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9 安らぎの音色

 目を開けると、雲の合間を泳ぐ青龍の天井絵が飛び込んできた。

 どうやら意識を失い、寝室へ運ばれたらしい。


「陛下、ご気分は?」


 顔を青くしていた李豹が、声をかけてくる。


「俺は……気を失っていたのか」

「はい」


 ゆっくりと記憶の糸をたどっていく。

 丸薬を口に含んでから、記憶は途絶えていた。

 寝台から起き上がって部屋を出ると、すでに夜。

 回廊の天井から吊り下げられている宮燈きゅうとうの明かりが眩しい。


「……政務がまた滞ったか」

「今日やるべき決済はほとんど済んでおります」

「周礼がやったのか?」

「いいえ、皇后陛下が周礼殿と共に。こちら、皇后陛下が残された、午後に決済した文章や法令に関する書き付けにございます」


 そこには細かい文字で、決済の内容が詳細に書かれていた。

 これを書きながらの作業はかなり大変であろうことが、少し目を通しただけでも分かる。


「……迷惑をかけたな」

「皇后陛下はひどく陛下の身を案じられていらっしゃいました」

「そうか」


 今日はもう遅い。

 礼は明日にしようか。


「世話をかけた。お前はもう下がって休め」

「しかし」

「寝ずの番で付き添って、お前が体調を崩せば、元も子もないだろう」

「そんな柔な体ではございません」

「そうだったな。だが本当に俺なら大丈夫だ。お前だって分かっているだろう。痛みの衝動は日に何度もはこない」

「……分かりました。何かあればすぐにお呼び下さい」


 李豹を帰らせると、丹念に陽蓮の書き付けに目を通した。

 周礼の助言を受けながらとはいえ、まるで俺が直接判断しているかのようだ。

 陽蓮とは会ってまだ数日だというのに、まるで俺の心を見通されているような錯覚に陥った。

 明日は礼だけでなく、でもたっぷり用意させようか。

 はたまた別のお菓子を食わせてやろうか。

 何にせよ、陽蓮のことだ。

 どんなお菓子でも目を輝かせ、まるでリスのように美味しそうに頬張るに違いない。


「ふ……」


 意識するよりも先に、口元が勝手に緩むのを自覚した。

 全てに目を通し終える。

 いくつか修正は必要だが、緊急性が高く、今日中に決済しておきたいと思った事柄に関してはしっかり対応されて安堵する。

 いつもは気を失った後は政務が滞り、民への罪悪感で苦しい思いをしていたが、今日は陽蓮のお陰でそれがなかった。

 痛みは遠かったが、それでも、完全に消えた訳ではない。

 全身の気怠さともあいまって、痛みの波が断続的に続いていた。

 右袖をまくりあげる。

 腕が結晶に浸食されていた。

 春先のひんやりした風を浴びながら、壁にもたれかかって、疼痛をこらえる。

 その時、かすかな音色が聞こえた。

 穏やかで、心に染みこむようなそんな音。

 女官が暇を潰すために演奏をしているのだろうか。

 いつもなら、この程度のことは気にもしない。

 それでも音の出所を知りたくなったのは、きっと箏の音だったからかもしれない。

 この曲は確か、『遠望想君』。

 男性を想う女の曲。

 女官の中には故郷から出稼ぎのために来ている者もいる。

 それが遠くに残した大切な誰かを想っているのか。

 部屋を出て廊下を進み、音の出所を探る。

 と、音は陽蓮の部屋からした。


 まさか?


 戸をそっと開くと、箏を見事に弾いているのは陽蓮だった。

 あいつ、好いた男がいたのか。

 なぜかは分からないが、その事実を知った途端、先程まであったはずの安らぐような気持ちが霧散していくような気がした。

 だが見事な音色に、立ち去ることもできない。

 彼女は想い人のことを思っているのか、柔らかな表情をしている。

 夢中になって身を乗り出しすぎたか、爪先が戸にぶつかってしまう。

 陽蓮がはっとした表情でこちらを振り返るなり、箏を弾くのをやめた。

 胸のもやもやと、箏の音色がやんでしまった落胆と様々な気持ちが巡る。


「……盗み聞きをして、すまない」

「お目覚めになられたのですね! 良かった……」


 陽蓮は、柔らかな笑顔を向けてきた。

 想い人がいながらそんな笑顔を俺に向けていいのか?

