難易度:地獄のごほうびに
端的に言えば地獄だった。
波の高さは十メートルを越えていて、その水の山を登ると、艦はそのまま波の底へと落っこちて、ドカン!と凄まじい音を立てる。
鋼鉄でできている艦からはミシミシと今にも裂けそうな音がしているが、それを不安がる暇はない。
横揺れと縦揺れのデタラメ・コンビネーションで乗員はピンボールの玉みたいにあちこち跳ねまわるからだ。
まだ朝の八時だが、空は灰色の分厚い雲に完全に閉ざされていて、それが強風に飛ばされるのだが、いくら飛ばされても太陽の光は差してこない。
三百隻の艦隊は波を真横から食らわないよう細心の注意を払って進む。
真横から食らうと、転覆までほんの三秒だ。
クイーン・エリザベスは目の前にあらわれた波に頭から突っ込んでいき、海水が前甲板にある固定していないものをザバーッと洗い流し、艦首はどんどん上がって、ついにほぼ垂直になって空を見上げた。かと思ったら、次の瞬間には大きく前に傾き、ブリッジから見えるのは波の谷底で、それを見たものは誰でもこの艦はこのまま海底へ一直線だと思うのだが、ギリギリで滑り込み、何とか命を拾う。
嵐の海とは九死に一生を得ることの連続だ。
さっきの波は大丈夫でも今度の波は大丈夫じゃないかもしれないとか、この波の向こうにある波のほうが大きく見えるとか、とにかくマイナス材料しかない。
さて、こうなると、スープの類は飲めない。
そこでパン、チーズを挟んだ魚のフライ、殻を剥いたゆで卵を食べるのだが、すでにユウキとリアムの席は空席で、キヅキもいない。パトリオパッツィはいた。
「きみは大丈夫なのかね?」
「こんなことでいちいち寝込んで入れないからね。これも音楽の一種だと思えば、どうってことはなオロロロロロ」
フレデリクの見事なフットワークがパトリオパッツィの吐いたものを全てバケツに収めた。
「もう、なりふり構っていられない。提督、一番揺れない場所に連れていってほしい」
消火器だの銃だのがベルトで固定された艦内を行くのだが、激しく、そして予測不可能な揺れにオットットと足元を不安にしながら、提督とフレデリクはそれぞれパトリオパッツィの足と頭を持って、それを艦の中心にへと運んでいった。
「旦那さま。このフレデリク、いまほど自分がヒューマノイドでよかったと思うときはありません」
「ヒューマノイドには船酔いはないのかね?」
「ございません。旦那さま」
艦の中心。そこは予備弾薬室で副砲の弾が保管してあった。
弾薬棚の砲弾はみな固定してあるが、それでも揺れるたびにカタッ、カタカタッと音がして、そのうち、ゴツン、ボカンがやってくるかもしれなかった。だが、そんなことを気にしていられるものはひとりもいない。ひょっとすると、船酔いの苦しみが終わるなら、ゴツン、ボカンも悪くないと思っているかもしれない。
ドアを開けると、カルカッタの黒い部屋みたいに船酔い患者が思い思いの姿で倒れていて、その姿は絶え間ない揺れに更新し続けていて、仰向がうつ伏せになったかと思うと、全員が壁に寄せ集められたり、そこは優しくない世界だった。
だが、この海洋で最も揺れが少ないのがこの部屋なのだ。
「せーの、それ!」
提督とフレデリクはパトリオパッツィを放り出した。
「ひどいものだな。ペストに襲われたヨーロッパがこのような感じだったに違いない。それでは、みなさん。ボン・ボヤージュ」
ドアが閉まった。
――†――†――†――
【ユウキ】「気持ち悪い」
【キヅキ】「死ぬ」
【リアム】「死んでも気持ち悪かったらどうしよう」
【パトリオパッツィ】「ミルク、牡蠣、生魚」
【キヅキ】「叩け! こいつを叩け!」
【ユウキ】「食べたら気持ち悪くなるもの連呼しやがって!」
【リアム】「制裁だ、制裁!」
【パトリオパッツィ】「分かった。分かったから。落ち着こう。もっと平和的にいこう」
【キヅキ】「何か気を紛らわせることをやるぞ」
【リアム】「しりとりなんてどうかな?」
【パトリオパッツィ】「いいね。こう見えても、わたしはひとりしりとりが得意なんだ」
【キヅキ】「みんなでしりとりだ。わたしから行くぞ。ベーグル」
【リアム】「ルンバ」
