廃砦の闇 ― 名前を持つ影
廃砦の闇 ― 名前を持つ影
魔獣との戦いが終わった後も、砦には陰が残ったままだった。
黒い爪痕、焦げた石壁、深い裂け目。
生温い風が血と腐敗した肉の匂いを運ぶ。
騎士たちの足音だけが乾いた土を踏みしめて響く。
リリアナは瓦礫の中に膝をつき、負傷者へ治癒を施し続けた。
癒しの光は穏やかで、先ほどの暴走の気配は抑えられている。
だが胸の奥では、いつ暴れだすかわからない黒焔がくすぶっている。
(制御できている……今は。でも……)
一瞬の気の乱れで、味方をも滅ぼしかねない。
その恐怖が、冷たい汗となって背を伝った。
「リリアナ、無理をするな。」
アレンの声がすぐそばから聞こえた。
鎧の金具が鳴り、彼の影がリリアナを覆う。
「大丈夫、です……まだ治せる人が――」
顔を上げたリリアナの目の前で、アレンがそっと膝をつく。
彼の手がリリアナの手を包む。
その動きは意図的ではない。
ただ――自然とそうなった。
「お前自身が傷ついては意味がない。」
まっすぐな瞳。
口調は厳しいのに、不思議と安心できる。
(……どうして、この人は……)
心を掴まれそうになる自分に気づき、リリアナは慌てて視線を逸らした。
「……はい。」
アレンは騎士団長のバルドウィンを呼んだ。
「砦内部の調査状況は。」
「死者多数。生存者は先ほどの治療で13名に。
ですが……奇妙な点がありまして。」
「奇妙?」
「魔獣に喰われた形跡がほとんどないのです。」
リリアナとアレンが顔を見合わせる。
「では……どうやって命を落としたのですか?」
「みな、魂を抜かれたように死んでいると。」
バルドウィンは眉をひそめ、声を潜めた。
「まるで、生命力そのものを奪われたような状態です。」
(生命力……)
それは癒しの力と同質のエネルギー。
だが、逆方向へ振り切れたら――
(滅びをもたらす力……)
リリアナの胸が強く痛んだ。
「殿下、こちらを。」
別の騎士が、砦の兵が使っていた魔導通信機の破片を差し出した。
その奥には焼け焦げた文字が残っている。
『アビス――』
文字はそこで途切れていた。
「アビス……?」
リリアナが呟く。
バルドウィンが説明を続ける。
「魔導師たちが古い文献で使う、深淵を意味する語。
かつて滅んだ帝国が迷信として恐れた存在の名前とも。」
アレンの表情がわずかに強張る。
「……やはり関係しているのか。」
「アレン様……何を知っているのです?」
問いかけるリリアナに、アレンは視線をそらす。
その沈黙が、彼の中に語れない真実の存在を示していた。
(アレン様……あなたは何と戦っているの……?)
追及しようとした瞬間――
砦南側の見張り台で騎士が叫んだ。
「殿下! 王都から……魔導通信が!」
急いで通信魔導具へ駆け寄る。
浮かび上がった魔法の文字は――
『リリアナ聖女に即時帰還命令
砦の救援任務より王都での政治会議を優先せよ
王家評議会』
アレンの表情が冷たく変わった。
「……何を考えている。」
戦場を放り出し、政治の場へ引き戻す――
それはただ一つ。
リリアナを権力争いの駒として使うため。
騎士たちもざわつく。
「この状況で帰還命令……?」
「魔獣の脅威を軽視しているのか……?」
リリアナは戸惑いを隠せなかった。
「私……どうすれば……」
アレンが彼女へ歩み寄る。
「答えはひとつだ。」
近くへ来すぎて、胸が高鳴る距離。
声は低く、しかし深い情を帯びていた。
「リリアナ。
お前が――行きたい方へ行け。」
「え……?」
「政治の都合ではなく。
お前自身の意志で選べ。」
その言葉は、重くもあり、救いでもあった。
(私が選ぶ……?)
「私は……私は……!」
リリアナは震える手を胸に当てた。
助けを待つ人が、まだいる。
ここには苦しむ者がいる。
誰かの意志で利用されるために呼ばれたのではない。
(私は――救いたい。)
リリアナは決意を込めて言った。
「残ります。
私は、救える命を見捨てられません。」
アレンの口元が、わずかに緩む。
「それでいい。」
王太子としてではなく、
一人の人間としての誇りがその言葉に宿っていた。
だがそのとき、
魔獣が消えた地点から黒い痕跡が光を放ち始めた。
地面に刻まれた、禍々しい魔紋。
その中心に――赤い一つ目。
リリアナは思わず息を呑む。
(これ……見覚えがある……夢の中で……?)
アレンがリリアナと同じものを見て、小さく呟いた。
「アビスの刻印……」
「アビス……それは誰なのですか?」
ほとんど囁き声。
だが、アレンははっきり答えた。
「魔獣を意志で操り、人の命を喰らう者。
かつて大陸を滅ぼしかけた災厄の王の名だ。」
空気が凍りつく。
アレンは続けた。
「そして──」
リリアナの瞳をまっすぐ見つめる。
「アビスは、聖女の力を欲している。」
「ど、どうして……私を……?」
「理由は知らない。」
アレンの拳が固く握られる。
「だがひとつだけわかることがある。」
光と影の狭間で、王太子は宣言した。
「――お前はアビスにとって、脅威だ。」
リリアナの胸に、光が灯る。
怖い。
けれど、誇らしい。
その瞬間――
砦の地下へ続く階段から、うめき声が響いた。
「……助け……誰か……」
アレンとリリアナはすぐに駆けだした。
闇の奥へ進むにつれ、冷気と腐臭が強まる。
震える明かりの中、兵の残した血痕が階段へ続いている。
リリアナは灯を掲げながら囁いた。
「まだ、生きている人がいる……!」
追い詰められた恐怖と絶望の中で、それでも声を上げた者がいる。
助けられる命。
ならば――
「行きましょう、アレン様。」
アレンは剣を静かに引き抜いた。
「もちろんだ。」
二人の足音が、闇へ吸い込まれていく。
地の底で蠢く影が、侵入者をあざ笑うように揺れた。
神と魔が交差する戦いは、まだ始まったばかり。
リリアナの祈りは問われ続ける。
救うか、壊すか――
その力はどちらへ傾くのか。
闇の奥で、誰かが微笑んだ。
赤い瞳が、静かに開く。




