海鳴りの珊瑚【短編】人魚喰い3【夏のホラー2025】
「あぁ、やっぱり、去年より上昇してるよねぇ。」
モニター画面に映し出された今年のグラフの線は、雨の日以外、去年の平均海水温を上回っている。
緩やかに船を揺らす潮。
ここは、南海の千鳥浦沿岸。
小さな船の上で、美咲は、深くため息をついた。
穏やかな海風。
周りには、朝日を反射してきらめく碧い海が広がっている。
この美しい海で、サンゴが音もなく、ゆっくりと死んでいく。
色を失い、美しく哀しい骨のような白色を晒しながら・・・
海洋生態学を専門とする研究者、海野美咲は、モニター画面を閉じると、軽く目を閉じた。
長野県の東部にある東御市には、海が無い。
そんな長野で育った美咲が、遠く離れた千鳥浦で、サンゴの研究者になったのは、父の影響だ。
幼いころ亡くなった千鳥浦出身の父が、「美咲の名前には、千鳥浦にある海の岬という意味が込められているんだよ。」と、まだ小さかった彼女の頭を撫でてくれたのだ。
自分と千鳥浦の海は、何か特別な縁で結ばれていると固く信じた彼女は、その言葉に導かれるように、大学時代から海洋環境に関心を持ち、サンゴの研究を続けてきた。
「じゃぁ植えようか、また今年も・・・」
去年、一昨年に続き、美咲たちの研究チームは、サンゴの植え付けを行うことを決めていた。
種苗を育て、海底に固定し、新たなサンゴ群体として成長させる。
といっても、思いついたらすぐにはじめることが出来るというわけではない。
植え付けを行うには、県知事に届け出て許可をもらうことが必要なのだ
そのため、最初の一年は、許可を取るために役所を走り回る羽目になった。
しかも、植え付けるサンゴも決まっている。
サンゴは、それぞれ遺伝子が違うため、本島なら本島のサンゴ、向こうの島なら向こうの島のサンゴ、千鳥浦なら、千鳥浦のサンゴでなければならない。
他のサンゴを持ってきて植えて、それが増えてしまうと、その海域の遺伝子を持ったサンゴと交雑してしまう。
そんなことになれば、自然を守っているのやら、破壊しているのやら、何やら意味の分からない活動になってしまうから注意が必要。
植え付けたサンゴは、最初は、小指の先ほどの大きさ。
1年後に、こぶし大となり、2年たった今は、手のひらの大きさまで成長している。
水深は、7メートル。
これは、波と日光の影響があるためだ。
日光がないと、サンゴは育たない。
なので、浅い方が、良く育つ。
しかし、浅いと伸びた枝が、荒波によって折られる。
さすがに10メートルを超えると、日の光がまともに入らない。
色々と試してみて、7~8メートルが最適かな。というところか?
植え付けには、特注のエポキシ樹脂を使う。
水中でも固まりやすく、岩礁にしっかり固定できる。
サンゴの苗は、わずかにピンクがかった白。
弱々しく、生まれたばかりの赤ん坊。
それでも、小さな枝の先端には、生命の力強さ。
生きようとする力が、そこに脈打っている。
海から上がると、碧色だった海面が、鮮やかなオレンジ色に染まり、波が静かに寄せては返す。
自然に寄り添い、失われたものを取り戻す。
その営みは果てしないけれど、むしろ・・・だからこそ、意味がある。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「今日、ちょっと潮が速いかも・・・」
美咲とスタッフは、無言のうちにアイコンタクトを交わし、それぞれの役割を果たすべく海に潜った。
海中は予想以上に濁っていた。
雨の影響で陸から流れ込んだ赤土が、水中の視界を遮っていた。
この現象は、赤土流出と呼ばれ、千鳥浦周辺の島嶼地域では大きな問題のひとつとされている。
農地開発や道路整備によって地表の土がむき出しになると、雨によってその土が海に流れ込む。
そしてそれが、サンゴの光合成を阻害し、死に至らせるのだ。
地域には、江戸期にも、領主が山林の開発を命じて海が汚れたため、海の神様が罰を与えたという伝承があるようなので、今に始まった現象というわけではないにしろ、その汚染規模は、現代の工事の方がはるかに大きいであろうことは、想像に難くない。
