一
春節が過ぎ半月ほどが経過した頃、西慶の都に噂が流れた。
皇帝崩御。
皇后は世継ぎを産まなかったため、次の皇帝には妾腹の皇子が就いたのだという。
しかし、実際にはそんな噂を信じている民などひとりもいなかった。
街の中心に皇城を有する西慶においてさえ国葬が執り行われていないのだから、当然だといえた。
「けどま、そんな噂をしたくなる気持ちもわかります。食料は街に入って来ず、通りには浮浪者とならずもんが増えるばかり。それなのに、国はまた税を引き上げることしかしない。皇帝が代替わりでもすれば、少しは状況が良くなるかもしれないって、みんな思ってるんですよ」
奉公人が荷車から箱を降ろす間、商人の男は子墨にぼやいた。
子墨は微苦笑しながらも、釘を刺す。
「あまり滅多なことは言わない方が良いですよ。どこで誰が聞いているかもわかりませんし」
「違いありませんな……お、荷を降ろし終えたようです」
奉公人が施設から出て納品の報告をすると、商人は愛想笑いを浮かべる。
「それじゃ先生、また来月来ますんで」
「ありがとうございます。いつも助かっています」
「とんでもありません。先生には返しきれない恩がありますからね。店の売れ残りで申し訳ないが、どうかお納めください」
「おかげで子どもたちを飢えさせずに済みます」
「それはそうと、最近女房の奴、便秘が酷いみたいでしてね。私も腰が痛いんで、よかったら近々屋敷に顔を見せに来てください」
「わかりました」
部下に荷車を引かせた商人を見送ると、建物の中から顔を顰めた少年が姿を現した。
「なぁにが顔を見せろだ。テメエこそ、久々に顔を見せたと思ったら、要する調子が悪いんでおっさんに診てもらいてえからじゃねえか」
「星宇」
ふり向いた子墨は、名を呼んだ少年を窘める。
「宇航殿は院のために無償で食べ物を提供してくれているんだ。そのような悪態をついてはバチが当たるよ?」
「無償じゃねえだろ。医者が匙を投げたあいつの女房の病を、おっさんが癒してやったんじゃねえか。それなのに、店の売れ残りを提供するぐれえじゃ、恩返しにゃぜんぜん不十分だぜ」
「私は、恩に着せたり、まして見返りを期待して〝力〟を使っているわけではないんだ」
「知ってるよ。あんたがそんなんだから、うちはいつまでたっても貧乏所帯なんじゃねえかよ」
星宇に睨まれた子墨は、困ったような笑みを浮かべるしかない。
「ちっ! なに笑ってんだ」
吐き捨てるように言うと、星宇は建物の中へ駆け戻った。
溜息を吐き、子墨もその後に続く。
食堂として利用している広間に入ると、子どもたちが商人の置いていった木箱から中身をとり出しているところだった。
並べられた食材を見て、子墨は口を固く引き結んだ。
萎びた野菜に腐りかけの芋。
干した魚の表面には、よく見れば虫が蠢いている。
「……今月も厳しいか」
無意識にぼやいた己の言葉に気付き、子墨は小さく首をふる。
食糧や生活のための物資を提供してくれている商人は、他にもいる。
が、どこも物が不足していることに変わりはなく、贈られる物資は月を重ねるたび粗末になっていく。
裏の菜園で採れる野菜や果物を加えても、子どもたちを養っていくには到底足りない。
また家畜用の飼料と雑草の雑炊で乗り切らねばならないかもしれないと子墨は思う。
「先生!」
子どもたちから呼ばれ、子墨は曇りかけた顔に無理やり笑みを浮かべながら応じた。
「足の速いものからいただこうね」
五年前、西慶の貧民街に流れ着いた子墨は、なけなしの金すべてと引き換えに、朽ちかけた屋敷を手に入れた。
そして孤児院を開くと、物乞いや残飯を漁って暮らしている浮浪児に声をかけては連れ帰って面倒を見るようになった。
また彼は、病や怪我で苦しんでいる者の話を聞きつけては訪ねて行き、ある方法で彼らを癒した。
いつしか子墨は〝下町の聖者〟と呼ばれるようになり、彼に助けられた者たちが、進んで捧げものを持ち込むようになった。
その寄付で今まで院を営んできたが、ここ最近は不景気で、どうにも立ち行かなくなってきている。
痩せ衰えた子どもたちの体を見て、子墨は思う。
このままでは餓死者が出るのも時間の問題だ。
早急にどうにかしなければならない。
しかし、なんの解決策も考えつかぬまま、商人から提供された食べ物が尽きかけた頃、不意の来客があった。
「先生……表に兵隊さんが来てるよ」
不安な表情を浮かべた子どもからそう知らされ、子墨が屋敷の入口へ向かうと、数人の子どもたちが警戒した様子で、廊下の曲がり角から玄関を窺っていた。
近付くと、子どもたちは安堵した様子で子墨を見上げた。
「私が対応するから、皆は奥の部屋へ行っていなさい」
そう言って頭を撫でると、子どもたちは素直に従った。
子どもたちが廊下の奥へ消えるのを確認すると、子墨は大きく深呼吸してから玄関へ向かった。
土間では、ふたりの兵士が直立姿勢で子墨を待っていた。
装いから、皇軍の兵であると子墨は察した。
「この孤児院の経営者だな?」
そう問われ、子墨は頷いた。
「はい。子墨と申します。どのようなご用件でしょうか」
「皇帝陛下の命により、貴様を皇宮へ連行する。急で悪いが我らに同行してもらおう」
動揺しながらも子墨には、その理由に心当たりがないわけでもなかった。
おそらく、自分の〝力〟に目をつけたのだろう。
何故今更とも思うが、現状を鑑みれば、これは好機かもしれない。
うまくとり入ることができれば、皇帝から直々の支援を受けられる可能性もあるだろう。
子墨にとって権力者に言われるまま力を使うのは不本意なことではあるものの、子どもたちのため、背に腹は代えられない。
「……承知いたしました。支度しますので、少しだけお待ちください」
「手早く済ませよ」
子墨は兵たちに小さく頭を下げると、足早に廊下を戻った。
「星宇」
そう名を呼ぶと、廊下の陰に隠れていた少年が姿を現した。
その手には、薪割り用の鉈が握られている。
もし兵たちが子墨に狼藉を働いたなら、助けに入るつもりで控えていたのだ。
「星宇……兵隊相手にそんなものを振り回してはいけないよ」
「奴らが妙な気起こさなけりゃ、オレだって無茶な真似はしねえ。つか、なんで兵隊があんたを訪ねてくんだよ。なんか悪いことでもしたんじゃねえだろうな?」
「彼らは皇帝陛下からの使者で、私を呼びに来たそうだ」
「は? 皇帝? 冗談だろ?」
「いや。おそらく私の〝力〟が必要なのだろう」
「ああ、そういう……」
星宇は納得しつつも、すぐに忌々しげな表情を浮かべる。
「けっ! 権力者ならいくらでも医者にかかれんだろ」
「侍医では手に負えない病なのかもしれないね。とにかく、私はこれから皇宮へ出向かねばならなくなった。もしかしたらしばらく帰れないかもしれないから、その間、皆の世話を頼むよ」
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