王宮の檻 ― 選択を迫る声
王宮の檻 ― 選択を迫る声
王宮の朝。
昨日までとは違う気配が、
ひやりと肌を撫でていた。
侍女や兵士の視線がどこか余所余所しく、
廊下には見慣れない神官が立ち、
階段には王弟派の私兵が配置されている。
リリアナが一歩進むたび、
誰かの目が動く。
「……見張られているの?」
つぶやいた声は、
王宮の広い回廊に静かに吸い込まれていった。
昨日、民衆の暴動の兆しがあった。
その後、王都では「聖女は災厄」という噂が一気に広がった。
その反応は予想を超え、
王宮はリリアナを守るという名目で
彼女の行動すら制限し始めていた。
(守られているのか、それとも……閉じ込められているのか)
胸の奥で、小さく苦い痛みが走る。
「聖女様……申し訳ありません。
今日はこの廊下より先へは――」
「行ってはいけない、のよね?」
マリアは痛ましげな目で頷いた。
「はい……教会と王宮の合意で、
お体を守るために と……」
(守る? 本当に……?)
リリアナは静かに笑ったが、
その笑みには影が宿っていた。
回廊の端で、アレンは拳を握りしめた。
(……あれは保護ではない)
昨日の暴動を理由にして、
リリアナを王宮に拘束しようとしている。
王弟派、教会派――
目的は違えど、方向は同じ。
聖女リリアナを手元に置きたい。
(ふざけるな……)
アレンはゆっくり歩み寄った。
「リリアナ。」
振り返った少女の顔には、
どこか困ったような微笑みが浮かんでいた。
「アレン様……おはようございます。」
「部屋から出ることすら、許されないとはな。」
「だ、大丈夫です。
わたしが騒ぎを起こしたようなものですから……」
「違う。」
アレンはすぐに否定した。
その強さに、リリアナの目が見開かれる。
アレンは言葉を選ばず、はっきり告げた。
「お前は誰も傷つけていない。
救ったんだ。
だから……閉じ込められる謂れはない。」
胸が温かくなる。
同時に、涙が落ちそうになる。
「……そんなふうに言ってくださるのは、
アレン様だけです。」
アレンの表情がわずかに揺れる。
(だったら……俺が言うしかないだろう)
彼は思わず、リリアナの頬に触れた。
「お前を一人にしない。
絶対に。」
その言葉に、リリアナの心臓が大きく跳ねた。
(この温かさは……昨日と違う……
なぜだろう……胸が苦しい)
だが、想いが形になる前に――
二人に声が割って入った。
「まあまあ……
朝から仲睦まじいことで。」
軽く礼をして現れた司祭長エルドレッド。
その笑みには毒が含まれていた。
アレンは表情を硬くした。
「エルドレッド。今朝は早いな。」
「ええ。聖女様のお身体を案じてね。」
リリアナを見つめ、柔らかく微笑む。
「昨夜は、さぞお辛かったでしょう。」
「……はい。その……少し……」
「力の代償は、避けられません。
ですが――」
エルドレッドは声を潜め、
リリアナの耳元に囁いた。
「あなたの心を救う方法が、ひとつだけあります。」
リリアナは息を呑む。
「方法……?」
「はい。教会に戻ること です。」
アレンが即座に遮った。
「洗脳か。」
「なんと物騒な。
傷ついた魂を癒すのが我々の務めですよ。」
(癒す? 違う。支配だ)
アレンは鋭い眼で司祭長を見据えた。
「彼女は王宮の保護下にある。
連れ帰ることは許さない。」
「王太子殿下。
あなたは聖女様を保護する資格があるのですか?」
空気が凍った。
リリアナが不安げにアレンの袖を握る。
「やめてください……」
エルドレッドは笑みを深める。
「聖女リリアナを支えるには、
光と闇の両方の理解が必要です。
あなたにできますか?」
アレンの眉がわずかに動く。
