選ばれし旗 ― 聖女の名のもとに
選ばれし旗 ― 聖女の名のもとに
夜明け。
戦場の匂いが、まだ谷に残っていた。
血と土と、焼け焦げた草の匂い。
それは、昨日までリリアナが
知らずに生きてきた世界の外側にあったものだ。
焚き火の残り火が、
静かに白い煙を立てている。
「……本当なのか?」
「聖女が、戦場に立ったと?」
「祈りで兵を救い、
剣の前に立ったと聞いた」
谷を離れた王太子派の一行が進む先々で、
そんな噂が囁かれ始めていた。
最初は半信半疑だった。
だが、
実際に救われた兵が口を開き、
見た者が語り、
噂はやがて確信に変わる。
「聖女は、
王太子と共にいる」
「逃げたんじゃない。
戦ったんだ」
「血を見て、
それでも祈ったと」
その言葉は、
想像以上の速さで広がっていった。
それは奇跡の話ではない。
英雄譚でもない。
逃げなかったという事実だけが、
人の心を打った。
北の旧王領へ向かう途中、
王太子派は小さな町に立ち寄った。
町の広場には、
すでに人が集まっていた。
老人、女、子ども。
そして――
剣を携えた元兵士たち。
アレンは、
その光景を見て足を止めた。
「……聞いているな」
副官が頷く。
「ええ。
聖女様の噂です」
町の代表が、
恐る恐る前に出た。
「王太子殿下……
そして……聖女様」
深く、頭を下げる。
「我々は……
教会に疑問を持ち始めています」
「危険だから隔離する
神のためだ
そう言われ続けてきました」
「ですが……
戦場で祈った聖女が
災厄だとは、
どうしても思えない」
人々の視線が、
一斉にリリアナへ向く。
その重さに、
胸が詰まる。
(……これが)
(人に見られる、ということ)
アレンが一歩前に出ようとしたとき――
リリアナが、先に進み出た。
「……わたしは」
声は、まだ少し震えている。
「聖女です」
ざわめき。
「でも……
神の声を代弁する存在だと
思っていません」
その言葉に、
人々の表情が変わる。
「わたしは……
祈ります」
「でも……
祈りだけで、
すべてを解決できるとは
思っていません」
彼女は、
ぎゅっと拳を握った。
「それでも……
逃げません」
「怖くても、
間違えても……」
「人を守りたい、
その気持ちだけは
嘘じゃありません」
沈黙。
やがて、
一人の若者が膝をついた。
「……俺は、
殿下に従います」
続いて、
別の者も。
「聖女様の言葉を、
信じたい」
「選ばせてくれたから」
それは、
命令でも、
強制でもなかった。
自分で選んだという感覚が、
人を動かしていた。
その日、
王太子派の列に
新たな人々が加わった。
数は多くない。
だが――
確かに、増えていた。
同時刻。
王都アルスターでは、
別の熱が渦巻いていた。
大聖堂の鐘が、
一日中鳴り響く。
司祭長エルドレッドは、
聖壇の前で民衆を見下ろしていた。
「聖女が、
反逆者に利用されている」
「彼女は、
偽りの慈悲に騙されている」
「これは――
魂の奪還だ」
民衆の中から、
嗚咽のような声が上がる。
「聖女様を……
取り戻さねば……」
「そうだ……
神の御心だ……」
エルドレッドは、
静かに手を上げた。
「ならば――
力をもって、
連れ戻しましょう」
それは、
もはや保護ではなかった。
「教会軍に告ぐ」
「王太子派が立ち寄る町、村を
すべて浄化対象とする」
「聖女を匿う者は、
神に背く者」
その言葉に、
一瞬だけ躊躇が走る。
だが、
次の瞬間には
祈りの声に飲み込まれた。
信仰が、
刃へと変わる瞬間だった。
夜。
野営地の端で、
リリアナは焚き火を見つめていた。
人が集まった。
期待が向けられた。
(……重い)
正直な感情だった。
その背後に、
アレンが立つ。
「後悔しているか」
「……少しだけ」
彼女は、
正直に答えた。
「わたしが前に出ることで……
誰かが、傷つくかもしれない」
「それでも?」
リリアナは、
しばらく黙ってから言った。
「……それでも、
隠れる方が……
もっと傷つくと思いました」
アレンは、
何も言わず頷いた。
彼女は、
火の揺らめきを見つめながら
静かに続ける。
「戦場で……
人が死にました」
「救えなかった命を、
忘れられません」
「でも……
救えた命も、
確かにあった」
彼女は、
自分の胸に手を当てた。
「その人たちが……
聖女がいたって
思ってくれるなら……」
「わたしは……
立ち続けます」
アレンの喉が、
わずかに鳴った。
「……それは」
「象徴になる、
ということだ」
リリアナは、
小さく頷いた。
「……はい」
「神のためじゃありません」
「王国のためでも……
正直、まだありません」
彼女は、
まっすぐにアレンを見た。
「でも……
あなたが、
選ばせようとしている国を……」
「その隣に、
立ちたいんです」
アレンは、
ゆっくりと彼女を抱きしめた。
「……ありがとう」
「それだけで、
俺は……進める」
焚き火が、
強く燃え上がった。
翌朝。
野営地の中央に、
一本の旗竿が立てられた。
王家の紋章ではない。
教会の神印でもない。
白地に、淡い金の光を描いた旗。
リリアナの祈りを象徴する印だった。
誰かが、
そっと呟く。
「……聖女の旗だ」
その言葉は、
自然と広がった。
アレンは、
皆の前に立つ。
「この旗は、
命令の旗ではない」
「従うためのものでもない」
彼は、
リリアナの方を見た。
「選ぶための旗だ」
「恐怖ではなく、
信仰でもなく」
「自分で考え、
自分で立つ者だけが
ここに来い」
沈黙。
そして――
一人、また一人と
その旗の下に立つ。
リリアナは、
その光景を見つめながら
深く息を吸った。
(……わたしは)
(祈りで、
人を縛りたくない)
(でも……)
(一緒に、
立つことはできる)
その瞬間。
彼女は理解した。
象徴とは、
上に立つことではない。
隣に立ち続けるという選択なのだと。
遠くで、
黒煙が上がった。
教会軍が動いた証だ。
副官が駆け寄る。
「殿下……
南の町が……」
アレンは、
静かに頷いた。
「……始まったな」
リリアナは、
旗を見つめ、
そして前を向いた。
「……行きましょう」
「選ばれた人たちと」
アレンは、
剣を抜いた。
「王太子派、進軍する」
旗が、
風を受けて翻る。
それは、
聖女の名を冠した旗。
だが――
祈りだけの旗ではない。
人が選んだという意志の旗だった。
こうして――
戦争は、
完全に動き出した。




