9
フォルモンドの本邸――森の中に隠れるように佇むその屋敷は、数世代前から引き継いで使われている。
雨風にさらされ続けた事を証明する苔が、屋敷の壁を覆うように生えていたが、それらは決して放置されているわけではなく、屋敷の外観を装飾するかのように計算されていた。
全くもってフォルモンドの人間には搭載されていない上品さが、皮肉にも屋敷の魅力となっている。
――ディランは、その屋敷を見上げていた。
彼の姿はドラゴンと戦った時のくすんだものではなく、白いワイシャツに黒いスーツ、同じく漆黒のタイと、フォーマルなものになっていた。
ウィンドモアの人間であっても着る機会のない正装を身に纏い、ディランは現れた。
だが、道が整備されていて到達しやすい正面からではなく、あえて森を抜けて背後から様子を探る。
屋敷は二階建てであり、窓の大きさや灯りがついていることから考えて、ウィリアムの部屋は上階の真ん中にあると思われる。
ザッ、っと革靴が地面を踏み締める音が聞こえ、ディランは息を潜めた。
近くにある巨木の陰に隠れて様子を伺うと、巡回兵が一人、気だるげに歩いてくる。
兵がちょうど木に差し掛かった時、ディランは背後から近付いて、一息に首の骨を折った。
気道と頸動脈が塞がれ、一瞬のうちに脳死状態に陥った兵は力無く崩れ落ちようとしていたが、ディランはそれを支え、木の根元に隠す。
最低限の目的地を定めたディランは、そのまま足音を殺して正面へと近付いていく。
屋敷の前には二人の見張りが立っていた。
横から近づいたディランは、こちらに気づいていない見張りのうち自分に近い一人の横面を殴り、ようやく存在を知覚したもう一人の腰に携えられた剣をするりと抜いて斬りつけ、体勢を立て直せていない最初の一人の首を切った。
最低限の動きで行われたそれによって、屋敷の内部の人間は誰一人としてディランの接近を、知らない。
屋敷に入ると、大広間が暗殺者と呼ばれる男を出迎えた。
広間の両側には上位へと向かう階段、頭上には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、壁にはフォルモンドの祖先たちの肖像画が掛けられている。
代々受け継がれてきた血筋に誇りを持っているのだろうが、果たして彼らは見合うだけの行動を成したのか。
一般的な感性を持つ人間ならば、そのように考えたかもしれないが、ディランは全くの無関心だった。
ただ、そこに在るものを在ると認識しただけ。
今夜のうちに途絶えてしまう血筋を遡ることなど、脳の記憶容量を無駄に使うだけだ。
その時、上階の廊下を歩いてきた兵の一人が、ディランの姿を認識した。
「――お前、何者だ!」
主人への畏怖による静寂に包まれた邸内に声が響き渡り、上階、下階ともに兵が集ってくる。
大広間には巨大な暖炉があり、その周りには柔らかなソファが並ぶ。
続く廊下は暗い木目になっていて、大小の燭台が夜道を等間隔で照らしていた。
ディランからは見えないが、右手の廊下の先にある食堂では、数人の兵が夕食を摂っている最中だ。
左手の廊下の途中には図書館があり、今まさに、勇者とその仲間について調べさせられていた兵がいた。
その尽くが、一声によって集まってくる。
「――誰かと思えば、そのまま逃げれば良かったものの」
姿を現したのはウィリアムだった。続いてホープが、若干の恐怖を顔に出しながらディランを見下ろす。
「お、お前……本当に生きてたのか。で、でも、どうしてのこのこ姿を見せたんだ!」
返答はない。
「ここに来ても殺されるだけなんだよ! 見ろ、お前の周りには十人はいるぞ!」
剣を携えた――魔導銃を腰に下げた――素手の兵士もいる。
そんな屈強な兵士たちが、たった一人の男を殺そうと目を光らせる。
そもそも、ウィリアムを殺しにくるのであれば、正面から入る必要はないだろう。誰かがそんな事を考えた。
事実、「暗殺」したいのであれば、どうにかして二階の窓を叩き割り、混乱のうちに仕留めてしまえば良い。
しかし、ディランは違った。
彼は暗殺者ではないし、正面から入っても全員を殺せると確信している。
