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9.春風


 午後七時頃。辺りはすっかり真っ暗。

 私は職場の帰路を歩いている。視線を落としたままアパートの通路を進み自分の部屋の前まで来るとそのままドアノブに手をかけた。

 (鍵を開けていないのに開くわけがないじゃないか……)

 と、その動作の直後に気付く。

 だが始めてしまった動作は止められない私。そのままノブをひねり、引く。

 思いの外、ドアは開いた。

 (ああ、私は鍵を閉め忘れてしまうほど朝から疲れていたのだろうか)

 心の中で自分に苦笑しつつ、室内へ目をやる。

 室内はなぜか明るかった。

 中に入ってすぐいつものリビングがある。

 部屋の中央には一人用テーブル。

 その上に置かれたコップ。

 流れるテレビの音。

 リビングの床に寝そべるおじさん。

 おじさん?

 

 「……! ひっ、し、失礼しましたっ」

 

 とっさに、開けたばかりのドアを閉め直す。

 たしか隣の部屋にはおじさんが住んでいたはず。

 すかさずドアの横に掲げられている表札を確認する。

 

 『笹木』

 

 どうやら隣の部屋と間違えて入ってしまったというわけではないらしい。

 だか、その点で安心ばかりしてもいられない。

 (じゃあ、あのおじさんは?)

 扉を閉めて数秒後、再びノブへと手をかけ、開ける。

 中を見るとついさっきほどまで床でくつろいでいたおじさんは、いなくなっていた。

 リビング中央にはいつも見慣れた一人用テーブル。

 その上にはコップ。

 テレビが静かに流れていた。

 コップもテレビもリビングの電気もこれらすべて今朝、私が片付けることなく残して出ていったものであることに気がつく。


 中へと上がり、卓上のコップを見れば、朝のインスタントコーヒーがそのまま底にうっすらと残っている。

 冷えきったそれは表面に1日分のホコリを浮かべ漂わせていた。

 そして何故か、室内にも関わらず柔らかで澄んだ空気が流れてくる。見ればリビングの窓が全開になっており、そこから夜風が入ってくるのだった。柔らかな風でカーテンが時折揺れている。


 一応、一通り室内を確認したが通帳など盗まれているものはなかった。風呂場や収納などにも誰もいない。

 (じゃあ、あのおじさんは……?)

 リビングへと戻り飲みかけのコップをシンクへと持っていく。

 テレビはなんとなく付けておく。地方局番であった。

 すると、ニュース番組が始まった。ローカルニュースをいち早く電波にのせるそれであった。

 

 “ 8時のニュースをお伝えします。ここで速報です。ここ10日続いておりました◯✕県◯✕市△△町の空巣事件の犯人と名乗る男が今夜19時頃、同地域の交番に出頭したとの情報が入りました。男は――― ”

 

 (ふうん。そんなことがあったのか)

 自分の住む地域で起こっていたそんな事件を聞いてもなお、私はいまいち感情が湧かず聞き流しコップを濯いでいた。

 自身の住む地域のことなのにどこか別の世界の話しに思えてしまう。

 そんなことよりも、今だ。明日、明後日のことを考えねば。

 コップを洗い終えるとついでに鍋へ水を入れて火にかける。

 その間に風呂を沸かす。今日は洗濯機もしなくてはだいぶ溜まっている。

 今日やるべきことを早く済ませなくては。

 

 明日のため、今日の仕事は完璧に終わらせておく。

 今日は明日のため。明日は明後日のため。明後日は明明後日のため。今月も終わりに近い。来月は恐らくもっと忙しくなるのだ。今月は来月の仕事のために……

 だから、今頑張らなくては。

 

 “ ここで新たな情報が入りましたのでお伝えします。出頭した男は、自ら出頭した理由として〝もう疲れた〝と供述したとのことです ”

 

 疲れた、か。何だそれ?そんなことで何度も盗みを繰り返すな。

 なんて批判し憤ることができるような私ではなかった。

 それよりかは、テレビの傍らのシンクでひとり、鼻で笑ってしまうのだ。それは出頭した男に対してか、はたまた自身に対してなのか。


 私も疲れた。


 今日は明日のため。明日は明後日、明明後日のため。今月は恐らくもっと忙しくなるであろう来月のために……

 

 「でも、来月は少し、休もうかな」

 

 だから今月は来月休むためにあと少し、頑張ろう。


 開けている窓から、柔らかな夜風が入ってきては室内のこもった空気を入れ換えてゆく。

 窓のカーテンが風を受けて時折緩慢に揺れている。






 (完)



ありがとうございました

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