイナが立っていた。殿下の顔は青ざめていた。セレイナは泣いていない。泣く余裕がないのだろう。国王陛下は、私に深く頭を下げた。
広間が息を呑んだ。
「ルディア・ルシュフォード嬢。クラウディア王家は、ルシュフォード伯爵家への侮辱を認める。七十年にわたる幸運貸与契約の貢献を、公的記録に残す」
一度、陛下の声が詰まった。ほんの短い沈黙だった。けれど、王冠より重いものがそこにある気がした。
「破棄された婚約について、そなたに一切の非はない」
陛下の視線が、黒革の手帳に落ちた。
「また、ルシュフォード家の書庫および貸与記録の差し押さえ命令は、王太子の越権として無効とする」
ヴェルナルド殿下の肩が震えた。陛下は続ける。
「ヴェルナルドを王太子位から外す。北方離宮で謹慎せよ。王家の契約を理解せず、貸与者を公の場で侮辱した責は軽くない」
その場で、殿下の肩から王太子の飾緒が外された。金糸が床に触れる音はしなかった。けれど広間中が、その音を聞いたように静まり返った。
「父上」
殿下の声は掠れていた。「私は、本当に知らなかったのです」
「知らなかったことも罪だ」
国王陛下は、短く言った。
それで終わりではなかった。舞踏会で扇の陰から笑っていた者たちにも、王の視線が向いた。
「私は何も申し上げておりません」
一人が震える声で弁明した。書記官は、淡々と控えを読み上げる。
「『ルディア様はいつも契約書ばかりですものね』。この発言で間違いないか」
令嬢の顔が赤くなり、次に青くなった。
ほかの者も同じだった。昨夜の笑い声は、もう誰の味方にもならない。彼女たちは一人ずつ顔を伏せ、正式な謝罪を命じられた。軽い笑い声の代金としては、安くない。
次に呼ばれたのは、セレイナだった。宮廷書記官が、古い記録を読み上げる。収穫祭の晴天。王女殿下の快癒。公爵との会談成立。セレイナが聖女候補として称えられた出来事の横には、ルシュフォード家の貸与記録が並んでいた。
「もう一度、祈りなさい」
国王陛下が言った。セレイナは震える手を組んだ。
「光よ、癒やしを……」
謁見の間に、薄い声が響く。何も起きなかった。
セレイナは、もう一度手を組んだ。
「光よ、お願い。お願いですから」
声が裏返る。祈りの形をした、ただの懇願だった。三度目には、彼女はヴェルナルド殿下を振り返った。
「殿下、私を信じてください。私は、私は聖女だって、皆が……」
殿下は一歩、後ろへ下がった。
それが答えだった。
誰も、咳払いすらしなかった。その沈黙が、彼女の称号を剥がした。
セレイナは膝から崩れ落ちた。
「違うの。私は、本当に、皆が喜んでくれるから」
その言葉だけは、少し本当だったのかもしれない。でも、誰かの仕事を自分の奇跡として受け取ったまま、返そうとしなかった。それもまた、選んだことだ。
「セレイナ・ルシュフォードの聖女候補資格を剥奪する。王家より受けた褒賞も、すべて返上せよ」
「そんな……」
セレイナは私を見た。助けて、と唇が動いた。けれど声にはならなかった。私も手を伸ばさなかった。
宮廷占星術師サイナス卿は、最後に証言台へ立った。
「私は、契約が本物であると知っていました」
彼は一度だけ、私を見た。「知っていながら、守りませんでした」
それだけ言うと、彼は深く頭を下げた。宮廷を去ることは、もう決まっているらしかった。
謁見が終わったあと、廊下でヴェルナルド殿下に呼び止められた。
「ルディア」
以前のような命令の声ではなかった。だから、足を止めた。「本当に、私は外されたらしい」
殿下は、ぼんやりと自分の手を見ていた。
「私は知らなかった。あの契約のことも、セレイナの祈りのことも。本当に、誰も教えなかったのだ」
殿下は一歩、こちらへ寄った。護衛が止めるより早く、彼の膝が折れた。磨かれた廊下に、片手がつく。王太子だった人が、私の前で床を見ていた。
「だから戻ってくれ。私には、まだお前が必要だ」
私は答えなかった。何か慰めを言えば、きっと楽だった。でもそれはもう、私の役目ではない。
知ろうとなさらなかっただけです。
その言葉は、胸の内にしまった。
「殿下」
私は、床についたその手を見下ろした。「私を見捨てたのは、殿下が先です」
殿下の顔が歪んだ。
一か月後、私は隣国ヴァルシュタイン公国の契約庁にいた。
ローレンツ卿が用意した部屋は、王宮の控室よりずっと小さい。だが窓が大きく、机は明るく、書類はきちんと分類されていた。
「ルディア嬢」
ローレンツ卿が扉を叩いた。
「本日の式典は、予定どおり始められそうです。ただ、朝から雨でして」
私は窓の外を見た。石畳を濡らす雨は、静かで、やさしい。
「晴れにしなくてよいのですか?」
私が尋ねると、ローレンツ卿が微笑んだ。
「雨でも式典が開催できるよう、準備していましたから」
侍従たちは大きな傘で濡れないよう通路を整え、料理人たちは温かいスープを用意し、楽師たちは湿気に強い弦を選んでいた。
窓の向こうで、雲の縁が少しだけ薄くなっていた。
鍵を開ける必要はなかった。この国の準備は、もう契約の中にある。
雲の切れ間から光が差し、濡れた石畳が明るく光る。ローレンツ卿が隣に立つ。
「これは、あなたの幸運ですか?」
「いいえ。皆さまが昨日まで準備を怠らなかったからです」
私は少しだけ笑った。
「私は、風を少し借りただけ」
ローレンツ卿は私の手を取った。王太子殿下のように、所有物をつかむ手ではない。触れてよいか、こちらの様子をうかがうような様子だった。
この手なら、怖くないと思った。
「では、これからも」
「はい」
私は胸元の銀の鍵に触れた。雨上がりの空は、よく晴れていた。
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