五
子墨は、眼前の皇帝に対する恐怖に身を震わせながら、問い掛ける。
「そのために、実の父である先帝陛下を引きずり降ろし、皇帝の座に就いたのですか!?」
「それは官僚共が勝手にやったことだ」
皇帝は途端に冷めた顔になる。
「余に夢中だった陛下は、もはや配下が反逆を企てていることになど気付けなかった。官僚共は陛下の目を盗んで余に接触し、自分たちの傀儡となることと引き換えに、次期皇帝の座を約束した。余は、父上を殺さず、後宮に幽閉して飼うことを条件に、その提案を呑んだのだ」
皇帝はふたたび恍惚とした笑みを浮かべながら先帝を踏みつける。
「しかし、いくら侍医に治させても、父上の命はすり減っていった。余は侍医の家族を質にとり、陛下が弱るたびにひとりずつ目の前で殺していった。当然、侍医は必死に治療したが、奴には余の希望に副うだけの技術はなかった。最後に、ぼろぼろになった娘の首を落としてやった直後、奴は自ら喉を突いて果てた。おかげで、陛下を延命できる侍医の代わりが必要となった」
「それで、私に白羽の矢が立ったのですか」
「そうだ。先生は素晴らしい。あのやぶ医者など比べるべくもないほどに、優れた力を持っている。これなら、いつまででも父上を生かし続けることができよう」
バカな、と子墨は思う。
己の〝力〟は、そんなことのためにあるのではない。
「おっ、お断りする!」
「ほう?」
皇帝は身を屈め、子墨の顔を覗き込む。
「孤児院の子どもたちがどうなってもいいと?」
「なっ!? あの子たちを人質にとるおつもりか!?」
「まさか。そんなことはせぬよ。あの侍医とは違い、先生に遺恨などないし、それどころか尊敬さえしているのだ。断るというのなら、はなはだ残念ではあるが、このまま先生を解放して、二度とかかわらぬと約束しよう」
「で、ではどうして――」
「べつに余が手を出さずとも、今の院の経営状況では、程なく子どもたちは餓死するのであろう?」
そうだった、と子墨は思い出す。
自分はそんな状況をどうにかするため、ここへやって来たのだ。
「言っておくが、この国の民の生活はますます苦しくなっていくはずだ。先帝を廃した官僚共は、どいつも己の欲を満たすことにしか関心のない俗物だ。当然、院の経営状況もますます悪化するであろうよ。だが、先生が余に力を貸してくれるのであれば、子どもたちが飢えぬよう援助してやろう。食糧だけではないぞ? 皇帝の権限で子どもが勉学を学べる施設を作り、通わせてやる。そこで優秀な成績を収めれば、官吏にとりたてても良い。そうだな……いっそのこと貴公の孤児院ばかりでなく、国中の恵まれない子どもを対象に支援してやろう。先生がひとりで慈善事業をするよりも、余程多くの子どもたちを救えるだろう」
子墨にとって、それはこのうえなく魅力的な提案だった。
いくら特別な〝力〟を持っていても、自分ひとりにできることは限られている。
本当は院に連れ帰りたくとも、そうできなかった子どもだっていた。
皇帝の権力を使えば、そんな子どもたちの多くを救うことができるのだ。
だが、その代償に己は、ここでこの狂人共の世話を続けねばならない。
そうなれば、院に帰ることはできまい。
先帝はいつ死んでもおかしくない状態だ。
己はこの先ずっと付きっきりでこの芋虫のような人物の延命を続けていかねばならないだろう。
それは、子墨にとって絶望的な選択だった。
どんなに困窮していても、子どもたちが居たから乗り越えることができた。
癒した人から感謝の言葉を貰えたから、自尊心を保てた。
死にたくても死ねない先帝を、本人の意向などおかまいなしに生かし続けるだけの日々など送れば、己自身も程なく正気を失うだろうと、容易に想像できた。
「先生」
皇帝から呼ばれ、子墨はぎくりと体を強張らせた。
「先生が、保護した子どもたちと貧しくとも幸福な時間を過ごしている間、怪我人や病人を助けて感謝されている間、余は誰の助けを得ることもできず、父上からの愛を受け続けるしかなかったのだ。先生が救ってきた者たちと余、同じく不幸な身の上なれば、一度ぐらい余に手を差し伸べてくれてもよいではないか」
そう言って掴まれた手を、子墨はふり払うことができなかった。
この若者を救うすべは、もはやこの世に存在しない。
だが己なら、望みを叶えてやることだけはできる。
そしてそうすることで、院の子どもたちはもちろん、この国の多くの子どもを、不幸な境遇から解放できるのだ。
そのためなら、非道を働いた先帝の道連れとして、生きながらに地獄へ墜ちようともかまわないと子墨は思った。
皇帝は約束を守った。
子墨が皇宮へ向かった翌日には、孤児院に大量の食糧と物資が運び込まれ、施設の周囲には警備の兵士まで配置された。
さらに、ほどなくしてぼろぼろだった屋敷は改築され、清潔で快適な住環境となったうえ、他にも複数の施設が建てられ、子墨だけでは保護しきれなかった浮浪児たちが集められた。
各施設には複数の職員が派遣され、彼らは子墨のように優しくはなかったものの、決して子どもたちに暴力を振るうなどの非道は働かなかった。
間もなく、国中に国営の学校が建てられ、孤児院の子どもたちは無償で教育を受けられるようになった。
この児童政策は、二十九代皇帝の行った唯一の善政として、後世にて評価されることとなる。
ただし、どれだけ孤児院の生活が良くなろうと、そこに子墨が戻ることはなかった。
そして、子墨が姿を消してから丁度十年後、軍が反乱を起こし、西慶の都は呆気なく陥落した。
反乱を主導したのは若き青年将校で、彼の指揮する反乱軍が皇宮に突入したところ、皇帝は服毒して自ら命を絶っていた。
その顔は、どういうわけか満ち足りた笑みを浮かべていたという。
反乱軍は皇宮内のすべての施設を制圧した。
人気のない後宮へ踏み入った反乱軍の兵士たちは、その最奥にある一室で異様な光景を目にした。
鼻を突くような臭気の充満する部屋の中央に、もはや原型すら留めていない蠢く肉塊と、それに掌をかざし続ける老人を発見したのだ。
老人は瘦せ衰えて肌はつやを失くし、総白の髪と髭は延びるに任せてあった。
表情は虚ろで、目の焦点は合っておらず、兵士たちの声に反応も示さず、放心しながら肉塊に寄り添っていた。
あまりに気味の悪い状況に、兵士たちが立ち竦んでいると、そんな仲間たちを掻き分け、ひとりの武官が老人に駆け寄った。
その若い武官こそ、反乱を主導した青年将校だった。
彼は肉塊に剣を突き立てると、身を屈めて老人の肩を掴んだ。
「捜しましたよ先生! ああ! たった十年で、なんというお姿に!!」
老人が視線の定まらぬ顔を武官に向けると、彼は目に涙を滲ませた。
「すみません……迎えに来るのが遅くなってしまいました」
「……………………シン…………ユー……?」
名を呼ばれた武官は、枯れ木のような老人の体を抱き寄せ、震える声で伝えた。
「帰りましょう先生。みんな待っています」
その日、八百年以上の長きにわたり続いた皇国が滅亡した。
そしてそれから三日後、かつて〝聖者〟と呼ばれたひとりの廃人が、過去に救ったたくさんの子どもたちに見守られながら、静かに息を引き取った。
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