1 虐げられる日々
「陽蓮様、起きて下さいませ。陛下がお待ちでございます」
部屋の外から呼びかける声に、机に突っ伏していた私、朱陽蓮ははっとして顔を上げた。
窓からは朝の日射しが差し込んできている。
いけない。眠りすぎてしまったわ。
「ありがとう、すぐに行くとお伝えして」
「かしこまりました」
急いで身支度を調える。
赤錆色の髪を一つにくくり、襦裙を着替え、一枚上着を羽織る。
鏡の前で見苦しくない程度に化粧で整える。
鏡の中の自分を見るたび、絶世の美女と謳われた母との落差に溜息がこぼれる。
似ているのは母から継いだ金色の瞳くらい。
彫りは浅く、唇は薄く、愛嬌もない。
……って、落ち込んでる場合じゃない。
早く父上の元へ行かないと。
徹夜で仕上げた書類を抱え、部屋を出た。
冬の朝はやはり冷える。
私の暮らす朱国は大陸の南部にあって他の国よりも温暖と言えるが、それでも冬ともなれば寒いし、風は身を切るように冷たい。
朱家は代々、皇帝として朱国を治めてきた。
先祖は三百年前、親が子を、子が親を殺すほどと称されるほどひどい戦乱によって荒廃した地上を救うため、天帝の命で地上に降り立った玄武、白虎、朱雀、青龍の四神のうちの一柱、朱雀神。
実際、朱雀の血を引く本家の人間は十六歳をきっかけに羽化──異能に目覚める。
私を覗いて。
羽化を迎えるべき年齢を二年も過ぎたにもかかわらず未だに羽化を経験していなかった。
異能で国に貢献できない以上、できることは官吏のように多くを学び、政のお手伝いをすることくらい。
向かいからやってくる女官たちが駆け足の私に、行儀良く頭を下げる。
しかしその口元には隠しきれぬ嘲笑が浮かぶ。
家族はもちろん、使用人からも嘲笑われる。
いつものこととはいえ、辛い。
私は気付かぬふりで構わず進んだ。
心なんてなければいいのに。
そうすれば、傷つくことも、胸が締め付けられるように苦しくならなくても済むのに。
もうすぐ主殿に到着するという頃、向かいから華やかな一団がやってくるのが見えた。
一番先頭を行くのは、一月ほど前に羽化した異母妹の蘭月。
舞姫と呼ばれて父上の寵愛を一身に集める現皇后、媛明様ゆずりの彫りが深く、華やかな顔立ちをしている。
羽化を迎えてより鮮やかになった紅い髪、そして媛明様ゆずりのみずみずしい桃色の瞳。
彼女がひとたび笑えば、男女を問わず魅了されない人間はいない。
蝶や花にたとえられる見た目とはかけ離れた内面を知っている私でさえ、目を奪われてしまうほど。
「あら、お姉様」
廊下の端に寄り、目を伏せる私に蘭月が気付く。
「……おはようございます、蘭月様」
妹といえども、私と彼女には大きな差がある。
「あら、こんな寒い日にうっすら汗をかいて、どうされたの?」
「……お父様に、書類を届けに」
「そう、寝坊したのね。いけないわよ、異能も使えぬのにさぼっては」
蘭月の言葉に、彼女のお付きの女官たちが笑った。
「申し訳ございません」
「で、書類ってどんな? 見せてよ」
「国事に関することです」
「だーかーらー、見せてよぉ」
「いえ、そういう訳には。後で陛下に見せてもらってください」
「わたくしには見る権利がないとでも?」
「いいえ、そんなことは……」
「だったら、いいでしょう」
嫌な予感しかしなかったが、渡さないと面倒なことになってしまう。
ここでいつまでも時間を食う訳にはいかない。
「どうぞ」
「ふーん、どれどれぇ……」
わざとらしく呟いたかと思えば、
「難しくてわかんなーい」
瞬間、ぼうっと目の前で書類が燃える。
「い、いけません!」
慌てて飛びついた。
「無礼者!」
蘭月の手が向けられた瞬間、火が私の襦裙に移る。
「い、いや!」
肌を炙られる痛みに悲鳴を上げた私は庭先に転がり、土まみれになりながら火をどうにか消した。
「アハハハ、なんて無様なの! でもそっちのほうが赤錆女らしいわねえ!」
蘭月は笑い、半分ほど焦げた書類を、肩で息をする私に投げつけ、去って行く。
熱いものがこみあげる。
私が一体何をしたというの?
