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10リャナンシーの恋人2



「な」


 息が止まるかと思った。

 立ったまま夢でも見ているのかと思ったが、信じられないといった表情で立ちすくむお爺さんと、口を大きく開けて、顔を真っ赤にしたキッドの表情が見えると、その考えを改めた。


 これは現実に起こっている事なのだ。二人の表情がそう如実に語っていた。


「彼女だ……!なに……、なんて言ってるんだ?」


 滲む興奮を抑えきれないといったように、キッドは震える手で目の前に現れたリャナンシーへと手を伸ばす。ハクハクと唇が震えているのに、どこか表情は嬉しそうだ。


 幻覚かと富義は思ったけれども、キッドにはそうは見えていない。 


 まるで自分の描いた絵画の中、美しく彩り模った記憶の日々の中からリャナンシーが会いに舞い戻った様に映ったに違いない。


 転げてしまいそうにおぼつかない足取でリャナンシーの近くまで寄ると、柔らかな表情で風と遊ぶリャナンシーの髪に腕を伸ばした。しかし触れることはなく、なんの感触も手に伝わらぬまま、キッドの指先は空を切った。


 触れるはずだった髪は、髪と髪の間を縫うどころか、雲を掴むようにキッドの手がすり抜けるとまるで空気中に溶けるように光の泡となって弾けて消える。パチンパチンと小さな泡がさらに小さな粒となってあちこちに弾け飛ぶ。


「……? ……っ!」


 キッドが触ろうとした部分は、再度再生する様子もなく、美しいリャナンシーの姿にぽっかりと穴が空いてしまったのだ。


 触れられなかったショックなのか、美しいリャナンシーに触れると消えてしまう儚さに動揺しているのか。呆然としたような彼の表情から察するにもしかしたらその両方かもしれない。しきりに手のひらの感触を確かめてみるが、空気をつかむばかりで震える手のひらがさらに小刻みに震えるだけだ。



———今日も来てくれた!

———嬉しい! 嬉しいわ!

 

 くるくる舞うリャナンシーは歌うように嬉しそうに、それこそまるで恋でもしているかの様に富義の目には映った。

 あまりにも美しい光景、そしてどこからかほのかに香る花の香りに目を細めた。


 なんとも眩しい光景だった。

 きっととても嬉しいのだろう。

 本当に、本当に嬉しいのだろう。リャナンシーの瞳が光りキラキラとまるで宝石のように輝いている。



———ああ、そうなのね


 リャナンシーの舞う姿が、ぴたりと突然、止む。風が凪いで、音が、匂いが。全て失われていく。


「わっ」

 ブワリと、風が舞う。

 それに巻き込まれる様に、飲み込まれるように風に包まれたのはキッドやお爺さんではなく富義だった。

 この幻のようなリャナンシーは、どうやら人を選んでいる。そんな意志すら感じる風の動き。


 花が舞い、富義に覆い被さるようにリャナンシーがやってきて、パシャン、と音がなる。


 光の泡が床に転がって、半分以上身体を失ったリャナンシーがゆっくりと床へ向かって倒れて行く。

 光を失った瞳にキッドを写した。


「ああ、そんな……待って、待ってくれ」



 床に倒れたリャナンシーは、ぶつかった部分から順に水が弾けるような、ガラスが打ち付けられたような破裂音と共に光の泡になっていく。


 泡の粒をかき集めるようにキッドは懸命に腕を動かして光の粒を抱きしめたが、腕の隙間から光が弾け飛ぶと、パチンパチンと空気に溶けていってしまう。


 手を握りしめ、懸命にリャナンシーのカケラを追いかけたキッドの視線の先には富義がいた。

 リャナンシーの幻影とぶつかったそのままの姿で立ち尽くし、驚いたような表情で何もない空間を仰ぎ見ている姿がそこにある。

 キッドには富義が何をみているのか見当もつかない。


「富義……?」

 お爺さんが訝しげに富義に声をかける。

 ぴくりとも反応しない様子に一歩近づいた、その時。


 ぽたり、と。

 富義の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。


「リャナンシー、キッドさんのこと、……君に会いに来てたんだ……いつも。それで」


「そ、そうか! ああ、そうだったんだ……あ、え? ……それで?」


「今……見えたよ……このために来たんだ……リャナンシーは……」


「え?」


 小さな沈黙の後、震える声を抑えて富義はキッドの方を見た。


「男と、女が居て……男は女の人の目を盗んでリャナンシーに会いに来ていたみたいだ……」


 その言葉に何か心当たりがあるのか、キョロキョロと目が動くと、キッドはハッとした顔をした。そして「知っている」と呟いた。

「リャナンシーは、女が、男を取られると思って、それで……リャナンシーを殺そうと。リャナンシーは、女が君を犯人にしようとしているのに気がついて、ナイフが抜けないように、深く刺さるように女性を、抱きしめていたよ……」


 きっと、その細い体から抜いたナイフを家の前にでも置いておく算段だったのだろう。女性の力ではそう深くは刺さらない。だから、抜いてすぐに近くの家に置いておけば、心中したとでも思うだろう。

 そう考えたのだろうと富義は思う。


———どうか、どうか。彼が。


「それで、それで……」


 富義は、焼けるほど熱くなった喉に引き攣りながら、嗚咽を堪える。


———最後に彼に会いたいな。彼が人間を恨まないと良い、あの人が、責められないと良い。誰も、誰も……争いにならないといいな。


———ああ、よかった。消えちゃう前に会えた。もっとよく見たいなぁ、こんなに近くで見られて嬉しいな……また会いたいなぁ



「君に最後に会えて、すごく喜んでた……今も、すごく喜んでるよ」


 富義のその言葉に、キッドは息を呑んだ。

 ふわり、と花の香りがキッドの鼻をくすぐったからだ。


 その香りは、いつも彼女の周りで踊っていた花たち。その匂いに紛れて、視界の端っこに靡く髪が一瞬目を引いた。


 ゆっくりと、視線を横にやると、幸せそうに笑うリャナンシーの笑顔が、キッドを見て華やいだ。


 キッドとリャナンシー、二人の目があって、視線が絡み合う。

 それはたったの一瞬。

 リャナンシーは空気に溶けて消えていった。


 時間にして一秒足らずの出来事だったが、キッドにとっては長い長い夢のように思える時間だった。



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