「ちぇっ・・・」
調査地点に到着すると、前回植えた苗のいくつかが、流されたり、藻類に覆われたりしていた。
美咲は、小さく舌打ちをして、ゆっくりと岩礁の隙間を探った。
生き残っていた苗もあった。
それらの枝先は、確かに少しずつ成長していた。
慎重にカメラを構え、記録映像を撮影する。
レンズ越しに見るサンゴの姿は、まるで小さな宇宙のようだった。
船の上で、映像を確認する。
「これ、赤土の問題、もう一回、県庁に働きかけなきゃダメよね。」
「でも、研究者って、どこまで政治に踏み込んでいいのか・・・悩むこと、ありますよね。」
後ろからモニターを覗き込むスタッフの声に、美咲は、しばらく考えてから、答えた。
「研究結果は、事実を伝える手段。でも、そこから先を動かすのは、人の想い。海を守りたい!サンゴを守りたい!って気持ちを、誰かに渡していくことも、私たちの役目ね。」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
船を降り、海岸沿いから向こうへと伸びる林道に足を延ばす。
地元の人すらほとんど訪れないこの林道は、歩きながら静かに考え事をするには、絶好の場所だ。
しばらく歩くと、いつも美咲が腰かけて休憩する柵の向こうに人影が見えた。
それは、少し崩れた木の柵の向こう側。
ガサリと音を立てて現れたのは、女の子。
美咲を前に、磯の匂いがするズタ袋を片手にした少女は、立ち尽くした。
「あー・・・海野先生?なんで、こんなところに?」
「えーと・・・夏子ちゃん?」
思わず美咲は、声をかけた。
それは、地元の高校で、海洋研究の講演をした際、サンゴの植え付けに興味を持って、講演後に質問をしてきた少女・夏子であった。
風はわずかに磯の香りを運び、時折、鳥の声が崖上から響いてくる。
「さっきまで、海に潜ってたのよ。ほら、サンゴの植え付け。夏子ちゃんは?」
「わ・・わたしは、山菜を取りに・・・ほら、これミズナ。クセがあんまりなくて、おばあちゃんが、煮物とかきんぴらにしてくれるんだけど、茹でて水に通して、包丁で細かく刻んだらトロトロになるから、それを冷やしても、美味しいの。水の滴る影のある場所とか、崖のあたりに生えているから、この先がちょうどいいんだ。あっ、でも、海野先生は、ダメだよ。慣れてないと、この木の柵の先は、危険だから。昔、この先で事故もあったらしいからねっ!」
前に事故が起こったことのある危険な場所で、年頃の高校生の女子が山菜取り・・・
そうは思ったが、口に出さずに、夏子が濡れたズタ袋から取り出したミズナをひとつ受け取って眺める。
「じゃね。遅くなったら、おばあちゃんに怒られちゃう。ホントに、そっちの柵の先には、行っちゃダメだよ。」
言い残すや否や、夏子は、美咲がやって来た林道を、だだだだっと音をたて、走り去る。
あとには、手の中のミズナ。
そうして、鼻の周りにズタ袋が残した磯の香だけが残った。
木の柵に腰かけ、すでに夏子の背が見えなくなってしまった林道をしばらく眺めると、美咲は、後ろを振り返った。
座る木の柵の向こうには、車が通るには細すぎる舗装されていない小道が伸びる。
彼女に貰ったミズナの茎を鼻先で、ふるふると振った。
「行っちゃダメって言われたら、行きたくなるものよねぇ。ふふっ。」
そう言うと、美咲は、おもむろに柵を乗り越えた。
湿った空気がぬるく、岩壁の所々には、不自然なほどの暗い緑苔。
途中、岩から滴り落ちる水の音が、ポッ、ポッ、ポツリ・・・とやけに大きく響く。
「ミズナは、水の滴る影のある場所とか、崖のあたりに生えている。か・・・これは、高校生の女の子が、遊びに来る場所じゃないわね。」
つぶやく美咲は、それでも足を前に進める。
やがて、道が開け、海が見えた。
「へぇ、こんな場所があったんだ。」
遠くに見える大岩と、近くのごつごつした岩場。
その真ん中を隔てるように、小さな砂浜が、広がる。