羽化もできぬ出来損ない。そのせいで公主としての務めを十分に果たせぬことは理解しているし、申し訳ないとも思っている。
だからこそ、別の形で国に尽くそうとしているだけなのに。
蘭月はことあるごとに私につっかかる。
異能に目覚めてからはそれがさらに激しくなっていた。
お父様も媛明様も、それを見て見ぬふり。
しかし悲しみに暮れる暇さえない。
半分焦げて判別ができなくなってしまった書類を手に、私は主殿にある謁見の間へ向かう。
「遅れて申し訳ございません……っ」
「遅いぞ、何をしていた!」
謁見の間には重臣たち、そしてお父様の朱炎がいる。
義母であり皇后の、媛明様までいらした。
媛明様は私を見るなり、不愉快そうに眉間に皺を作られる。
「髪はぼさぼさ、服は皺が寄って、汚れて……。それが陛下の前へ出てくる格好ですか?」
「……寝坊してしまい、申し訳ございませんでした」
私は額ずく。
お父様が下卑たものでも見るように目を細めた。
「まったく。お前を見ていると、本当に腹が立ってくる。泉下の香華もきっと嘆いているはずだ!」
「……はぃ」
「もういい。書類は出来ているのだろうなっ」
「……それが」
「できておらぬのか!?」
「いえ、出来ていたのですが、不注意で、燃やしてしまいまして」
「お前はどれだけ朕を苛立たせる!? この一族の恥さらしめ! 朱雀様も、今のお前を見れば、末裔の不甲斐なさにどれほど嘆かれるか!」
お父様が手にしていた杯を、私めがけ投げつけた。
肩にぶつかる。下唇を噛みしめて痛みを我慢する。
「……申し訳ございません。今より口答で説明させて頂きます。書類に関しては後日……」
「さっさとしろ! 役立たず!」
父上は白いものがまざった紅い髭を扱きながら、鼻を鳴らす。
周りにいる臣下たちは私に同情的な視線を向けるものの、お父様の逆鱗に触れることを恐れて誰も何も口ににせず目を伏せるばかりだった。
※
昼頃から書き続けた書類をようやく書き終えたのは、日付が変わった頃。
手首がじんじんと痛むけれど、それよりも解放感が勝った。
女官が運んできた夕食はすっかり冷め切っていたが、どんなものでもありがたい。
めざしをかじり、硬くなったご飯を咀嚼し、汁物で流し込んだ。
明日は昼から視察、夕方からは関係省庁との打ち合わせ。
政務は山のように押し寄せる。
羽化もできぬ私では政略結婚にも使えない。
これが私に唯一できる、公主としての務め。
それに大変なことも多いけれど、執務は好きだ。
自分が立てた計画が実行に移され、それによって民の生活が潤う。
誰に褒められるということはないけれど、仕事を一つこなすたび、自分が生まれた意味を実感できる気がした。
それでもやはり自分の境遇に息が詰まり、深い絶望と悲しみで何もかも投げ捨てて消えてしまいたいと思うことはある。
特に、今宵のように美しい月の晩には。
母上、早く私を迎えに来てください。
十歳の頃に病で亡くなった母を想う。
立派な公主になれるよう時に厳しく指導し、時に優しく励ましてくれた、凛とした母。
『あなたは幸せになれるわ。だって世界で一番の、自慢の娘だもの』
笑いかけ、優しく抱きしめてくれた。
こんな時、いつも私は箏を爪弾く。
母上の美しさには到底及ばない身だけれど、それでも箏の才能は母譲り、とうぬぼれる。
母は、その美しさだけでなく、箏の名手としても知られていた。
後ろから私の手を優しく包み込み、一緒に箏の演奏してくれた。
あの時間が幼い私にとってはかけがえのないものだった。
『陽蓮。あなたはもしかしたら、私よりもずっと箏がうまいかもしれないわ』
耳の奧で母の優しい声音を思い出せば、目頭が熱くなる。
頬を熱いものが伝うのを意識しながら、箏を弾き続けた。
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