和解の可能性は潰えた。ウィリアムが潰した。
であれば、ディランは追いかけるだけだ。
どこに逃げても、どんな抵抗をしようとも殺す。それだけだった。
それに、ディランは兵に見つかる事を何とも思っていない。
上階からディランを睨みつけている男が、腰にある魔導銃に手を伸ばそうと――。
銃声が鳴り響き、地面に男が叩きつけられる。
暖炉を囲う煉瓦に、同じような色の液体が付着した。
ディランの戦いには音はつきものだ。
――魔導銃。
魔力を込める事で、銃身に嵌め込まれた魔石が反応し、物理、魔力共に破壊力を秘めた弾丸が発射される。
しかし、弾丸に限っては物理的に用意する必要があり、大抵の場合は装弾数が決められている。
ディランが手にしているそれは、装弾数が十発と少なくはないが、「発射数」には制限があった。
一発一発に多大な魔力を込める事で、貫通力を通常のものより遥かに強化しているからだ。
それを惜しげもなく放った。矢のようにまっすぐな弾丸は、上階の柵を越えて落ちた男の心臓を正確に通過した。
慌てふためく兵に抹殺の指示を出し、ウィリアムとホープは一人の兵を連れて部屋へと戻っていく。
この場にいるのは八人。残弾数は九。
一発の銃弾がディランに向けて放たれるが、それを腕で弾く。
彼のスーツの腕部には形状記憶の魔金属が取り付けられている。
それは、スーツ内部の動きには滑らかに対応するが、外部からの衝撃には無類の硬度を誇っていた。
ディランは右の廊下へと走り、大柄な兵の股下を抜ける。
同時に、銃弾に串刺しにされた男が崩れ落ちた。七人と八発。
狙いを定めようとする兵たちを躱したディランは、食堂の扉を開け、その先にある厨房へと踏み込んだ。
自分を見て叫び声を上げる料理人を素早く気絶させると、三人の兵が食堂の扉を開けた。
ゆっくりと、互いの死角をカバーするように近づく男たちは、厨房の内部を確認するが、闖入者の姿はない。
バン、と音が鳴り、兵の一人が滑ったように転ぶ。足を撃たれた。頭が後ろに跳ねる。
一人がテーブルの上に飛び乗るが、そこには虚空だけがあった。
自分と共に来た仲間が死んだと、破裂音に背筋が凍りつく。
ディランはもう一人の兵が手に持っていた魔導銃を流れるように奪い取り、ゼロ距離で顎を二発撃ち抜くと、それを捨てて自らの武器を抜き取り、テーブルの上の食材を料理した。四人と五発。
食堂の扉を開けると、ディラン目掛けてナイフが繰り出される。
その手首に上から衝撃を与えることで自由落下を始めたナイフは、しゃがんだ暗殺者によって命を得たかのように動き始め、元の持ち主の身体を切り裂いた。
すでに事切れた男を盾にすると、ぼすっと銃弾が肉に捩じ込まれた。
ディランは同じように銃弾を発射するが、それは盾を貫通するのみならず、こちらに攻撃をしてきた男と、その後ろで武器を構えている男、二人の心臓を貫通した。一人と四発。
「おっと」
最後の一人は、先ほどの銃弾の線上にいたようだった。
四発の弾丸が残った。
(これで後は、兵が一人とウィリアム、ホープの計三人)
残弾数の確認をしながら今後の動きを思考するディランの耳に、足音が聞こえる。
「……まだ、君がいたね」
顔を上げると、上階からこちらを見下ろしている男――腕鎧のアレクセイが立ち塞がっていた。
・
「私の故郷に、こんなお伽話がある」
アレクセイは階段をゆっくりと降りながら、この時間を惜しむように口を開いた。
「ある村を寒波が襲った。村の人々は飢えと寒さに身体も動かず、蝋燭の火が消えたことにすら気付かない。そんな時、一人の若者が、家の一つ一つを回っていって、蝋燭に火をつけた。自分の持っていた毛布をかけてやった。彼自身、着るものすら布切れと変わらないというのに」
「それで、村人と若者はどうなったんだ?」
「村人は助かったさ。若者は低体温で死んだ」
二人は大広間で向かい合った。
「……この話には続きがある。二日後の朝、ようやく村人たちが自分の力で家の扉を開けられるようになった時、信じ難いものを目にしたんだ」
「…………」
「陽の光を浴びる若者の姿があった」
「みんなは喜んだ?」
