敬老
フレデリクが着替えさせた薄青のパジャマの右の袖は空っぽで、布団の下で平らに伸びている。
提督は静かに寝息を立てていて、目を覚ます気配はない。
「意識不明の重体って段階だね」
と、パトリオパッツィ。
提督を運んできたふたりの元テラリア人曰く、ひどく潮の速い海域があり、そこを浮かんでいるのを見つけたのだが、ここ数日、ずっと眠ったままだという。
テラリア人たちの手当は使える物資が乏しいなかでの完璧なもので、壊疽の類は起こしていない。
「怪我の影響で目を覚まさないわけじゃあないね」
診療所からやってきた毛むくじゃらのディネガがカバンに様々な医療用モニターを戻しながら言った。
「目覚めるタイミングを待っているようにも見えるし、あるいは、海軍の魔法、だっけ? あの魔法が負担を蓄積させた可能性もある」
「死ぬのか?」
ユウキがたずねると、ディネガはうなずいた。
「死ぬね。ついでに言うなら、わたしらも死ぬ。問題は死ぬまでに何匹の宇宙人を道連れにできるかだよ」
医療カバンには小型のサブマシンガンが入っていて弾倉には替えの弾倉がテープで固定してあった。
ユウキは椅子を引いて、ベッドのそば、提督の枕元に座った。
海軍の魔法に限りがある。
これまで考えたことがなかった。
だが、ありえない話ではない。
あれだけのことが何の代償もなしになしえるはずもない。
「AI」
なんですか、と、ヴィクトリアはユウキのすぐ右を浮かんでいる。
「何をすれば、もとの日々に戻ると思う?」
「もとの日々、ですか」
「こいつが馬鹿なことをして、おれたちが死にかけて、おれをカレイジャスと呼び続けて、鉄の塊を召喚して、あらゆるものに迷惑をかける。そんな日々だ」
「それは、……分かりませんね。もう、戻ってこないかもしれませんし。ユウキさん。どんなに楽しい時間にも終わりってあると思うんです」
「そう、だな……下らないことをきいた」
「下らなくなんてないです。楽しかった日々に戻ってきてもらいたいって思うことは普通なんです。大切なのはそれが戻らないと分かって、それからどうするかです」
「それから、か……」
「しかし、旦那さまのことです」
と、いつの間にか寝室に洗面器を持ってきたフレデリクが言う。
「ケロリと起き上がって、全ての災厄をいつもの海軍の魔法であっという間に解決してしまうかもしれませんよ」
フレデリクは小さなハサミを手にしていて、それでこの数日のあいだに伸びてしまった提督の髭を適度な長さに切りそろえ始める。
「もし、旦那さまが目を覚まされて、いまの状況を知られたら、旦那さまはこうおっしゃるでしょう。『見敵必戦だよ、カレイジャス。見敵必戦』」
「フレデリクさん、提督の声真似得意ですよね」
「いつもおそばに仕えていますからね」
フレデリクがにこりと微笑む。
ユウキは宙を見上げた。
「見敵必戦か……。おれの戦いはディネガを狩り、テラリアに戻って、データを提出し、また狩る繰り返しだった。こんなふうに世界の存亡がかかった戦いに参加するなんて、考えたこともなかった」
「いいじゃないですか。世界の存亡がかかった戦い。かっこいいですよ」
「それに勝利した暁にはニラ玉が待っています」
中佐がウェッジウッドの皿に乗ったニラ玉を器用に箸で食べながら言った。
「勝利した暁ってのは、勝利した後にやるもんだ」
「ニラ玉はいつ食べてもいいものです。それとも攻撃目標を指定してくれますか?」
「前にAIが涙は女の武器って言っていたが、攻撃目標もなんだな」
「いやですね、ユウキさん。それは中佐さん限定ですよ」
この数日、ディネガランドは臨戦態勢を整えている。
各居住区に対空砲、その他、アサルトライフルなどの火器を住人に配布し、海に投げた光に向かって発射し、命中率を上げるべく努力している。念力を使えるディネガは瞑想に一番合う音楽を聴きながら、精神を集中させているそうだ。
「……難しく考えてもしょうがない。とにかく体は戻ってきた。あとは……腹が空けば起きるだろ」
「ですね」
パトリオパッツィが、いいことを思いついた、と言った。
ユウキは絶対にいいことなんかじゃないだろうなと思いながら、言ってみろ、と会話の水を差し向ける。
「提督のために何匹か宇宙人を残しておいてあげよう。自分が目覚めて活躍の機会がないと知ったら、きっとがっかりする。お年寄りは大切にすべきだよ」
「こいつと宇宙人が戦うところを見たいっていうのは、あんたの勝手だが、その戦いは100%間違いなく戦艦が落ちてくる。やるなら、あんたの劇場でやれ」
「前言撤回。敵は根絶やしにしよう。提督も本調子じゃないかもしれないし。お年寄りは大切にすべきだよ」
戻らないと思ったものが戻ってきた。
誰もがそれを感じる。
そのとき、敵の襲来を知らせるサイレンが鳴った。




