王都アルスター到着 ― 二つの声が交差するとき
王都アルスター到着 ― 二つの声が交差するとき
黒馬車に揺られる時間は、思ったよりも長く感じた。
王都への道は舗装が整っており、石畳が滑らかに続いている。
けれど、胸の奥でざわつく緊張は、道の穏やかさとは反比例して大きくなるばかりだった。
リリアナは指先を組み、何度も深く息を吸う。
考えないようにしても、思考は停まらない。
自分を追放した国の影。
暴走の兆しを見せた力。
期待と不安の重なり。
そして――隣に座る青年王太子アレン。
彼はずっと無言だったが、その沈黙は冷たさではなく、考えを深めている静けさだと感じた。
不思議な安心感と同時に、言いようのない距離を思い知る。
彼が差し伸べた手は温かかったが、まだその奥に踏み込むには遠い。
馬車が緩やかに速度を落とした。
視界が開け、リリアナの息が止まる。
王都アルスター――銀の都。
白い石造りの城壁が太陽の光を受けて輝き、蒼い尖塔がいくつも空へ伸びている。
城を中心に円を描くように整備された街路には、赤や緑の屋根が規則正しく並び、
まるで花畑のような色彩を成していた。
人々は道を行き交い、市場の喧騒が音となって広がる。
それは王都でありながら、どこか開放的な温かみがあった。
「……綺麗……。」
思わず漏れた言葉にアレンが僅かに笑う。
「誇りに思う街だ。君にも気に入ってもらえたなら嬉しい。」
リリアナは頬が熱くなり、視線を窓へ戻した。
やがて王城の前へ差し掛かる。
城門前には騎士団が整列し、黒馬車を待ち受けていた。
その中央に立つ人物がアレンを見るなり膝をつく。
「お帰りなさいませ、閣下!」
響く声に合わせ、騎士たちの剣が一斉に上げられた。
礼の作法は美しい。しかし――視線の矛先は違う。
黒馬車の扉が開き、リリアナが一歩外に足をつけると。
周囲の空気が、凍るように変わった。
微かなざわめき。疑念と警戒の眼差し。
誰も声をかけない。ただ視線だけが突き刺さる。
「……あれが、噂の追放された聖女か。」
「本物かどうかわからぬ者を城に入れるとは……」
「疫病の元では? 王太子様はなぜあれを……」
囁く声は抑えているつもりだろうが、全部聞こえる。
リリアナの指先が震える。
胸の奥の傷口が再び開くような痛み。
だが次の瞬間、アレンが声を放った。
「彼女は聖女リリアナ・フィーネ。
――アルスターが正式に保護し、力を証明する者だ。」
堂々とした宣言。
その声に空気が震えたように感じた。
しかし反発の炎は消えなかった。
一歩進み出たのは、銀鎧を纏う長身の男――騎士団長バルドウィン。
「王太子殿下。無礼を承知で申し上げます。」
低く唸る声。鋭い視線。
「王宮に偽聖女を入れること、納得しかねます。」
露骨な拒絶。
兵の列もざわめく。
アレンは視線を逸らさない。
「偽か真かは、これから確かめる。」
「その方法を問いたいのです。」
バルドウィンはリリアナを見据える。
冷ややかだが、侮りではなく警戒の鋭さ。
「聖女であるなら、治癒と鎮静の祈りができるはず。
病棟で試験を行わせていただきたい。」
その言葉にリリアナの心臓が跳ねた。
試される。
また――あの痛みと向き合うことになる。
アレンは短く頷いた。
「受けよう。」
「……!」
リリアナは反射的にアレンを見る。
驚きと不安が混ざった視線。
彼は静かに応えるように言った。
「逃げたくなる気持ちは理解している。
だが君が前へ進もうとするなら――俺は迷わない。」
優しさではない。
信頼を前提とした言葉。
(私は……どうする?)
逃げることはできた。
追放された身、どこへ行っても縛りはない。
王に偽物と言われた瞬間に、人生は途切れたはずだった。
だが今、違う道が目の前にある。
もう一度歩けるかもしれない。
「……受けます。」
リリアナははっきりと言った。
その声は自分でも驚くほど強かった。
バルドウィンの目が僅かに細められ、評価するような温度が混ざる。
「では、病棟へ案内しよう。」
白い城壁の内側、その奥。
アルスター王城の医療棟は、魔獣侵攻が続く今、兵士と民が絶えず運ばれてくる最前線だった。
病棟へ入った瞬間、鉄の匂いと薬草の香りが混ざり合い、重い空気が押し寄せた。
呻く声、泣き声、祈る声――命の境界が脈打つ場所。
リリアナの胸がざわりと震える。
過去の光景がよみがえる。
癒せなかった命。暴れた力。
(だいじょうぶ……私は前へ進むと決めた。)
アレンが傍に立ち、静かに言う。
「試す対象は三名。重度の魔傷患者だ。」
「魔傷……?」
「魔獣の呪いで腐敗が進む傷だ。通常の治癒では止まらない。」
説明する声は冷静で、しかし焦燥が隠れてはいなかった。
ベッドの上には、黒い斑点が浮かぶ兵士が横たわっていた。
皮膚は焼け爛れ、体温は異常な高熱。
普通なら助からない。
「祈りを。」
バルドウィンが告げる。
試験は始まった。
リリアナは患者の手を取り、深呼吸する。
恐怖が喉を締め付ける。
だが逃げないと決めた。
「――癒しの光を。慈しみの祝福を。」
祈りが胸の奥から溢れ、手のひらへ流れる。
淡い光がゆらぎ、患者の皮膚を包んだ。
黒い斑点が僅かに薄れ、苦悶の表情が緩む。
「……成功……?」
医師たちが息を呑む。
しかし、同時に――胸の奥が熱く膨らんだ。
(また来る……!)
暴走の兆候。
光が強すぎる。
止めたいのに止まらない。
癒しが修復を越えて細胞を増殖させ、組織の崩壊へ向かう危険な流れ。
リリアナは苦しい息を吐く。
「アレン、手を……!」
「っ――リリアナ!」
アレンが即座に彼女の手を包むと、力が引き戻されるように収束した。
祈りは正常な形に整い、患者の呼吸が穏やかになる。
光が消え、沈黙が落ちる。
患者の傷は――消えていた。
完治。
誰もが目を見張る結果。
しかし、リリアナはまだ震える手を見つめていた。
制御できなければ、破壊が先に訪れていたかもしれない。
バルドウィンがゆっくりと近づき、深く礼をした。
「……確かに。聖女だ。」
さきほどの冷たさは消え、代わりに畏敬が宿る。
病棟の空気も変わった。
疑いから希望へ。
拒絶から信頼へ。
だが――全員ではなかった。
治癒を見てなお、憎悪の色を浮かべる者がいる。
声なき反発が、影のように残る。
(私を歓迎する者と、拒絶する者。
どちらも、ここには確かにいる。)
それが新しい現実だった。
アレンは小さく息を吐き、彼女の肩に触れる。
「これで契約の第一条件が整った。
残るは――制御。」
リリアナは頷く。
震えは消えないが、前へ進む覚悟は濃くなった。
この国で、自分は再び生まれる。
偽聖女ではなく、救済か破滅かの境界を歩む者として。
追放から始まった運命は、まだ序章にすぎない。
ゆっくりと目を開き、彼女は進む先を見据えた。
「次の試練を教えてください、アレン様。」
王太子は静かに微笑んだ。
「――明日、王宮の大評議にて。
君は救世の鍵として迎えられる。」
そしてその裏で、
彼女を排除しようと暗躍する勢力も動き始めることを――
まだ誰も知らない。




