聖女の初陣 ― 血と祈りの境界線
聖女の初陣 ― 血と祈りの境界線
霧が、戦場を覆っていた。
それは朝靄ではない。
人の恐怖と、火薬と、血の匂いが混じった
重く、粘つく霧だった。
旧巡礼路を抜けた先――
王太子派の小隊は、谷間に差しかかったところで
教会軍の前衛部隊と遭遇した。
白い法衣の上から鎧を纏い、
胸には神印の刻まれた盾。
剣と祈祷書を同時に携えた、
異様な軍。
「……来たな」
アレンは馬上で視線を走らせた。
(予想より早い)
敵は、
奪還”を名目に動いている。
つまり――
聖女を生かしたまま捕らえる前提だ。
それが、
この戦場を歪ませていた。
「殿下」
副官が近づく。
「敵前衛、約三百。
こちらは百二十」
数では不利。
だが、地形は味方だった。
「谷を使う」
アレンは即座に命じた。
「前衛は盾列。
弓兵は左右の高所」
「近接は――
俺が出る」
騎士たちの目が、
一斉に変わる。
(この人は……
もう王太子”じゃない)
(将”だ)
教会軍の隊列が止まり、
一人の神官が前へ出た。
「聖女リリアナに告ぐ!」
その声は、
魔法で増幅されていた。
「あなたは神の器だ!」
「その身を、
反逆者に委ねる必要はない!」
「今なら――
無血で救済を与えよう!」
リリアナは、
その言葉を聞いて
身体を強張らせた。
(救済……)
(それは、
従え”という意味)
彼女の横で、
アレンが低く言った。
「答えるな」
「……はい」
沈黙。
その沈黙を、
敵は拒絶”と受け取った。
「――進め!」
教会軍が、
一斉に動いた。
祈りの声とともに、
光の結界が展開される。
「弓兵!」
アレンの号令。
矢が、
空を裂いた。
だが――
多くが結界に弾かれる。
「……厄介だな」
「殿下!」
「近接に切り替えろ!」
剣と剣がぶつかる音が、
谷に響いた。
リリアナは、
後衛で状況を見ていた。
剣戟。
叫び。
倒れる兵。
(……これが)
(戦場)
祈りで救う世界とは、
あまりにも違う。
「衛生兵!
こちらだ!」
負傷兵が運ばれてくる。
血。
骨。
絶叫。
リリアナの足が、
すくんだ。
(……無理)
(こんな……)
だが。
そのとき、
若い兵士が
彼女の袖を掴んだ。
「……聖女様……」
血に染まった手。
「……助けて……」
その目は、
まだ生きていた。
その瞬間――
リリアナの中で、
何かが切れた。
(……考えるな)
(祈れ)
彼女は膝をつき、
手を重ねた。
「……癒しを……」
光が、
静かに広がる。
傷が塞がり、
血が止まる。
兵士の呼吸が、
安定する。
「……ありがとう……」
その言葉に、
胸が震えた。
(できる)
(わたしは……
まだ、救える)
次の瞬間。
遠くで、
爆ぜるような音。
「――聖女だ!」
「後衛にいるぞ!」
教会軍の一部が、
リリアナの存在に気づいた。
(……狙われる)
アレンが叫ぶ。
「リリアナ、下がれ!」
だが、遅かった。
神官の詠唱。
「――浄化の光よ!」
白い光が、
一直線に放たれる。
「……っ!」
リリアナの前に、
一人の兵が飛び出した。
「だめだ!!」
光が――
彼を貫いた。
「……え……?」
兵は、
崩れ落ちた。
即死だった。
一瞬の静寂。
リリアナの頭が、
真っ白になる。
(……わたしの……せい?)
(わたしが……
ここにいたから?)
喉が震え、
息が詰まる。
そのとき――
闇が、囁いた。
見ろ
救うたびに、誰かが死ぬ
壊せば、楽になる
(……やめて)
(……違う)
だが、
感情は制御を失い始める。
光が、
黒く滲んだ。
「――全軍、下がれ!!」
アレンの声が、
戦場を貫いた。
彼は馬を駆り、
一直線にリリアナの元へ向かう。
剣を振るい、
敵を切り払う。
(……速い)
(迷いがない)
副官が驚愕する。
(殿下……
いや、もう……)
アレンは、
完全に指揮官”だった。
彼は、
リリアナの前に立ち、
盾となる。
「見るな」
「殿下……」
「見るな」
剣を構えたまま、
低く言った。
「これは……
お前の罪じゃない」
敵が迫る。
アレンは、
一切振り返らず命じる。
「左翼、包囲!」
「弓兵、集中射!」
「後衛、聖女を中心に円陣!」
命令が、
正確に伝わる。
混乱していた戦線が、
一気に立て直される。
教会軍は、
予想外の反撃に
後退を余儀なくされた。
戦闘が、
一時的に止んだ。
谷に、
重い沈黙が落ちる。
倒れた兵。
動かない身体。
リリアナは、
その場に崩れ落ちた。
「……わたし……」
声が、
震える。
「……救えなかった……」
アレンは、
剣を収め、
彼女の前に膝をついた。
「……全部は救えない」
「……!」
「戦場だ」
その言葉は、
冷たくもあり、
誠実だった。
「だが――」
彼は、
彼女の手を取る。
「救えた命も、
確かにある」
リリアナの視界に、
先ほどの兵士が浮かぶ。
ありがとう”と
言ってくれた人。
涙が、
こぼれ落ちた。
「……怖いです……」
「わかってる」
「……でも……」
彼女は、
震えながら言った。
「……逃げません」
「この現実から」
「……祈るだけじゃなく……
立ちます」
アレンの目が、
わずかに揺れた。
(……強くなった)
彼は、
そっと彼女を抱きしめた。
戦場の真ん中で。
「それでいい」
「それが……
お前の戦い方だ」
戦闘は、
小規模な衝突に留まり、
両軍は距離を取った。
だが、
それは終わりではない。
始まりだった。
焚き火のそばで、
リリアナは空を見上げた。
星が、
静かに瞬いている。
(……祈りは、
万能じゃない)
(でも……)
(それでも、
わたしは祈る)
アレンは、
彼女の隣に立つ。
「後悔しているか」
「……いいえ」
即答だった。
「……怖いですけど」
「……後悔は、
していません」
アレンは、
静かに頷いた。
二人の間に、
言葉はいらなかった。
その夜。
聖女リリアナは、
初陣”を終えた。
それは、
勝利でも、
完全な敗北でもない。
ただ――
現実を知った夜。
血と祈りの境界線に、
初めて立った夜だった。




