聖女の声、王の耳へ
聖女の声、王の耳へ
戦場の翌朝は、
驚くほど静かだった。
血の匂いは残っている。
倒れた兵の影も、
まだ地面に刻まれている。
それでも――
鳥が戻り、
風が吹き、
世界は何事もなかったかのように動き出す。
だが、
人の心だけは違った。
最初に動いたのは、
戦場から遠い町だった。
「……聖戦軍が、
退いたらしい」
「完全勝利じゃない……
だが、負けてもいない」
「聖女軍は……
壊滅しなかった」
その事実は、
想像以上の衝撃をもって広がった。
なぜなら、
誰もが思っていたからだ。
――聖女軍は、
すぐに潰される。
――寄せ集めの軍に、
宗教と王権が敵うはずがない。
だが現実は違った。
「教会軍が、
引いた……?」
「神の軍が……?」
人々は、
初めて疑問を持った。
噂は、
いつも変形する。
ある町では、
こう語られた。
「聖女が祈った瞬間、
兵が立ち上がった」
別の町では、
こう言われた。
「剣が折れ、
怒りが鎮まった」
さらに遠くでは、
こう囁かれる。
「神は……
どちらの側にも
立たなかったらしい」
それは、
教会にとって
最も都合の悪い噂だった。
市場。
人々は、
声を潜めながら話す。
「聖戦って……
本当に必要なのか?」
「神は、
人を殺せと言うのか?」
「それとも……
教会が、
神の声を使っているだけなのか?」
今まで、
口にすらできなかった言葉。
だが、
聖女軍が生き残ったことで、
それを考える余地が生まれた。
「……聖女様は、
人を殺せと
言っていない」
「むしろ……
守ろうとしている」
人々は、
信仰を捨て始めたわけではない。
信仰と教会を、
切り離して考え始めたのだ。
それは、
革命に等しい変化だった。
王都アルスター。
大聖堂の奥で、
司祭長エルドレッドは
報告書を握り潰していた。
「……聖女軍が、
象徴になり始めています」
部下の声は、
震えている。
「民衆の一部が……
聖戦そのものを
疑い始めました」
エルドレッドは、
ゆっくりと顔を上げた。
「……だから言ったのだ」
「生かすべきでは
なかったと」
「だが……
まだ終わりではない」
彼は、
別の書状を手に取る。
「王は……
まだ沈黙しているな?」
「はい……
陛下は、
事態を静観しておられます」
エルドレッドは、
薄く笑った。
「ならば……
王に、
選ばせよう」
同じ頃。
聖女軍の陣地では、
一通の書簡が
慎重に運び込まれていた。
封蝋は、
地方有力貴族の紋章。
「殿下……」
副官が、
慎重に差し出す。
アレンは、
内容を読み、
静かに息を吐いた。
「……来たか」
「同盟の打診、ですか?」
「ああ」
アレンは、
書簡を畳む。
「正式なものだ」
「兵糧、補給路、
兵の一部提供」
「条件は……?」
「王太子派が
正統な王権を継ぐ意思があると
明言すること」
副官が、
顔を曇らせる。
「……それは……」
「政治だ」
アレンは、
短く言った。
「戦場だけでは、
戦争は終わらない」
だが――
その言葉は、
自分自身にも
言い聞かせるようだった。
その夜。
リリアナは、
焚き火のそばで
書簡を見つめていた。
「……王権……」
今まで、
彼女が向き合ってきたのは
教会と、戦場と、
目の前の命だった。
だが――
王は違う。
(……わたしは)
(王の前に、
立てるの……?)
アレンが、
隣に座る。
「……怖いか」
リリアナは、
小さく頷いた。
「王は……
すべてを決める人、ですよね」
「……ああ」
「わたしの力も……
必要か危険か
決められてしまう……」
その声は、
震えていた。
アレンは、
しばらく黙ってから言った。
「……王は、
神じゃない」
「選択を間違える」
「恐れる」
「そして……
逃げる」
リリアナは、
驚いて彼を見る。
「それでも……
人だ」
アレンは、
まっすぐに言った。
「だから……
お前の声が、
必要になる」
「……わたしの?」
「ああ」
アレンは、
彼女を見る。
「お前は、
王に命令しない」
「神の名も使わない」
「だが……
見た現実を語れる」
「それは……
誰よりも強い」
リリアナは、
胸に手を当てる。
戦場で見た顔。
祈りの中で触れた恐怖。
折れかけた心。
(……王は)
(それを、
聞いてくれるだろうか)
「……もし」
リリアナは、
勇気を振り絞る。
「もし……
王が……
聞かなかったら……?」
アレンは、
迷わず答えた。
「それでも、
語れ」
「語ること自体が、
選択だ」
その言葉は、
重かった。
だが――
逃げ場を与えないほど、
誠実だった。
その頃。
王城の最上階。
老王は、
窓から王都を見下ろしていた。
遠くで鳴る鐘。
ざわめく街。
「……聖女か……」
その呟きは、
独り言だった。
「神か……
人か……」
老王は、
深く息を吐く。
「……聞かねばならぬな」
誰にも聞こえない声で、
そう呟いた。
それは、
小さな決断だった。
だが――
国の行方を左右する、
最初の一歩だった。
リリアナは、
夜空を見上げていた。
星は、
変わらず輝いている。
だが、
自分の立つ場所は
確実に変わっている。
(……もう)
(祈るだけじゃ、
足りない)
(……話さなきゃ)
(人として……
聖女として……)
焚き火が、
静かに揺れる。
遠くで、
馬の足音。
王の耳へ、
聖女の声が
届く準備が、
静かに整いつつあった。




