9 リャナンシーの恋人
「は、はぁ、はぁ……すまない、そこの君……」
「え?」
早朝、薄い霧が晴れ出した頃。
薪を割ろうと、富義が腕に力を入れて斧を振り上げた瞬間の事だ。
整備などされていないような野草が生い茂った道の隙間から草木をかき分けて這い出る人影があった。
こんな森の中から顔を出すようには見えない、端正な顔つきの青年は、急いでやって来たのか、乱れた呼吸を整えると、流れる汗も拭かぬままに富義に手を差し出した。
その手には何か握られているようであるが、喉が張り付くのか、何度も喉仏が動くのを見届けた後で「これを」と言った。
ころりと手のひらに落とされたのは、ゴールドに輝く小さなリングだった。
「え? ゆ、指輪?」
「? 違いますか……? 困ったな」
戸惑ったような表情を浮かべた青年は、腕で額の汗を拭った。よほど急いで来たのだろう。
「合っていますとも。お客人」
「……お爺さん」
グ、と青年が息を呑むのがわかった。
そうか。もしかしたら彼は、お爺さんが人間ではないことに気がついたのかもしれない。もしくは、わかっていて会いにきたのか。
こわばった顔からもどこか緊張が見てとれた。
「富義、彼を中へ」
「はい、あの、中へお入りください、ええっと……」
「あ、キッドです……あの……あの人はなんと?」
「え?」
キッドと名乗った青年は、訝しげにコソリと小さな声でそう言った。どうやら、お爺さんが話している言葉がわからないようだった。
そうだった。
そういえば、お爺さんが妖精と人は言葉を交わせないと言っていた。それができる富義のことが不思議だと。
その事に気がついていたから富義にお爺さんは「彼を中へ」と案内するように、と言ったのだ。
どうぞと中へ招き入れると、キッドは忙しなく周囲を見回した後、所在なさげにおずおずと中へ入ってきた。益荒男ではなく、しなやかな体つきをしている。それを痩せていると表現する事もできるが、ただただ筋肉がついていない、そんな感じだった。背丈の高い、ヒョロリとした男性で、ほんの少し、油の匂いが鼻を過ぎてゆく。
よくよく見てみれば、服の袖からチラリと見える手には赤や緑の色がこべり付いていた。
三人が、暖炉の前のソファに座った時、キッドが恐る恐る口を開いた。
「……あの、実は……このリングの持ち主……いつも家から見ていたんだ、美しい女性の姿を」
「美しい、女性ですか?」
「そう、それはそれは、すごく美しいんだ……薄紅色の淡いコスモスの花のような髪でいつも決まった場所に現れる……俺は、その時間になるといつも窓から彼女を見つめて、彼女を姿を描いていました」
そう言って、キッドは懐から小さなハガキほどのサイズの紙を取り出した。
そこには草むらの中でこちらを振り返り微かに微笑んでいる女性が描かれていた。
「すごい……写真みたいです」
「写真?」
富義がそういうと、キッドは訝しげな表情を浮かべた。
「はて、写真とは聞いたことがないなぁ」
キッドもお爺さんも首を傾げている。
どうやらこの世界には写真は無いようだった。
キッドの描いたという絵に視線を戻したが、やはりそれは写真と見間違うほどの出来栄えで、今にも絵の中の人がこちらに声をかけてきそうなほどだった。
美しい、風と戯れる女性。
それを愛おしそうに眺め、大事そうに懐にしまったキッドは、誰が見てもその絵の女性を大事にしているのだということがわかる。
「……これは……リャナンシーだね……美しい妖精だよ」
「妖精……」
お爺さんの言葉に、少し納得した。
あまりにも美しい女性だったから。
それをキッドに伝えれば、キッドも同じだったようで、一人頷くのが見えた。
「そうですか、やっぱり……アレほど美しい女性は会ったことがなかったから……実は彼女とは話をしたことは無くて……目が合うだけの関係、そう……彼女が草むらの中で風と踊る姿を俺がずっと絵に描くだけの、ひっそりとした関係だったんだ」
「そう、なんですね……」
妖精や精霊と人は言葉が通じない。
それは今だってそうで、キッドはお爺さんの言葉を理解できない。
もしかしたら、この美しいリャナンシーが彼と話さなかったのは、言葉が、思いが通じない事をよく理解していたからかもしれない。
「じゃあ、どうして指輪を?」
そう富義が聞くと、キッドはぴくりと肩を揺らした。
リャナンシーはどうして、彼に魂の輪廻のための指輪を渡したのだろうか。
「それは……」
「何か、あったんですか?」
キッドがコクリと頷いた。その顔は青ざめている。当たり前の話だ。火葬場とは、そういうことだ。
「いつもの時間に彼女は居なくて、少し離れた場所で倒れていた」
「倒れて……?」
「は、腹には……ナイフが」
「……それは」
「体は崩れていた……駆け寄れば、指輪だけを渡されて……それでここに。この場所の話は御伽噺を知る者達には有名だから……」
「そう、ですか……」
「腹のナイフも、指輪も、何故俺に渡されたのかは、わからないが、何か彼女が伝えたいことがあったのかもと」
「富義……彼は何かを求めてここへきたのかい?」
二人の話す様子を静かに見ていたお爺さんは、ゆっくりと富義に問うた。
「……はい。リャナンシーが何か残したんじゃないかって……」
「……ここは火葬場。ただ輪廻の門を開くのみ。道標のための場所だ……期待には、きっと答えられない。妖精と人とは丸きり違うだろう?」
「そう……ですね」
人間は、焼けば骨が。
精霊や妖精はリングが。
それを天に返す事は、きっと何も残らないそういう事なんだろうか。
でも何で、リャナンシーが彼に?
