光と闇の代償 ― 消えゆく記憶
光と闇の代償 ― 消えゆく記憶
黒霧を払った広場は、
奇跡を目にした興奮と恐怖が混ざり合い、
ただ事ではない静けさに包まれていた。
アレンは粉々に砕けた祈祷台の瓦礫の上、
倒れ込んでいるリリアナを抱き起こしていた。
「リリアナ、しっかりしろ!」
答えはない。
白い法衣は血と灰に汚れ、
細い肩は途切れ途切れに震えている。
(治癒の祈りを使い過ぎた……)
(それに、破壊の力まで……)
限界を越えた負荷。
代償はあまりにも大きい。
アレンは焦燥を必死に押し留めながら、
彼女の頬に触れる。
その瞬間。
リリアナの目がゆっくりと開いた。
「ア……レンさま……?」
弱々しい声。
だが、それで十分だった。
「良かった……生きてる。」
アレンは救われたような安堵の息を吐く。
だが――
次の言葉が、彼を凍りつかせた。
「ここ……は……どこ、ですか?」
「え……?」
「……あの……わたし……
アレン様……? どなた……でしたか……?」
アレンの心臓が、大きく音を立てた。
(……記憶障害?)
あの暴走に近い力の発現。
そして、精神への干渉。
司祭長エルドレッドが歩み寄り、
重苦しい声で言い放つ。
「破壊の力は魂を蝕む。
光と引き換えに、彼女は記憶を失う。」
「黙れ。」
アレンは鋭い眼光で睨みつけた。
しかし、エルドレッドの冷ややかな視線は揺れない。
「聖女とはそういう存在なのですよ。
価値ある力を持つ者は、代償を払う。」
リリアナは混乱したまま、
震える指先で自分の胸元を押さえる。
「わたし……何か……大事なものを……失ったような……」
そこに満ちるのは言いようのない空虚。
その暗闇に――
声が響いた。
壊してしまえ。
光なんて、捨ててしまえ。
リリアナは頭を押さえ、
苦しげにうめいた。
「いや……違う……わたしは……!」
アレンは瞬時に彼女の肩を抱きしめた。
「大丈夫だ。お前はお前だ。
記憶が戻るまで、俺が側にいる。」
そう言いながら、心の底では
はっきりとした恐怖が芽生えていた。
(もし……このまま記憶が戻らなかったら――)
アレンの胸の奥に、
焦りの炎が静かに灯る。
王宮医務室。
リリアナはベッドに横たえられ、
医務官たちが必死に状態を確認している。
アレンは黙って彼女を見つめていた。
リリアナは床に落ちていた
聖具の指輪を手にして、不思議そうに眺めた。
「これ……わたしの……?」
「そうだ。
その指輪は、お前が選んだ未来そのものだ。」
「未来……?」
アレンは言葉に詰まる。
記憶を失ったリリアナに、
どこまで真実を告げるべきか――
その葛藤が、胸を締め上げる。
「……ゆっくり思い出せばいい。」
アレンは微笑んだ。
だが、リリアナは首を傾げる。
「どうして……アレン様は……
そこまでしてくださるのですか?」
(理由なんて言えるか――
守りたいから、なんて)
まだ想いは混ざり合い、
形になりきれていない。
アレンはただ答えた。
「お前は……大切な人だから。」
リリアナは視線を伏せ、
胸の奥を手で押さえる。
そこにあるはずのものが、
まだ思い出せない。
(この人は……私にとって、どんな人だったの……?)
同時刻、王都議会室。
陰謀の影は、動き出していた。
「聖女は危険だ。
破壊の力を持つなど、国を滅ぼす気か?」
「むしろ王太子殿下が危険です。
聖女に囚われている。」
「利用すべきだ。あの力は戦の切り札だ。」
「いや、封印すべきだ。
魔獣を呼び寄せているのかもしれない。」
混乱、恐怖、欲望――
リリアナは民の信仰の象徴であり、
同時に政治の爆弾でもある。
エルドレッドは椅子に座り、
ゆっくりと紅茶のカップを口に運んだ。
「焦る必要はありません。
いずれ彼女は――光か闇か、どちらかに堕ちる。」
「どちらになろうと、我々が導けば良い。」
会議室の空気は冷たい霧のように淀んだ。
(聖女よ。お前の運命は……我らが握る)
深夜、医務室。
アレンは眠らぬ夜を過ごしていた。
リリアナは静かに眠っている。
その顔を見ているだけで、心が締め上げられる。
(力の代償……
記憶を失うというのか)
あの戦いのとき。
彼女は確かに光と闇の両方を使った。
アレンは拳を固く握る。
(放っておけば……彼女は闇に呑まれる)
そのとき、リリアナが苦悶の声を漏らした。
「……た、す……けて……」
アレンはすぐそばに膝をついた。
「リリアナ!」
リリアナの白い髪が黒く染まりかけ、
喉から低い声が漏れる。
壊せ。
殺せ。
守るものなどない。
「違う……やめて……!」
アレンは彼女の手を握りしめた。
「聞くな!
それはお前の声じゃない!」
彼の声が届いた瞬間、
黒い光は霧散し、彼女は息を整えた。
涙が瞳に滲む。
「アレン様……
怖い……わたし……どうなってしまうの……?」
アレンはリリアナを抱き寄せた。
「大丈夫だ。俺がいる。」
「……でも……」
「俺は逃げない。
お前がどれほど闇に沈もうと、
俺は――その手を離さない。」
リリアナは震える声で囁いた。
「どうか……捨てないで……」
アレンの胸が締め付けられた。
(捨てるなんて……できるわけがない)
彼はリリアナの髪にそっと触れ
深い安堵の息と共に誓った。
「お前の記憶が戻るまで、
何度でも一緒に過去を取り戻そう。」
リリアナは目を閉じた。
暗闇の中でもなお、
彼女の指先はアレンの手を離さなかった。
その日の夜。
王都の空には薄い黒霧が漂い続けていた。
そして、遠くから囁く声が届く。
器は満ちつつある。
闇の聖女よ――
我らの元へ堕ちてこい。
闇は静かに、確実に
リリアナを蝕み始めていた。
光と闇。
救いと破壊。
愛と絶望。
運命は、まだ揺れ続けている――。




