ラベンダー色のドレス
執事の仕事のひとつに朝刊にアイロンをかけるというものがあった。
提督の時代ではよくインクが乾ききっていないことがあり、だから新聞にアイロンをかけて乾かしてから主人に届けるのだ。
〈イラストレイテッド・ロンドン・ニュース〉にはフィッシャーマンズ・ヘブンで新宗教が確立!とあり、そのリトグラフに中佐の姿がしっかり描かれていた。
「フレデリク。中佐は昨夜帰ってこなかったが、どうも面白いことになっているらしい」
さらにパトリオパッツィが〈行きずり道徳劇団〉の名前でマリオネット劇をやっていて、人気を得ているともあった。
「こちらは不穏なニュースでございますね」
「リア王やハムレットを読ませたら、この作者は喜劇の天才だと真顔で言っていたからなぁ。しかし、劇場は開店に向かって着々と準備しているわけだ」
「しかし、旦那さま。解決していない問題もございます」
「ああ。座席その他が全てのディネガに対応できない。ここの住人は本当にいろいろな形をしている。さすがにいちいち対応していては時間がいくらあっても足りない」
入り口のベルが鳴る。
「見てまいります」
「うん」
食堂から応接間に移動し、鏡でネクタイの結び目が大きめのラウンド・カラーに隠れていないか確かめると、フレデリクがヒト型ディネガの少女を連れてきた。
金髪をボブに切り、ラベンダー色のドレスをつけた小柄な少女だ。
その少女がスカートの裾をつまんで、ちょこんと挨拶をする。
「こんにちは、レディ。いや、初めましてですな」
「いえ、こんにちはで会っております。以前、一度お会いしたことがございますの」
提督はちょっと考えてから、
「ご無礼お許しいただきたいのですが、どうも、いつお会いしたかを思い出せないのです」
「無理もございませんわ。姿が変わりましたので」
「と言いますと?」
「わたくしはテュプセム。以前、ユウキさまに命を助けていただいてディネガです」
――†――†――†――
愛する人に近づきたいと姿を変えた少女の想いとすればいいのか、それとも種族の在り方を変えてしまうカレイジャス側の無自覚のエゴなのか。
そのあたりをカレイジャスがどう思うか心配だなと提督は思う。
だが、提督はユウキがテュプセムを嫌っているわけではないのはもちろん、あれは恋をしているのだろうと思っている。
ただ、男女のあいだの好意のやり取りに対する知識が絶望的に存在しないだけだ。自分が抱いている感情の呼び方すら分かっていない。
一度、真剣な顔でテュプセムについて考えると、循環器系に異常があらわれると言った。
絶望的ボキャブラリー。
じゃあ嫌いで二度と会いたくないと言えばいいと言うと、それはできないと言っている。
それが同情なのか恋愛なのかが分かるほどユウキは自分の感情を把握していないし、外から見ても、ちょっと分からない。テラリアの情操教育の罪深さには驚かされる。
あまり引き延ばすのは残酷だが、その機会があるのに恋愛の芽を摘み取るのもいかがなものか?
そこで覚悟を決めて、ヒトの姿に寄せてきたテュプセムに対する公平を維持するため、提督はユウキが他人に見られたくないタイミングをテュプセムに見せることにした。
所はイングリッシュ・ガーデン。園亭。
今日もユウキはテーブルに突っ伏して、寝言を噛んでいた。
「むにゃ、むにゃ」
そして、機嫌のいい猫みたいに喉を鳴らして、ウーンと少し体を揺らす。
「どうです? これはカレイジャスが信用したものにだけ見せる姿なのです」
「あ。でも、わたし、そこまで信じてもらえているかどうか、その、言ってもらっていません」
「なに、事後報告で結構です。さて、では、叩き起こすとしましょう」
そう言いながら、丸めた〈イラストレイテッド・ロンドン・ニュース〉を振り上げると、
「あのっ」
「ん?」
「もう少し、その、ユウキさまを眺めても、よろしいでしょうか? はしたないお願いなのは承知です」
提督は丸めた新聞紙を持った手をゆっくり降ろし、
「どうしてはしたないものでしょうか? どうぞ、お気のすむまで眺めてやってください。カレイジャスの寝顔だって何かの役に立つべきなのですから」
提督はその場を後にし、テュプセムとユウキを庭園にふたりきりにした。
ただ、館に入ってから、提督はテュプセムがどうやって姿をヒト型ディネガに変えたのかきくのを忘れたことに気がついた。
大したことではないが、だいだい人の集中力を変なふうに散らすのはこうした大したことないことなのだ。
しばらくして、ユウキはまぶたを開いた。
寝ているのか目覚めているのか分からない状態だったが、それでもテュプセムが人間の姿で微笑みかけると、すぐに、
「テュプセムか」
と、彼女だと認識した。
「はい。あの――」
「ああ」
ユウキは笑いかけた。
「よく――ラベンダーが、似合って、る――すー、すー」
頬が赤くなる。クチバシ型ディネガの姿ならクチバシの途中が小さく膨らんでいるところだ。
一方、それを窓から見ていたヴィクトリアはまた眠ってしまったユウキに電気を流すといい、パトリオパッツィは喜劇のにおいがするといって庭に入ろうとし、中佐は「攻撃目標を指定してください」と本気で攻撃目標を要請し、提督はたとえマグナカルタで禁止されていても一撃加えねばと意気込み、フレデリクがひとりでみなを止めなければいけなかった。