(……確かに、俺は彼女の闇を知らない)
司祭長はそこを突いたのだ。
リリアナは二人を見つめ、
胸が締め付けられた。
「わたしなんて……
迷惑をかけてばかりで……」
アレンはすぐに振り返った。
「違う。
お前は迷惑なんかじゃない。」
その声は、怒りでも焦りでもなく、
ただ真っ直ぐだった。
リリアナの胸の奥で、
なにかが優しく震えた。
それを司祭長は見逃さなかった。
「ふむ……殿下は、本気で聖女様に傾いておられるようだ。」
「司祭長――」
「ですが、政治は感情で動きません。」
司祭長は踵を返す。
「聖女様。
お困りのときは、いつでも教会へ。」
柔らかな声の裏に、
粘つくような意図が隠れている。
(甘い救済ほど……危険なものはない)
アレンは歯を食いしばった。
一方その頃、王宮の隠し部屋では
王弟メルクリオが不機嫌に机を叩いていた。
「王太子め……
聖女に入れ込みおって。」
側近が耳打ちする。
「ならば、いっそ……
事故を装って聖女様を――」
「暗殺か。」
「はい。
民衆も恐れていますし、
殺したところで反発は……」
王弟はにやりと笑った。
「よかろう。
聖女がいなくなれば、アレンも終わりだ。」
「あとは……我らが王位を手にするだけ。」
ロウソクの炎が揺れた。
冷たい風が吹き抜けたような気がした。
(迫ってきている……)
(影の牙が、リリアナを狙って)
静かな夕暮れ。
窓が薄紅色に染まる頃、
扉がノックされた。
「リリアナ、入っていいか?」
アレンの声。
それだけで胸が温かくなる。
「はい……」
アレンはそっと入ってきた。
「今日は……すまなかった。
守りきれなくて。」
「いいえ。
アレン様がいてくれたから、私は……」
言葉が詰まった。
アレンは近づき、
彼女の手を取った。
その手の温かさは、
恐怖すら溶かしてしまうほど優しい。
「リリアナ。」
「……はい……?」
アレンは迷いながらも、
真っ直ぐな目を向けた。
「俺は……お前のことを……
放っておけない。」
鼓動が跳ねる。
「それは……聖女だからですか……?」
「違う。」
アレンは少しだけ息を吸い、
言葉を選ぶように告げた。
「お前が……リリアナだからだ。」
リリアナの瞳が揺れた。
今までわからなかった感情が、
胸の奥で静かに形を成し始めた。
なぜこの人の言葉はこんなにも温かいのか。
なぜこの人に触れられると
涙がこぼれそうになるのか。
なぜ――この人に守られたいと思うのか。
心が答えを告げようとしている。
それはまだ曖昧でも、確かに芽生えている。
リリアナは震える声で言った。
「アレン様……
わたし……
あなたがいると……安心します……」
アレンはその言葉に息を呑んだ。
(……ああ。もう、隠せない)
少女はまだ覚えていない。
過去の言葉も、思い出も。
それでも――
今 の彼女が
自分を求めてくれる。
アレンはそっとリリアナを抱き寄せた。
拒まれるのでは、という恐怖はあった。
だが、彼女は拒まなかった。
むしろ、ゆっくりと
彼の胸に額を預けた。
「……怖いんです。
でも……アレン様の声があると……
少しだけ……歩ける気がするんです……」
「なら、何度でも言うさ。」
アレンの腕の中で、
リリアナの身体の震えが少しずつ消えていった。
(大丈夫……
アレン様が……そばにいる)
その夜、リリアナは初めて
誰かの胸で眠りたい と思った。
そしてアレンは、
初めて奪われたくないと自覚した。
だが――
その幸福な瞬間の裏で、
影が蠢いていた。
王宮の檻が閉じようとしていることを、
誰も知らぬまま。
そして、
暗殺者がすでに王宮の地下通路へ
忍び込んでいることも。
光と闇の狭間で、
恋と死が同時に近づいていた。




