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8 魔女のよく効く薬


「ほっほ、薬を届けに来て倒れるとはなんとも面白い事だ」

「ふふふ、ほんとよね。ありがとう、うまく血は止まったわ。貴方もありがとうトミー」

「いえ……」


 魔女と名乗ったマジュリーは、富義に抱きついたまま、突然血をぶちまけた。吐血したのだ。なんて事はない、いつもの事だと言ったが、富義はそれを信じ切る事はできなかった。

 人の口から血が噴き出す事がどうしても“普通”とは思えない。目の前で散らばっていく赤い塊は日常的に見るものなんかではない。少なくとも、普通のサラリーマンをしていてそんな体験はなかなか訪れない。

 口から心臓が、もしくは心臓に近い何か内臓が飛び出すのではないかと思うほどの動悸を抱えて、家の中へ駆け込み、お爺さんに助けを求めれば「いつもの事だよ」と言われてなんとも言えぬ不安感だけが残った。

 穏やかに「ほっほ」と笑って、マジュリーではなく富義の頬の汚れを拭うものだから、こんなに慌てているの自分の方がおかしいのでは、と思えてくる。いやいや。そんなことはないはずだ。


 人間が血を吐き出せば、それは異常な事態であると思っていたが、こうも普通という言葉を持ち出されるとそれを疑うのも失礼なのかと思い始めた。

 ここは自分の知っている世界とはやや違う様なのだから。


 青い顔は元からだっただろうか。血が溢れる頬は、血の気はない。暴力的な色の差にそう見えているだけだろうか。わからない。力をなくした小さな体を、お爺さんに断りを入れてソファに寝かせてやる。

 濡れたタオルで顔を拭き取れば、くすぐったそうにマジュリーはカラカラと笑ってお礼を言った。


「ふふ、良いものね。心配されるなんていったい何年ぶりかしら!」

「……誰だって心配すると思いますけど」


「……そうよね」


 くたりと寝そべった体をゆっくりと起こし、にこりと微笑んだが、それはどこか悲しげな笑顔だった。



◇◇



 ずしりと体が重い。

 血液で汚れたシャツを水に浸せば、あっという間に水が濁っていく。ポタポタと垂れる水を絞り切り、暖炉の前で乾かす事にした。

 その間の服はお爺さんから借りる事になった。

 お爺さんは小さな体だが、富義用にと渡された服は丈は少し短いがお爺さんの服よりも少しばかり大きく、富義の薄い腹を隠すくらいにはちょうど良い大きさだ。着替え終わるとお爺さんは少しだけ微笑むと、早く乾くようにとそばに積み上げられた薪を暖炉に放り込んでいく。その横顔は少しばかり嬉しそうだ。その理由は、わからないけれど。


 着替えると、どっと疲れが押し寄せてきて、なんだか立っているのも草臥れてしまいそうだった。クタクタとはこの事だろう。ゆったりとした時間で忘れかけていた慢性的な疲労感が、再び襲いかかってくる気配に思わず息を吸い込んだ。


 魔女のマジュリーが残していった薬は、お爺さんのものだった。


 彼女こそ薬が必要なのではないかと思ったが、それで良いのだとお爺さんは言った。何が良いのだろうか。その言葉の意味はわからなかったが、少し気になる言い方だった。それで良いだなんて、随分と後ろ向きな言葉だと感じた。


 しかしすぐに富義は首を振って考え直すことにした。

 自分だって、人のことを言えるほど前向きでなければ自愛するタイプでもない事をふと思い出したからだ。


 つい先ほど別れ際に「トミーは随分と我慢しすぎね。なんだか、それでは周りが傷つくわ、気をつけなさいね」と言われたところだ。


 周りを傷つける、そうだろうか。自分が我慢すればそれだけ誰かに幸運が回ってくるのではないのだろうか。


 

「薪をありがとう、富義」

「いえ、明日はもう少しだけ上手くできると思います」

「ああ、毎日少しずつ慣れるといい……」

「はい」


 斧を振るという体験は、今までした事がなかった。擦り切れたはずの手のひらの傷はもうなくなっている。酷い辱めを受けたような気になっていたが、人の傷を癒せるのは素晴らしい力だ。二、三度手を握っては開いていると、お爺さんが物珍しそうにパチパチと瞬きをした。


