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1 会社にて日常

数ある小説の中、足を運んでくださりありがとうございます。お付き合い頂けますと幸いです。



「おい、おいおいおいおい、嘘だろう!? やってくれたなお前!」


 会社に着いて1時間後、会社の上司に開口一番に放たれた言葉は、おはよう、や今日もよろしくといった挨拶の類ではなく、責め立てるような大声だった。

 

 訳がわからずに、目を白黒させていた富義(とみよし)は、困ったように「あ、あの」と声を出したが、目の前の上司———井間井和樹(いまいかずき)の憤怒した鼻息によってかき消されてしまった。


「お前……! 昨日俺のデスクに資料置いとけっつったよな!? 明日の昼までに必要な書類だぞ!?」


 井間井(いまい)の大きな声が、会社のフロアに響く。ワンフロアのそれほど大きくない部屋の端にまでその声が聞こえたのか、経理の女性が「またやってる」とため息混じりに呟いた。


 富義(とみよし)はそれが耳に入り、いよいよ恥ずかしくなって唇を強く噛んだ。


 昨日、その前の日、そしてさらに前の日と、そう良くもない記憶力を頼りに脳内を掘り起こしてみたが、どこにも資料の話は見当たらない。


 その事に富義(とみよし)はさらに自分が情けなく感じて仕方がなかった。きっと真っ赤になっているだろう顔は伏せて、なるべく井間井を刺激せぬようにと心がけた。


 そのおかげで、明日の朝までになんとかすれば良いと言われて思い切り肩を突き飛ばされ「本当に愚鈍なやつだな」なんて言葉も飛んできたが、富義は一つも怒りは湧かなかった。


 それよりも、そんなことよりも、どうやってその資料を作るかに頭が回っていた。ぐるぐる回り続ける頭で、今日のスケジュールと照らし合わせて時間を決めていく。自分のデスクのパソコンと向き合えば、もう10分も今日のスケジュールを押していた。



 これでは到底明日の朝には間に合わない。



 昼を抜いて、夜はビルが閉まるのが24時。そんな事を考えて、逆算していく。

 

 井間井に叱咤されている間、富義(とみよし)はか細い声で「すみません」と「はい」とだけしか口にしなかった。

 この会社に入社して2年目となるが、ずっとこの調子だ。

 

 社会人になったのは、18歳の頃。

 早く働けるようにと、就職先を斡旋してくれるような商業高校を選び、高校を卒業してすぐに会社に入った。そこはブラック企業と言えるほど厳しい場所ではないが、悲しい事に上司には恵まれなかった。


 富義(とみよし)自身は恵まれず不幸だなどとは思いはしなかったが、やはり、周囲から見れば不幸だと、不運だと言われただろう。


 実際、毎度毎度、言いがかりにも近い言葉で毎日怒られ続ければ、周囲の人間も富義を『できない人間』と評価していった。


 そんな空気感の中、富義にはもう、嬉しいだとか楽しいだとかそんな事を考える余裕はなかった。




◇◇◇





「はぁ、終わった、かな……」


 猫背気味の背中をぐぐぐ、と伸ばすとパキリと小気味良い音が鳴った。


 椅子に座って何時間こうしていただろうか。


 壁にかかった時計を見ようと富義は顔を上げると、部屋が真っ暗になっていて、目を凝らしても時計の針が上手く見えなかった。


 それに驚き周囲を見渡せば、誰も居ない。


 ぼんやりと自分のデスクの青白い明かりだけがついていた。


 画面内の印刷のボタンを押し、少し離れた場所から印刷機が動く音が響いた。体に悪そうな光を放つパソコンの中から、小さく表示される時間を見れば、もう24時も近い時間だった。

 

「あとは、印刷終わった資料を井間井さんの机に置いて、終電……間に合うかな……」


 しょぼつく目を擦ると、重たい瞼がさらに重くなった。明日は何時に家を出ようか。


 眠る時間はどれほどあるか。

 富義にはさほど趣味と呼べる物もない。読書も嫌いでは無いが、ふと現実に引き戻される瞬間は身震いするほどにうそ寒く感じるのだ。この世界にポツネンと一人取り残されてしまったような気持ちになるため、どうにもそれほど好きにはなれなかった。


 仕事をしている時の方が時間を忘れられるから好きだった。


 眠ることも、さほど好きでは無い。どうせ家に帰っても一人なのだから、それならば考える時間も無いほど忙しい会社の方が好きだ。



 考える時間があるのは怖いと富義は思った。

 ひどく悲しく、虚しく、忘れられない後悔ばかりがぐるぐる回って吐きそうになるのだ。

 目を閉じると、鮮明になる恐怖が酷く恐ろしく酷く虚しく心臓を冷やしていく。


 井間井の机に上にメモ書きと資料を置いて、会社を出る。階段とエレベーターがあるが、オフィスを出てほど近い階段で降りることにした。

 

 明日は、上司に教えてもらった事にお礼を言って、迷惑をかけてしまった事を謝ろう———そう決意して、階段を駆け降りる。


「は、え?」


 突然、足元に穴が空いてしまったような、宙に浮くような感覚がした。

 

 足元に目を向けようと視線を下げると、視界の端から黒いインクが流れ落ちるように目の前が真っ黒に染まる。


 眩暈か、立ちくらみか、そんなことが頭を過った。手すりを掴もうと富義は手を伸ばすが、何にも当たらない。

 かすりもしない。

 全然、体に力が入らず、崩れ落ちるようにして体は倒れていく。


(階段、結構高い……このまま倒れてしまったら痛いだろうな、また井間井さんに迷惑かけてしまう。本当に、僕は愚鈍だな……)




 ざぷん、こぽり。富義の瞼の裏で、波打つ音がこだました。




 

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