 そいつが嫉妬するぞ。

 まるで陽蓮は子犬のように駆け寄ってきた。


「書き付けに目を通した」

「問題はありませんでしたでしょうか……?」

「完璧にやってくれた。助かった」

「良かったです。これも周礼が手伝ってくれたお陰ですっ」

「謙遜するな。あれはお前の実力だろう」

「い、いえ、そんな……」


 褒められ馴れていないせいか、陽蓮は恥ずかしそうに頬を染めた。


「ところで今の曲だが」

「あ、もしかしてお聞き苦しかったでしょうか」

「いや、見事だった。誰が弾いているのかと好奇心で探していた。まさかお前だったとはな。……故郷にいる、想い人を考えていたのか?」


 公主が政略の道具に使われるのは避けられぬ定めだが、それでも碧国の巫女の託宣さえなければ、陽蓮がここへ来ることもなかった。

 年を考えれば、許嫁くらいはいただろう。


「え? 違います」


 陽蓮はぶんぶんと首を大きく横に振った。


「だが、その曲は」

「この曲は確かに想い人へ送る曲ではありますが、私にはそんな素敵な方はいないので、陛下の無事を祈りながら弾いておりました」

「俺の?」

「この曲は恋心と同時に、遠くに残した友人や家族……大切な方の安息を祈る曲でもありますから。陛下の辛さが軽くなれば、と。気休めにもならないこととは思いながらも、私にできることはこれくらいしかありませんから」

「……そうか」


 なぜかほっとしている自分に気付いて、戸惑う。

 下らぬ考えを頭の外へ追い出す。


「それにしてもうまいな。誰かから習ったのか?」

「母に。母は朱国一の箏の弾き手と言われておりましたので」

「お前はその才能を強く引き継いだのだな」

「……母には遠く及びません……」

「母親と引き離して悪かったな」

「いいえ。母は私が幼い頃に亡くなりました」

「……すまない」

「謝らないで下さい。それにしても、陛下こそ箏にお詳しいんですね。『遠望想君』は古い曲ですし、あまり有名とは言えませんのに」

「俺の母親も箏をしていてな。俺は楽器の才能はからっきしだったから聞いているだけだったが、それでも様々な曲を教えてくれた。『私より箏がうまい娘しか妻には認めない』と冗談まじりによく言っていた」

「面白い御方だったのですね」


 陽蓮が小さく笑う。

 彼女の笑顔に釣られるように自然と自分の口元が緩むのを意識し、慌てて引き結んだ。


「お前の箏の音を聞けば、勝負を挑んでいただろうな。そういう茶目っけもある人だった」


 場がしんみりしてしまった。


「悪い。こんな話をするつもりはなかったんだが。久しく箏の音を聞くことはなかったからな……。そのせいかもしれない」

「あの、箏の音は辛くありませんか? もし陛下がご不快であればもう弾きません」

「不快ならばそう言っている。機会があれば聞かせてくれ」

「喜んで!」


 甘いものを食べていた時もそうだが、陽蓮は嬉しいと感じた時ははっきりとそういう反応を見せる。

 実の父や義母、異母妹にひどい扱いをされながら、どうしてそのような純粋さを保っていられるのだろうか。

 陽蓮の気質なのか。


「もう行く」

「おやすみなさいませ」

「……おやすみ」


 部屋へ取って返す。

 と、角を曲がれば、周礼がいた。

 いや、待ち受けられていたというべきか。


「口元が緩んでおりますなぁ。良きことがおありでしたかな」


 周礼がのんびりと言った。


「別に」


 唇を引き結ぶ。

 ほっほっほ、と周礼が演技めいた笑いをこぼす。


「皇后などいらぬと仰せでしたが、先程の語らいはまさしく新婚夫婦のそれでしたぞ。微笑ましかったですなぁ」

「知っていて聞いたのか。人が悪いじじいだ」

「見たのは偶然でございます。陛下に用事があり、部屋を窺いましたがもぬけの殻。探して歩いていましたら、何やら話し声が聞こえまして。足を向けましたら、お二人が睦まじく話しておりましたので、老人は退散した次第でございます」


 俺は咳払いをする。


「昼間は助かった。よく陽蓮を支えてくれた」

「臣下として当然の務め。それに皇后陛下がいなければ、全てをさばききれなかったことは言うまでもございません。儂の助力などささやかなものでございます」

「それで、こんな夜更けになんだ? 火急の件……というほどではないようだが」

「火急ではございませんが、皇后陛下がいない場で、と思いまして」


 周礼は懐から書状を取り出す。


「皇太后陛下からでございます」


 思わず舌打ちをし、書状をあらためる。


「いかがなさいましたか」

「……陽蓮を暁京へ連れてこいと言ってきている」

「いかがなさいますか?」

「会わせない訳にはいかないだろうな。あの女とは表面上、何もないことになっているのだからな。明日にでも話す」

「かしこまりました」


 俺は手の中の書状を握りつぶし、部屋へ戻る。

 琴の音色で安らいだ気持ちがまた荒みだした。

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