「少し休憩をしよう」そう言って富義に一等ふかふかなソファ席を薦め、座るのを見届けるとゆったりとした動作で、奥の部屋、台所に消えたお爺さんはトレーに茶器を乗せて戻ってきた。そこには先ほどのマジュリーが残していった薬の袋も乗っている。


「その薬は?」

「知りたいかね? ん?」

「あ、いや」

 ふさふさの眉毛に隠れた目が、ぎょろんとこちらを覗きみると強い眼光が富義を射抜く。優しげな言葉だというのに、ギクリとする物言いをするのでちょっとした緊張が襲いかかってくる。


「ふむ、まぁ、これは君の理解を越えるものかもしれんな……延命の薬だよ」


「延命……?寿命を延ばすって事ですか?」

「そうだよ。無理矢理に伸ばすために薄く伸ばして、薄めているんだよ」

「そんなの、できるんですか?」

「ああ、ああ。できるとも。そんなに良いものではないがね……記憶も薄く伸ばされて溶けてもう透明に近い。人も歳をとると丸くなるというだろう? そのようなものだ、少しずつ視力、味覚、聴覚、感覚を引っ張り伸ばして薄めているんだよ」


 引っ張り延ばす。

 脳内で再生された、


「命を延ばすだけではないんですね」

「万能はないよ、富義」


 袋から一粒、黒いビー玉ほどの大きさの玉を取り出した。薬というともう少し小さいものかと思っていたので、その大きさにびっくりしているとお爺さんは「ほっほ」と笑って口に放り込んだ。

 

 ごくんと飲み込む仕草に、こちらまで喉が鳴った。大きな塊を飲み込んで大丈夫なものなのか。そんなことが気にかかった。いつでも、親戚にはよく怒られていた。


———想像力が足らない。理解が足らない。


 会社でも同じ事を良く言われた。その言葉は頭にしがみついて離れることはない。

 だからなのか、その薬は大丈夫なのか余計に気になった。自分の知らないものは知っておかなくてはならないから。知らない事は罪だ。

 

 そんな思い、ほんの少しの興味が見透かされていたのか、お爺さんの目が富義を制した。


「やめときなさい」

「あ…い、いや、すみませ……はい」


 ジロジロと見すぎていたか。

 興味本位での覗きは良くないとわかりつつ富義はバツの悪そうな顔をした。失礼な事だとは重々承知だった。


「富義、君はどうにも……ふむ、優しすぎる。それはなかなかどうしたものか。わしには透けて見える」

「ぇ……優しい……?」

「そうとも。どういうことかわからんという顔だね……もう少し他人に鈍感でも構わんよ」


「優しくなんか……僕は鈍感ですよ……だからすぐ誰かに迷惑をかけるんです」


「ほっほ、そうかそうか」


「僕は、もっとちゃんとしなくちゃいけなくて、本当は生きていちゃいけない、んです。もっとちゃんと誰かの役に立たないと。そうじゃなくちゃ……」


 いまだジクジクと胸の内を蝕むのは、親戚や、同僚や、先生や、先輩の視線。それはいつだって富義に向けられている。

 


「ああ、そんな言葉を使ってはいけない。言葉は呪いだよ。それは呪いだ」


「のろ……い?」


「そうだ。誰かからの呪いではない。そんな単純なものでもない。自分自身の呪いだ。それはとんでもなく強力だよ、君は呪われている、呪いは絡んだら解けるまでとても時間がかかる。」


 そもそも呪いなんて物騒な言葉、全く耳に覚えがない。

 そんなもの、考えたこともなかった。

 しかもそれが自分自身に呪いを、だなんて余計に。


「優しいとそうなる。君が優しい証拠だが、それは辛いよ、富義」


 優しい目が、富義をゆっくりと、探るように見つめた。普段なら、可哀想だとか、哀れな子だと見られるのが煩わしかった。その度に、「お前が居なければ」と見えない影が囁くから、好きになれなかった。


 でも何故だか、寄り添うようなその瞳は、自分じゃない誰かを見ているような気がした。






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