自分と同じ妖精ではなく、何故、人間に渡したのだろうか。
そこにはきっと何か、何か残すものがあったのかもしれない。
お爺さんの言葉が、聞こえてなくて良かったと思う。
彼の気持ちも、リャナンシーの気持ちも、全てが何だか虚しく、そこにはただ「そういうもの」という寂しさだけがあるように感じた。
お爺さんの優しげな瞳が、富義をじっと見つめる。しばし考えたあと、重々しげに口を開いた。
「富義、ここは輪廻の道標だ……リングを輪廻に戻すための場所……それ以上でもそれ以下でもない。君は……何か言いたい事があるんだね?」
「……はい……僕の世界では、とても重要な事で、見送って、お別れをするんです」
「別れを?しかしまた魂は巡る」
「……人間は、そこまで待てないですよ」
「……ふむ」
「魂は同じでも、二度と同じ人には会えないから、ちゃんと別れるんです。亡くなった人が、迷ってしまわないように、残ってしまわないように」
「……そうか、人間とは、忙しいな……しかし羨ましくもある……」
ほんの少し、羨ましそうな声色と、諦めの色を宿した言葉。富義はそれを黙って頷いた。
「……キッドさん、お別れをしますか?」
キッドさんを見れば、少し寂しげで、悲しげな表情ながらも、富義に強く頷き返した。
「……はい!」
◇
この「魂の火葬場」と教えて貰った場所は、小さな滝と小川、そしてお爺さんの木の家が建つ場所に並ぶようにある。
森を抜けて、突然ポカンと開けた場所が現れる。
そこに大きな扉のついた洞窟がある。そこが魂の火葬場、名前を「魂の火葬場」とお爺さんは言った。
「すまんが、頼めるかい? 富義」
「あ、はい」
扉を指差したお爺さんの指示に従って、富義は緊張した面持ちでマンホールのような重く大きな扉を引っ張り開けた。
中に入ると、巨大な空洞の中心に白いレンガで作られた大きなドーム型の石釜がどっしりと構えていた。その不思議な光景に、思わず富義は息を呑んだ。背後に控えていたキッドも同じようにその奇怪にも映る不思議さにごくりと息を飲み込んだ。
石窯についた小さな両開きの扉越しに中からパチリパチリと火が跳ねるような音がしている。
燃えているのか。
それにしては全く煙も出ていないし、暑くもない。それに煙突のようなものも無かったはずだ。
火葬場と名前のついた場所には似つかわしくないように思える場所だった。
「ここは妖精や精霊たちのための輪廻の道標……では始めようか」
そういうと、お爺さんは石窯についた両開きの扉を丁寧に開いた。
「わっ! 火が、動いている……?」
「そうとも、特別な火だ」
その扉の向こうには、青色に輝く炎が、まるで命を持つようにうねうねと石窯の中を泳いでいる様子が見えた。火が動くたびに、パチンパチンと光を宿した火の粉が散り、小さな花火が打ち上がったように輝いている。
指輪を、そっとその中に入れようと恐る恐る石窯の中に手を入れると、不思議と熱さを感じない。パチパチと燃え盛る火の中だというのに、熱さも、冷たさも何も感じない。ただ風が手を通り抜ける感覚が時たまある、それだけなのだ。
「あれ……この火……熱く、ない……??」
「ほっほ、そうだ。しかし長く手を入れてはいかん。さぁ、初めての仕事だよ。指輪を火の中へ置いて」
「はい」
「おい、大丈夫なのかい?火が……」
キッドが信じられないものを見るように、富義の様子を窺っていたが、ついに我慢しきれずに口を挟んでしまった。心配そうな声に、富義は心配させまいと「大丈夫です」とにこりと微笑んで返した。
パチンパチンと弾け、うねる火の中に指をそっと置く。そしてゆっくりと手を合わせた。
その仕草に、キッドが首を捻る。奇妙な動作に見えるのだろうか。ほんの少し期待に満ちた瞳が、富義を見た。富義はその様子をチラリと見て、申し訳なく思った。
残念ながら、これは、何かを引き起こすためのおまじないでもなければ、術か何かでもない。ただの祈りだ。
リャナンシーが、キッドさんに見守られて、うまく輪廻の扉を叩く事ができますように、と。
その時、指輪がバチバチと火に包まれ、大きな火花を散らしながら火の渦に飲み込まれた。まるで火の大蛇にパクリと飲まれたように、あっという間に火のうねりに飲み込まれてゆく。
「さて、これで終わりだ」
少しの静寂の後、お爺さんの声が響く。
これで……。
あっけない終わり。
ほんの少し肩を落としたキッドの姿に、きっとお爺さんの言葉は分からずとも、あっという間の別れに何もなかった事を察したのだろう。その表情は明るくはない。
———ああ、今日も来てくれたのね
「え?」
ブワリ、と背後から何かが富義を覆い、そして囁く。石窯の中で揺らめいていた小さな花火が、パチンと視界の端で弾けた。
何が起こったのかと振り向けば、そこにはすぐ目の前に写真で見たリャナンシーの顔があった。