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刹那の光

作者: 霜月希侑

『刹那の光』は、エフェメラル症候群という架空の病を通じて、時間の刹那さと命の脆さを描いた物語です。「ephemeral(儚い)」という言葉が象徴するように、命の有限性は時に残酷ですが、その制約の中でこそ一瞬一瞬が輝きを放ちます。この物語は、限られた時間の中で愛や絆、日常の小さな美しさを再発見する主人公の旅を通じて、読者に「今を生きる」ことの価値を肌で感じてほしいという願いを込めています。エフェメラル症候群は、遺伝子の裏切りにより全身の臓器を静かに蝕む不治の病であり、治療の希望は遠く、余命は平均1年、2年生きる者は2割にも満たず、5年を超える者はわずか0.5%という過酷な現実を突きつけます。しかし、この病は単なる悲劇の装置ではなく、主人公が自分自身や周囲との関係を見つめ直し、刹那の美を掴むきっかけとなります。命が短いからこそ、愛や夢、日常のささやかな瞬間が輝く——その切なくも温かな真実を、優花の絵と人生を通じて伝えたいと考えました。


 下谷優花は、桜の花びらが風に舞う公園のベンチで、医師の言葉を反芻していた。 

「エフェメラル症候群。遺伝子の裏切りが、全身の臓器を静かに蝕む不治の病です。発症からの余命は平均して一年。2年生きる方は2割にも満たず、5年を超える方はわずか0.5%です」

 治療の光はまだ遠く、確かな希望はどこにもなかった。その言葉は、春の柔らかな陽光を切り裂くように冷たく、しかしどこか遠いもののように響いた。優花は27歳で、イラストレーターとして細々と生計を立てていた。自分の絵に自信はなかったが、色を重ねる瞬間だけは、世界が少しだけ優しく見えた。


 エフェメラル症候群は、発症すると感覚が異様に鋭くなる。色の輪郭が鮮やかになり、風の音や人の笑い声が心の奥まで響く。だが、やがて体力は衰え、命は静かに萎む。優花は、診断を受けた日から、時間が目に見えるようになった気がした。時計の秒針が、まるで彼女の心臓の鼓動を数えているかのようだった。



 ある日、優花はいつもの公園でスケッチブックを開いていた。桜は散り始め、地面に淡いピンクの絨毯を広げていた。彼女の手は震え、鉛筆は思うように動かなかった。描きたいものはあるのに、それが何なのか、わからない。涙が一滴、スケッチブックに落ちた。


「その涙、桜と一緒に描いたらどうかな」

 声に顔を上げると、カメラを首に提げた青年が立っていた。二十代後半、髪は少し長めで、目元に柔らかな光を宿していた。

「俺、悠斗。写真家、みたいなもの」

 彼の声は、風のように軽やかだった。


 悠斗は、優花の隣に腰を下ろし、桜の木をカメラで捉えた。

「桜って、散るから美しいんだ。短いから、目を離せない」

 彼はそう言ってシャッターを切った。優花は、なぜかその言葉に胸が締め付けられた。悠斗もまた、エフェメラル症候群で親友を失った過去を持つと知ったのは、それから数日後のことだった。

「あいつの遺伝子は、静かに裏切っていった。2年もたなかったよ」

と、悠斗は淡々と語った。



 優花は悠斗と過ごす時間が、少しずつ増えた。彼は、街の何気ない瞬間を写真に収めるのが好きだった。路地裏の猫、夕焼けに染まる川、市場の喧騒。優花は彼の写真を見ながら、自分の絵に足りなかったものに気づき始めていた。それは、生きていることそのものの輝きだった。


 ある夜、悠斗は優花を小さなギャラリーに連れて行った。そこには、彼が撮った写真が飾られていた。どれも、刹那を切り取ったような作品だった。赤い風船が空に浮かぶ瞬間、老夫婦が手をつなぐ後ろ姿、雨上がりの水たまりに映る空。

「これ、全部エフェメラル症候群の親友と一緒に撮ったんだ」

と悠斗は言った。

「あいつは、時間が少ないって知ってから、毎日をこんな風に輝かせてた。遺伝子の裏切りにも負けなかった」


 優花は、自分の時間がどれだけ残されているのかを考えた。平均一年、2年生きる者は2割にも満たない。彼女は、母と疎遠だった。かつて画家を目指していた母は、優花がイラストレーターになったことを喜ばなかった。

「そんな中途半端な絵で生きていけるわけない」

と吐き捨てた言葉が、優花の心に棘のように刺さっていた。



 優花は、意を決して実家を訪ねた。母は、狭いアパートで一人、絵の具の匂いに包まれて暮らしていた。テーブルには、優花が子どもの頃に好きだった肉じゃがが並んでいた。

「急にどうしたの?」

と母は訝しげだったが、優花はただ「会いたかった」とだけ言った。


 食事をしながら、優花は病のことを話した。

「エフェメラル症候群。遺伝子が私を裏切ってる。治療法はまだなくて、たぶん一年も生きられない」

 母の目から涙がこぼれ、皿の上で止まった。

「ごめんね、優花。あんたの絵を、ちゃんと見てなかった」

 母は立ち上がり、押し入れから古いスケッチブックを取り出した。それは、優花が小学生の頃に描いた絵だった。色鉛筆で塗りつぶされた空や、笑顔の家族。母はそれを大切に保管していたのだ。


 その夜、優花は母と抱き合って泣いた。肉じゃがの味は、子どもの頃と変わらなかった。時間が、まるでそこに留まっているかのようだった。



 秋が深まり、優花の体は目に見えて弱っていった。息が上がるようになり、筆を持つ手は重かった。遺伝子の裏切りは、彼女の臓器を静かに蝕んでいた。それでも、彼女は描き続けた。悠斗が貸してくれた小さなアトリエで、優花は一枚の大きなキャンバスに向き合っていた。そこには、彼女の人生が詰まっていた。桜のピンク、母の作る肉じゃがの茶色、悠斗のカメラの黒、夕焼けの赤。色は混ざり合い、まるで命そのものが光を放つようだった。


 ある朝、優花はベッドから起き上がれなくなった。病院の白い天井を見ながら、彼女は悠斗にスケッチブックを渡した。

「これ、完成させて。私の代わりに」

 悠斗は頷き、涙をこらえた。


 優花が息を引き取ったのは、冬の初めだった。窓の外では、雪が静かに降っていた。彼女は、平均余命の一年にわずかに満たなかった。




 翌春、悠斗は小さなギャラリーで優花の絵を展示した。タイトルは『刹那の光』。キャンバスには、桜の花びら、母の笑顔、街の喧騒、そして優花自身の眼差しが溶け合っていた。訪れた人々は、絵の前に立ち尽くし、涙を流した。絵は、まるで生きているかのように輝いていた。エフェメラル症候群の無情な統計——5年を超える者は0.5%——を、優花の絵は静かに超えていた。


 悠斗は、優花の絵をカメラに収めた。シャッター音が響くたび、彼は彼女の声を聞いた気がした。

「刹那を、生きて」

 彼はカメラを握りしめ、歩き出した。春の風が、桜の花びらを運んでいた。

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