ところどころに飛び出す小さな岩が斜めに傾き、遠くそびえる巨大な大岩の周りだけ、潮が、異様に引いていた。
「きれいっ!すごくサラサラして真っ白な砂っ。」
ちょっとした高さがあったにもかかわらず、美咲は、思わず砂浜に飛び降りた。
絵に描いたように真っ白で、碧い海の色に映える小さな白い砂浜は、あまりにも美しいものだったのだ。
「前言撤回ね。高校生の女の子に似合わないって思ったけれど、ここは、別だわ。同級生の男の子とかと一緒に来たい!ってなりそう。」
砂浜を歩く美咲は、ぱしゃぱしゃという穏やかな波の音に誘われ、そびえる巨大な大岩へと向かって歩く。
波間に光る銀色の影。
「えっ?あれ、何?うわぁ・・・あんな大きな魚が打ちあがるんだ。」
巨大な大岩の根元で美咲が、目にしたのは、テレビなどでよくみられる本マグロ大ほどの魚のしっぽ。
興味に駆られ、滑りやすい岩の上を慎重に歩きながら近づいていく。
潮風に混じって、生臭い磯の匂い。
「ふふっ、夏子ちゃんの袋の匂いね。」
思わず笑ってしまう。
だって、高校生の女の子の持つ袋が、生臭い磯の匂いって、色気が無さすぎる。
グゥルルルルルるルぅ
その時であった。
大岩の陰から、なにやら唸り声。
警戒しながら、おそるおそるその向こう側を覗き込む。
岩の隙間に身を潜めるようにしていた影が、不意にこちらを向いた。
どこか異様な雰囲気を纏ったその影は、美しい女の姿をしていた。
肌は病的なほど白く、濡れた黒髪は、海藻のように美しく絡まり、その瞳は、冷たく透き通っていた。
「あなた・・・」
美咲が声をかけた途端、女の口が裂けるように開き、キィィィぃという甲高い金切り声が、空気を裂く。
人間の形をしているのに、そこに理性の光はなかった。
意思疎通ができる相手ではない。
直感で悟った美咲は、心臓をバクバクと打ち鳴らしながら、岩場を転がって逃げ出そうとする。
しかし、体が前に進まない。
ガリガリと、爪が岩肌をひっかくような音が耳の奥まで響く。
後ろを振り返れば、美咲の左足を女が右腕を伸ばして掴んでいる。
次の瞬間、水を蹴って跳ね上がったそれは、信じられない速さで美咲に襲いかかってきた。
爪が空を切り、彼女の肩を裂く。
悲鳴を上げる暇もなく、重く冷たい体がドスっという音を立ててぶつかってきた。
したたかに、岩に背を打ちつけながら、美咲は、必死に女を蹴り、払いのけようとするが、それの力は、尋常ではなかった。
濡れた腕に掴まれ、海へ引きずり込まれそうになる中で、彼女の目と、女の視線が交わりあう。
その瞳にあったのは、怒りでも悲しみでもない。
ただ、本能に突き動かされる捕食者の光。
響いたのは、シャリっというリンゴを丸かじりするような音。
潮騒に混じって、肉に牙を突き立てる残酷で静かな音が、血と海水の匂いを強く漂わせ、その瞬間、美咲の目の前の海が、美しい赤に染まった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
翌朝、地元の高校生である夏子は、巫女の大岩と呼ばれる巨大な石の磐座の前で立ちすくんだ。
手に持つズタ袋には、魚が詰まっているが、それを渡す予定だった相手は、すでにこの場に居なかった。
代わりに横になっていたのは、彼女が見知った大人の女性。
喉は、食い破られ、腹部の肉は食いちぎられたように欠け、胸の皮膚はまるで何本もの爪で引き裂かれたかのよう。
その胸元には、小さな貝殻がひとつ、小さな花が一輪、そうして、茎の折れたミズナが、静かに置かれていた。
夏子は、知っている。
それに喰われるということが、どういうことかを。
しかし、それを理解をしていなかった。
『巫女の大岩』に居た何かがエサを喰らった後のこと・・・その残骸のことを。
黒い海の底で、白い波と共に、じぃっと見つめ続ける何かは、ヒトにとって恐ろしい生き物だということを・・・
両手で持った重いズタ袋が、風に揺れる。
夏子は、巫女の大岩の前で、立ちすくんだまま、ずぅっと海を眺め続けていた。