8 政務代行
翌日から、光耀様のおそばで働くことになった。
上奏文を整理し、陛下の判断を紙に書き付ける。
陛下は病状が悪いということを決して悟らせぬ威厳で、官吏たちと対していた。
その姿は同じ皇帝という立場でありながら、常に玉座にふんぞりかえり、面倒なことは全て私や家臣に押しつけ、後で問題が起これば苛烈に追求するお父様の姿とは全く異なる。
暴君という言葉が縁遠く思った。
陛下は物事がうまく回らなかったとしてもいたずらに叱責するのではなく、問題を解決するための次善の策を考えさせる。
このような方の元でなら、どれほど働きやすいだろう。
「陛下、そろそろご休憩を」
「分かった」
陛下は運ばれた茶に口をつける。
私の卓にもお茶とお茶菓子が置かれた。
「私もよろしいのですか?」
「当然だろう。朝からずっと働き通しで、疲れたのだろう。張り切られて、明日以降、続けられなくても困るからな」
「そんなことはしません。朝からとっても美味しい食事を頂きましたし、お昼はそれ以上に豪華で。朱国にいた時は、朝から晩まで働いて一食、それもすっかり冷め切った食事というのも珍しくありませんでしたから、それを思えば、とっても良くして頂いて」
「そ、それは……」
李豹は困ったような顔をされる。
しまった。余計なことをしたせいで、空気が悪く……。
コホン、と咳払いして、どうにか空気を変えようとする。
「当時はそれが当然でしたし、異能がない私できることは身を粉にして働くことでしたから」
「お前の家族はそれを当然のことと受け止めていたのか?」
「はい」
「俺だったら、そいつらを全員血祭りにあげているぞ」
「皇后陛下を前に、そのような物騒なことを仰らないで下さい……!」
李豹が慌てる。
「ま、ここにいる限りはお前の働きにはしっかり報いてやる。飯は当然だが、欲しいものがあれば言え。できるかぎり都合をつけてやる。お前はそれだけの働きをしているからな」
「欲しいもの……」
これまでそんなことを言ってもらえたことがなかったから、全く思い浮かばない。
本は書庫にあるものがあればいい。
私がうんうん唸っていると、陛下が呆れたように溜息を漏らす。
「何もないのか? 着飾りたいのではないか? 華奢を許すつもりはないが、もっとましな服が欲しいとは思わないのか。女官のほうが余程立派なものを着ているぞ」
自分の襦裙を見てみる。
「……変、でしょうか? 穴は空いていませんし、特別、不便はないのですが」
「お前がいいならそれでも構わない。それよりもうすぐ執務を再開する。さっさと食え」
「はい。このお茶菓子は綺麗ですね。桃の花みたいですっ」
「小麦と脂を混ぜて焼いた酥というお菓子です。さくさくして美味しいですよ」
「頂きます」
食べると、ほんのりとした優しい甘さが口の中に広がった。
さくさくした食感に「んん!」と思わず甲高い声を上げてしまう。
「ど、どうしましたか?! お口に合いませんでしたか!?」
「あまりにも美味しかったもので、つい声が……」
恥ずかしさのあまり、赤面してしまう。
李豹がほっとした顔をする。
「お気に召して頂いたのであれば良かったです」
「こんなに美味しいもの、食べたことはないわ。んん~……いくらでも食べられそう!」
「だったら俺のも食え」
陛下がご自分の分のお皿を差し出してくる。
「よろしいのですか?」
「どうせもう味も分からん。……そんな顔をするな。もう馴れた」
「ありがたく頂戴します」
「本当にお前はうまそうに食うな。動物に餌付けをする連中の気持ちが少しは分かるな。李豹、お前もそう思……ぐ……」
「陛下?」
不意に陛下が顔を歪め、左手を押さえる。
「どうされたのですか!?」
それまで普通だったはずの陛下の顔にみるみる玉の汗が滲み、食いしばった口元から呻きがこぼれた。
陛下の左手の甲から以前見た、氷の結晶が肌を突き破って露出する。
「!」
光耀様は自分の左腕に噛みつき、呻き声を必死に押さえた。