「もちろん。ただ、ここからが重要だった」
銀髪の男の腕鎧が、彼の動きに呼応するように音を出す。
「村人は一人、また一人と病で死んでいった。若者はずっと生きていたんじゃない、蘇ったんだ。そして、死に触れたことで彼の身体からはこの世ならざる瘴気が発されていた」
「悲しい話だ」
「人間は蘇ってはいけないんだよ。再び触れ合おうとしても、災いが待っている」
アレクセイは「つまり――」と、自重気味な笑みを浮かべた。
「――強引な理由づけだ」
二人の男が、完全に同じタイミングで前に出た。
接敵に合わせてカウンターのように互いの顔面を狙った拳が放たれる。
相打ちの未来。しかし、外側に位置していたアレクセイは腕鎧の肘から魔力炎を放出し、いち早くディランを捉えようとする。
それよりも早く判断を下したディランは、頭を下げることで紙一重で躱し、空いている手で腰の魔導銃を手にすると、アレクセイの顎を狙って引き金を引いた。
銀髪が数本、はらりと舞う。
アレクセイは鎧から得られる推進力を利用して素早く回し蹴りを放ち、ディランはたまらず吹き飛ばされた。
「今のを防いだか」
ディランは間一髪で手のひらを身体と足の間に滑り込ませていた。
「流石は、伝説の暗殺者だな」
「それは俺を恐れる『誰か』が勝手に言ってるだけだ、よ」
言葉尻に合わせて弾丸を放ったが、アレクセイは腕鎧で弾丸の軌道を逸らした。
ディランは銃を構えたままだったが、それを腰に戻す。
「聞き間違えでなければ、残弾はあるようだが」
「今のを防ぐようじゃ、普通に戦った方が早そうだからね。それに、残りはまだ使い道がある」
アレクセイとガレクの間には力の差はほとんどなかったが、ガレクが生身なのに対して、アレクセイは腕を破壊される心配はない。
それに、戦いにおける慎重さ、どれだけ被害を受けないかという面では、二人の考え方は大きく異なっていた。
殺すための戦いであればガレクが圧倒的に優っているだろうが、堅実な戦いはアレクセイに分がある。
しかし、今回ばかりは少し、違った。
ディランの目には、だんだんとアレクセイに焦りがあるように感じられたのだ。
拳の角度、足の運び、選択肢。以前に手を合わせた時とは、別人のようだ。
「何が心配なんだ?」
幾度となく拳を交え、二人の距離が開いた時、だしぬけにディランが問いかけた。
「そこまでウィリアムたちに肩入れする意味がわからない。他の部下と違って、君からは忠誠心を感じない」
「それを言って何になる」
「戦わなくて済むかもしれない」
その言葉に、アレクセイの纏っている空気が重く張り詰める。
「何かを守るために戦うのか」
「……そうだ。二度と失わないために、手段は選ばない。仕えるに値しない主人であったとしても」
「原因に立ち向かおうとはしないのか?」
「したさ!」
寡黙で機械仕掛けのような表情を貫いていたアレクセイが、初めて激しく感情を表す。蒼い瞳が揺れている。
「果てのない、全てが敵に見える戦いの果てに待っているのが絶望だった。それを繰り返さないように、そのための行動だ!」
獅子のように吠えるアレクセイを見て、ディランの顔が曇る。
「……そうか。でも……なおさらぼくは、退くわけにはいかなくなった。血の繋がりじゃない、家族なんだ」
勝負は一瞬だった。
冷静さを欠いた獣の一撃は届かなかった。
その機動力の全てを読み切った男の、腰を落とした正拳突きが腹に突き刺さり、壁面を破壊して止まる。
「……ま、待て」
土埃から、足のおぼつかないアレクセイの姿が現れる。
「もう止めたほうが良い。これ以上は命が――」
「そうじゃない。……本当に、二人を殺すのか?」
「あぁ」
沈黙。何故の沈黙か、ディランは理解している。
「誓えるか?」
ディランが頷くと、今度こそアレクセイは腰を下ろした。
「そうだ、ぼくからも一つ頼みがあるんだ」
「……なんだ?」
「多分、もうすぐ僕の弟子というか、みんなに愛されて育った冒険者が来る。彼が部屋に来ないよう、足止めをしてもらえるかな」
「この、満身創痍の私に?」
「うん。彼は根性がある、将来が楽しみな子だよ。一度戦ってみるといい。見たことがないけど、奥の手っていうのもあるらしい」
