3異の者
馬が駆けるような音が遠くの方からかすかに聞こえてきた。
富義はズキズキと疼く頭の痛みを感じながら、浮上し始めた意識の中でその音を聞いていた。カツカツカツカツ、軽快なリズムはテレビでチラリと見た競馬のCMと全く同じだった。
徐々に近づいてくる、蹄の音が、すぐ近くで草や土を蹴り上げて止まる音がした。
「大丈夫か?」
太く低い男性の声が聞こえた。
その落ち着いた声に、重たい瞼を持ち上げれば、目の前には長髪の男性が富義を覗き込んでいた。目が霞んで、覗き込む人が何重にも見える。グラグラ揺れる視界が治るまで、腕で視界を遮れば、ふつふつと迫り上がっていた吐き気が多少マシになった。
「……えっと、ああ、はい」
「何故こんな場所に? 名はなんという?」
「と、とみよし……です。えと、仕事帰りに……階段を踏み外して……ぁ、いっ」
「頭が痛むのか?」
「いたた、えと」
頭の痛みを感じて額を手で押さえた。幸い血は出ていなかったようで、手には血は付着していなかった。
ぽこりと緩やかで小さな山がせり出しているのを確認する。
大層な怪我ではなく、タンコブで済んだみたいだ。
「ああ、大丈夫で……」
お礼を言おうと、上半身を起こして声のした方へ向き直り、あらためて声をかけてくれた男性を見た。
「えっ」
思わず声が出た。
富義は、自身にかけられた声が低く太かっために、初老の男性を想像して声の主を見たのだ。
しかし、それは見事に裏切られた。
暗闇の中、心配そうに富義を覗き込む男性は、青白く輝く肌と彫りの深い顔、西洋の俳優を思い起こさせる見目の美しさ、そして自分と同じくらいの若さだったのだ。
驚きで目が飛び出しそうになった。
さらに言うならば、視線を男性の顔から下へずらすと、そこには上半身一糸纏わぬ、見事な筋肉のくっついた裸体。
その見た目の衝撃で声はひっくり返りカスカスの空気のような声が出た。
立ち上がらなければ。お礼を言って早く帰って眠らなければ。疲れている。相当に。
そう思い、床に手をついた。
起き上がるために、腕で体を押し上げようとしたからだ。すると、ずるりと不快な感覚が富義を襲った。ネバネバとしたものが手のひらにくっついたのだ。
恐る恐る手のひらを覗き込むと、そこにはぬかるんだ泥がベッタリと付いていた。
持ち上げた手のひらからぼたりと泥が落ちる。
土と草の間に落ちてまた地面に吸収されていく泥。その行く末を見届けて再度富義は顔を上げた。
「……ええ?」
そこには驚くような光景が広がっていた。
ビルほどもある木々がいくつも佇んでおり、空は遠く、きらりと光る星の川は赤や紫に光っていて、まるで宝石が散りばめられたようにさえ思えた。
体を覆い隠すほどの長い草から身を乗り出して辺りを見回せば、ぼんやり青く発光している花がポツポツと生い茂った草の中に点在していて、幻想的な風景がそこにあった。目を擦ってもなお、そこにあり続ける。夢では無さそうだ。
「つ、疲れてるんだ……そうだ、それで幻覚をっ……」
「! おい、しっかり……」
———グルル、ぎゅるるる
体の力が抜け落ちてまた地面に逆戻りしそうになった瞬間、腹から盛大に音が鳴った。それはもう、ホラ貝のように盛大に響き渡ったものだから、富義は恥ずかしさに身悶えた。
心配して富義を覗き込んだ長髪の男性も「腹が減ったか」と微笑んだ。それがまた恥ずかしさを増長させた。
「君からは不思議と、私の知り合いと同じ匂いがする……夜も深い……そうだ、腹が減って動けぬのならば私の腰に乗るといい」
「え? う、うわぁっ」
富義は「腰に乗る」と言う言葉に引っ掛かりを覚えたが、背に乗るを言い違えたのかと思った。
しかしその言葉の謎よりも成人の自分の体がふわりと浮き上がった事の方が大事件であった。
顔に影がかかったかと思うと、突如体が浮き上がり、思わず悲鳴のような声をあげてしまった。両脇と足に回された屈強な腕。地面がぐんと遠くなっていく。軽々と持ち上げられた体。近くなる男の顔。密着した体。
これはいわゆるお姫様抱っこと言うやつでは!?
驚いて目を丸めているとこちらの様子に気がついた男は「私の名はケイノス好きに呼べ」と言って頷いた。
それが名前であると頭に入るのに少々時間がかかったが、それよりもと頭が回る。
ひくつく頬は自分ではコントロールができない。仕事ではうまく扱えていた表情も、驚きが勝るとこうも言うことを聞かないものかと頭をよぎる。
何かしら声を出そうと試みて、チラリと何かが目に入った。遥か遠くになった床から順に視線を上げていく。
土を蹴り上げる蹄。筋肉がぎっしりと詰まった足が、いち、にい、さん、四本。そしてそれにつながる、馬のような胴体に、チラチラ足の隙間から見える細長い尻尾。胴体からにょきりと伸びるのは、富義を抱き上げた、長髪の男のたくましい上半身だった。
「……え?」
「ん?」
「ひぃ、えええ……ぁ……」
大声を出し損ねた喉は引くついてうまく空気が入っていかない。
驚きすぎると碌に声も上げることができないと言うのは本当だったようで、掠れた声ではまともな声は出ることはなかった。現代において、危険な目にあえば大きな声で助けを求めるよりも防犯ブザーという便利でいつでも大きな音を出すことのできる武器の大事さに気がついた瞬間だった。
空腹と驚愕と寝不足と衝撃で、暗くなっていく視界の中、富義はそんな事を考え、そして意識を手放した。
◇
突然ぐたりと力が抜け、白目を剥いた人間を抱き抱えて、ケンタウロス———半人半獣という種族であるケイノスは、このままこの人間を自分の寝ぐらに連れ帰るかどうかと思案したが、この人間は異界の匂いも、そうではない匂いもする。
1番近い匂いを持つ者のところへ連れて行くのが良いだろうと一人納得すると、人間をそろりと抱き抱えててゆっくりと歩くことに決めた。
丸めた紙屑のようにクシャクシャになった生き物は久方ぶりに見た。これは本当にクシャクシャという意味ではなく、疲れ切っていてそう見えているという意味だ。
もう半分ほど死んでいるのではないかと思うほどにこの人間のクタクタの体は、吹けば転げていきそうなほどひ弱に見える。
(また、やってしまったか……)
ケイノスは心の中で一つため息をつき、お節介を働く自分の悪癖を叱咤した。
それでもケイノスは性格上どうしても放っておくことができなかったのだ。迷う者、困っている者、手を差し伸べて欲しいものにすぐに手を出してしまう。
腕の中で気を失うこの人間も、服の隙間から見える腹の肉は薄く骨が浮いて見える。腹を鳴らすほどとは、命からがら、どこからか逃げてきた奴隷か何かか。
それにしては上等な服を与えられている。
人間の階級にはとんと疎いが、この状況下では特段必要な情報ではない事だろう。
ケイノスは一つ頷くと、冷たくなってきた空気にぶるりと身震いした。ふー、と息を吐き出せば白い息がうっすらと浮かび上がる。
(富義と言ったか……この人間が凍えてしまう前に連れて行かねば)
抱き抱えた人間が心地が悪くない程度に走る速度を早めた。
静かな森の中に、ケイノスの足が駆ける音と草木が足にぶつかりさわさわと音を残していくのが細く響き渡った。