「どうすればいいのですか!?」
李豹が飾り棚を開けると、そこから袋を取り出す。
「陛下、これを!」
陛下は袋を開けると、中に入っていた黒い丸薬を一口に頬張った。
「う……ぐ……ぁああ……!」
陛下は全身を激しく震わせたかと思うと、前のめりに倒れる。
「陛下!」
私は前に飛び出し支えようとするが、体格のせいで押し潰されそうになる。
それでも必死に支える。
と、かかってくる圧がふっと軽くなる。
背後で李豹が陛下の両脇に腕を差し込んでいた
「皇后陛下、ありがとうございます。後はお任せください」
李豹は執務室と続きの間になっている寝室へ陛下を運んでいく。
「手伝うわ」
「お願いいたします」
私は一足早く寝室へ入ると、李豹と協力してどうにか陛下を寝台へ寝かせた。
陛下は完全に気を失っていたが、荒い息遣いを繰り返す。
意識は失っても痛みは感じているようで、「ぐ……う……」と断続的に呻きをこぼし、自分の体を抱きしめている。4
「李豹。陛下は……」
「先程の丸薬がありますから、そのうち痛みは収まるはずです」
「あれは治療という訳ではないのよね……」
「痛みを緩和するだけございます。それも発作的な痛みは日に日に大きくなっているようで、服用量も増えて……」
この目で直接、陛下の体が氷の結晶に浸食されているのを目の当たりにした。
蘭月であれば救えるのに。
私は自分の無力感に拳を握りしめてしまう。
せめて私が羽化を遂げてさえいれば、陛下を楽にして差し上げられるかもしれないのに。
そこへ女官が声をかけてくる。
「役人の方々がお見えです」
「李豹。どうすれば」
「陛下は当分の間は目覚めません」
「普段はどのように?」
「陛下が目覚められぬ以上は、政務は日延べということになります」
当然のことだ。
しかし日常的に政務が滞れば、そのしわ寄せを受けるのは民たち。
だからこそ朱国にいた時には、体調を崩しても政務は休まなかった。
私たちにとっては明日に日延べしても構わないような些細な政策、法令であっても、民からすればそれが一日遅れることで多大な苦労を負わなければならないという場合が往々にしてあるから。
「私が代わりに対応するわ。後日に回せるものはそうするけれど、緊急性が高いものに関しては決済し、それに関して書き付けを作製。陛下がお目覚められた時に改めて修正するべき箇所の判断を仰ぎます」
「では周礼殿を呼んで参ります。不明点があれば周礼殿にお聞きください」
「ありがとう」
「いいえ」
午前中の決済の様を見る限り、陛下は民に直結することを最優先に処理されていた。
この点をしっかり押さえれば、判断を誤るということはないはず。
こうして陛下の代わりに役人の対応に当たった。
私ひとりではまだ十分にこの国の事情を飲み込めていなかったけれど、判断に迷うたび周礼が必要な情報を教えてくれたお陰で、的確に捌くことができた。
全てが終わった後、私は寝室へ入る。
「陛下のご様子は?」
「……今は落ち着いておられます」
血の気はなくなってはいるが、さっきのように呻いてはいなかった。
しかし一度生まれた結晶はそのまま。
残酷なほどに結晶は美しかった。
まるで陛下の命を糧に育っているかのようで、余計残酷に思えてならなかった。
「皇后陛下。お部屋までお送りを」
「いえ、一人で戻れますから大丈夫。李豹は、どうか陛下のおそばに。あちらの卓に本日、決済を行った政策や法令に関する書き付けを残しているから、陛下が目覚めたらお見せして」
「かしこまりました」
私は部屋へ戻った。
時間になると女官たちが夕食を運んできてくれる。
正直、食欲は湧かないが、無理やりにでも食べよう。
政務は体力勝負。
明日、陛下がいつも通りなられるかは分からないのだから。
私は半ば無理やり、食事をお腹へ収めた。
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