何も言わず、視線だけをくれるアレクセイから視線を外し、二階への階段を登り始めたディランは、思い出したように足を止めた。
「――そうそう。僕の故郷にも同じようなお伽話があってね。若者は蘇るんだけど、ハッピーエンドだったな。若者がみんなを導くんだ。そうして次の冬を乗り越える」
それに、とディランは続ける。
「ぼくは一度も死んじゃいない」
ディランの足音が遠ざかる。
アレクセイは静かに笑った。久方ぶりの安息だった。
・
下階で何かが激突する音が聞こえて以降、屋敷を静寂が支配していた。そして、ウィリアムとホープがいる部屋まで伝播する。
「お、終わったのか……?」
「アレクセイが勝ったんだとすると、すぐに登ってこないのはおかしい。それだけダメージを受けた可能性もあるけど――」
残っているのはウィリアムとホープ、そして兵士が一人だけ。
こちらの様子を不安そうにうかがう兵に対して、ウィリアムは顎をしゃくる。
「お前は、扉を開けたやつをその槍で刺し殺せ。私も魔導銃で援護する」
「で、ですが……もしアレクセイ殿だった場合は――」
「構わん! どっちみち殺すしか、私たちが確実に助かる方法はない!」
「――父さん、静かに」
息子の言葉に従うと、床が軋む音が聞こえた。
それは一歩一歩、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
普段であれば上品に感じられる、歳を重ねた素材の奏でる音色は、今ばかりは恐怖を段階的に上昇させていた。
身体を蝕む病のように忍び寄るそれは、しかし確かな足取りで。
隣の部屋を通過したあたりだろうか。ぴたりと足音が止んだ。
「――――?」
ウィリアムは「誰か」が目の前に来た瞬間、魔導銃をぶち込んでやろうと思っていた。
威力は心許ないが、木製の扉を貫通することは容易だし、殺さなくとも出血はさせられる。
そうすれば、自らのたった一枚の手札――魔導銃よりさらに頼りない兵でも、もしかしたら勝てるかもしれない。
そう考えていたのに、足音が溶けるように聞こえなくなってしまった。
これでは相手がどこにいるのかわからず、当てずっぽうに撃つ選択肢が脳裏をよぎるも、外してしまえば一貫の終わり。
二度の奇襲は叶わない。今の自分たちは袋のねずみだった。
ホープとアイコンタクトを取り、どのように動くべきか考えていたウィリアムが、少しみじろぎした。
世代を超えて外道の業を支えてきた、大ぶりな木製の椅子が、小さな悲鳴をあげた。
死に包まれた廊下から銃声が響き、呻き声がする。
声がしたのは部屋からだった。
「――あっ、あぁ……」
ウィリアムが銃を持っていた右手の人差し指が、引き金を引くのに必要な指が正確に落とされている。
焼かれるような痛みに無意識の涙が出てきた。
ウィリアムはようやく、自分と相手の思考が同じだったことに気付く。
否、同じではない。相手は――撃ってきたことでディランと確定した――こちらに位置を悟られないよう、しかし存在を感じさせることで心理的な圧迫感をよこし、少しの物音から体勢を予測して寸分違わぬ銃撃をしてみせた。
神業という他ない。少なくとも、ウィリアムが生きてきた中では、そして自分の部下の中で同じ芸当ができる人間はいない。
これが伝説の暗殺者か――そう思いかけて、やめる。
既に答えは出ていると認めたくない。自らの判断ミスで窮地に追い込まれているのだと、貴族としてのプライドが許さない。
「…………さ………………リ……さま」
動悸が止まらない。
「――ウィリアム様!」
はっと顔を上げたウィリアムだったが、その頃には恐怖が広がりきっていた。
ホープは石像のように動けなくなっていたし、槍を持つ兵は気が狂ったかのような蛮勇を得て、扉を開けて出ていった。
再び音が消えた。兵の叫び声はどこにいったのか。
扉が開いて、兵士が戻ってきた。
「ぶ、無事だったのか。父さん、こいつがあの男を――」
安堵から会話の機能を取り戻したホープが父親へ顔を向けようとした時、兵士が力なく倒れた。
部屋の入り口には死神が立っていた。