聖女軍、始動 ― 祈りは剣となる
聖女軍、始動 ― 祈りは剣となる
朝霧が、丘陵を覆っていた。
それは、
戦場の霧とは違う。
まだ血の匂いを含まない、
湿った空気――
だが、その奥に
確かな予兆を孕んでいる霧だった。
丘の上に掲げられた、
白と淡金の旗。
聖女の旗。
それは、
王家の紋章でも、
教会の神印でもない。
誰かが勝手に
正義を宣言する旗ではなかった。
それでも――
人は、集まってきた。
最初は、
谷で救われた兵士たち。
次に、
教会に不信を抱いていた辺境の民。
その次に、
王弟派の徴兵を拒んだ者たち。
農夫。
鍛冶屋。
元騎士。
名もなき人々。
彼らは、
同じ問いを抱えていた。
「……本当に、
ここにいていいのか?」
「……剣を取る理由は、
正しいのか?」
その不安を、
誰も否定しなかった。
否定しなかったからこそ――
人は残った。
リリアナは、
丘の端から
その光景を見下ろしていた。
(……増えている)
人数が増えるほど、
胸の奥が重くなる。
(わたしの旗の下に……)
(命が、集まってきている)
誰も、
彼女に膝をつけろとは言わない。
「聖女様」と
呼ぶ者もいるが、
祈る者はいない。
ただ――
見ている。
選択を、
彼女の在り方から
読み取ろうとしている。
(……これが)
(象徴……)
アレンが、
隣に立った。
「後悔しているか?」
同じ問い。
何度も、何度も。
リリアナは、
首を横に振った。
「……後悔は、していません」
「でも……
怖いです」
「正しい」
アレンは、
即座に言った。
「怖さを忘れた軍は、
ただの暴力になる」
その言葉に、
リリアナは救われた気がした。
昼。
丘の中央に、
簡素な演壇が組まれた。
アレンが立つ。
その背中は、
もう恋人を守る男だけのものではない。
人を率いる者の背中だった。
「ここに集まった者たちへ」
声は、
よく通った。
「俺は、
王太子アレン・アルスターだ」
「だが、
ここでは王位を語らない」
ざわめき。
「この軍は、
王のために戦わない」
「教会のためでもない」
彼は、
一度だけ、
リリアナを見る。
「恐怖に従わないために、
剣を取る」
沈黙。
「その覚悟がある者だけ、
残れ」
「ない者は、
今すぐ去れ」
誰も、
動かなかった。
アレンは、
小さく息を吐いた。
「……よし」
「本日より、
ここに集った者たちを
正式に軍とする」
その言葉は、
宣言だった。
「名は――」
彼は、
一拍置いて言った。
「聖女軍」
どよめき。
だが、
反発は起きなかった。
それは、
信仰の軍という意味ではないと
皆が理解していたからだ。
選ばれた象徴の名を掲げる軍
という意味であることを。
同時刻。
南方の丘――
教会軍の前線陣地。
白い旗が、
風に裂けるようにはためいていた。
「聖女軍が、
軍を名乗ったとの報告です」
武装神官の報告に、
司祭長エルドレッドは
静かに目を閉じた。
「……愚かな」
「象徴を、
人の手に委ねたか」
彼は、
祭壇に刻まれた
古い文様に指を滑らせる。
「ならば――
象徴ごと、叩き潰す」
「大司祭会議を開け」
「聖典第七章、
異端鎮圧条項を発動する」
部下が、
一瞬だけ言葉を失う。
「……聖戦宣言、ですか?」
「ええ」
「神の名のもとに、
軍を動かす」
それは、
もはや政治でも防衛でもない。
宗教戦争だった。
夕方。
斥候が、
血相を変えて戻ってきた。
「殿下!」
「教会軍、
主力が動き始めています!」
「兵数――
三千以上!」
ざわめき。
こちらは、
まだ千にも満たない。
数だけ見れば、
勝ち目はない。
アレンは、
すぐに命じた。
「陣を二重に張れ」
「前衛は防御、
後衛は退路確保」
「戦うな」
「戦える形を作る」
副官が、
息を呑む。
(……冷静だ)
(恐ろしいほどに)
リリアナは、
そのやり取りを聞きながら
胸の奥がざわめくのを感じていた。
(……来る)
(何かが……
わたしの中で……)
夜。
焚き火のそばで、
リリアナは一人、
静かに目を閉じていた。
祈る、
というより――
聴く感覚。
(……祈りは)
(癒すためだけのものじゃない)
戦場で、
彼女は見た。
祈りが、
人の心を繋ぐ瞬間を。
恐怖を、
共有する瞬間を。
そのとき――
胸の奥で、
何かが形を持った。
光でもない。
闇でもない。
温度。
人と人の間に流れる、
感情の熱。
焚き火の炎が、
一瞬だけ
淡金色に揺れた。
「……?」
周囲の兵士たちが、
気づく。
「今の……」
「暖かい……?」
リリアナが、
ゆっくりと目を開く。
彼女の周囲に、
目に見えない場が生まれていた。
傷は癒えない。
敵は倒れない。
だが――
恐怖が、薄れる。
疲労が、
和らぐ。
「……これ……」
アレンが、
そっと近づいた。
「どうした?」
リリアナは、
自分の手を見つめながら
言った。
「……わたし……
守る祈りを……
していました」
アレンの目が、
わずかに見開かれる。
(癒しでも、
破壊でもない……)
(第三の相……)
「……すごいな」
アレンは、
静かに言った。
「それは……
軍に必要な力だ」
リリアナは、
顔を上げる。
「……剣には、なりません」
「ならなくていい」
アレンは、
迷いなく答えた。
「剣は、
俺たちが振る」
「お前は――
折れない理由になれ」
その言葉が、
胸に落ちた。
リリアナは、
深く息を吸い、
静かに頷いた。
(……わたしは)
(祈りで、
人を縛らない)
(でも……)
(折れないための祈りなら……)
遠くで、
教会軍の篝火が
夜空を染め始めていた。
三千の火。
それに対し、
こちらは小さな灯り。
だが――
消えなかった。
聖女軍は、
この夜、始動した。
祈りは、
剣にならない。
だが――
剣を、
振るわせる理由にはなる。