【ユウキ】「爆破」
【パトリオパッツィ】「吐き気」
【キヅキ】「……」
【リアム】「……」
【ユウキ】「……」
【パトリオパッツィ】「……」
【キヅキ】「……け、だな。 ケーキ」
【リアム】「汽車」
【ユウキ】「射撃デバイス」
【パトリオパッツィ】「凄まじい吐き気」
【キヅキ】「……」
【リアム】「……」
【ユウキ】「……」
【パトリオパッツィ】「……」
【キヅキ】「……ケチャップ」
【リアム】「プロップ」
【ユウキ】「プロトタイプ」
【パトリオパッツィ】「プレミア感の増した吐き気」
【キヅキ】「叩け! こいつを叩け!」
――†――†――†――
死んでいるのか生きているのか分からない時間が一週間続いた。
と、思っているのは本人だけで、実際はほんの数時間しか過ぎていなかった。
気がついた四人は自分たちが死んだのだと思った。
揺れが全くないのだ。
死んだのであれば、確かめることは船酔いを死後の世界に持ち込んでいるかどうかだった。
よくカネを貯めすぎるものに『いくらカネを集めても天国には持っていけない』と皮肉を言うが、さらなる皮肉を追求するパトリオパッツィは全部とは言わなくても、三分の一くらいは持っていけて、それで天国での生活に崖みたいな格差が生まれるのだと思っていた。
天国ですら、人間は平等にはなれない。
それって、とてもいいことだよね。
だって、それなら、今をもっと頑張って生きる気になる。
しかし、いま問題なのは船酔いまでもが全部と言わずとも三分の一くらい持っていけるのではないかという懸念だった。
それでは永遠にこの苦しみを味わうハメになるのだ。三分の一だけでも相当なものだ。
四人はよろよろ立ち上がった。
身体のなかで大きな振り子が揺れているような気がしたが、それは海がなだらかになって、嵐の揺れだけが彼らのなかに残ったせいだった。
すぐにバランス修正コードで補正をすると、揺れがなくなり、そして、そのとき分かった。
船酔いがなくなったことに。
そのとき、壁付きの砲兵用電話のベルが鳴った。
「もしもし」
「誰だ?」
「わたしですよ」
「わたしじゃ分からない」
「あなたの美少女AIのヴィクトリアですよ」
「何の用だ?」
「もう船酔いはなくなりました?」
「ああ」
「じゃあ、甲板に出てみてください。面白いものが見られますよ」
甲板から見た海は優しい残照の世界でほんの数分のあいだに十三種類の紫と赤で空の色を変えてみせた。
海は嘘のように穏やかで潮が止まっているようだった。
「諸君。協商勢力は困難な海域を一隻の落伍も出さずに潜り抜けた」
提督は先端がふくらんだ奇妙な棒を持っていて、すぐそばにはビロードの箱に表面がブツブツした白いボールが入ったものを手にしたフレデリクが控えている。
「この我々の快挙を全ての生命が喜んでくれていることだろう。フレデリク」
はい、旦那さま、とフレデリクは提督の足元の狭くて小さな芝生に刺さった小さな杭のようなものにボールを置く。
フレデリクが安全な位置まで下がったのを確認すると、提督は奇妙な棒――ゴルフクラブをふった。
ボールは進行方向へなだらかな弧を描きながら、夜色の海へと落ち、そして――その位置から青い光が広がった。その小さな光の集合体らしいものは艦隊をあっという間に包み込んだ。
「この海域は驚くと光る小さな生き物に満たされている。やってみたいものはいるかね?」
と、ゴルフクラブを差し出すと、パトリオパッツィがウズウズした様子で手を挙げて、次にキヅキとリアムが、そして、興味ないと言っていたユウキはヴィクトリアの度重なる勧誘の末、仕方なくやってやることにした。
「仕方なくだからな。別に興味はない。だから、AI。ボールになれ」
「ユウキさんのブラックユーモアはいいですから、はやく打ってみてくださいよ」
フレデリクがボールを置くと、ユウキがショットした。
そのボールは一番遠くまで飛んだらしく、ほとんど水平線から光が広がった。
「ほう、カレイジャス。ゴルフの才能があるのかもしれないな。ところでわたしのプレー・クラブはどこに言ったのかね? ……あ」
足元を見ると、ボールがティーペッグの上に乗ったままだった。




