2と10
テラリア。
優性論者の空中庭園。
湾曲したガラスの塔、空を映す湖、緑樹と灌木林を巧みに組み合わせる公園。
居住者を住居、生産、思考において階級別に分けることを許容した選民主義哲学の城塞。
最下層の人間はここにはおらず、地表に暮らす人間がこれにあてはめられている。
内に騒乱を抱えない方法は外に不可触民を用意するしかないという、空の国の思想家が出した答えは、0の概念と一緒に生み出された古いやり方だ。
ユウキが提督と住む部屋は蜂の巣型構造のビルにあり、これと同じものが真横に十四基並んでいて、その黒い鏡面に空の雲の影が映しとられている。
蜂の巣の居住区域はエア・ウェイや移動基部で他の階につながっている。ユウキの住民等級はB3であり、普通に生活するだけならば移動に不自由を感じることはない。
提督の等級はまだついていないので、彼がユウキともに蜂の巣に住むのは本来ならば許されない。等級のない人間が存在することを夢にも思わなかった当局は等級が決まるまでユウキと行動を共にすることを一時的に許可することとなった。
本来ならば提督は拘束され研究所のレーザー・メスでバラバラにされていたはずだが、その未知の力は当局から自由行動を引き出した。
「先ほどからこの都市で着られている服を見ていたのだが、ここにはまともな働きをする仕立て屋がいないらしい」
「……」
「ああいう体にぴったりくっつく生地は、化学繊維というものだろう? 化学といえば爆発だ。いつ爆発するか分からない服など着るべきではない。そもそもシャツとジャケットとズボンの区別もないような服を紳士淑女は身につけるべきではない。そうではないのかね?」
「……」
「きみも実はそう思っているのではないのかね? もし、よければ、サヴィル・ロウにあるわたしが懇意にしている仕立て屋を紹介しよう」
「結構だ」
海軍提督の勤務服を最上のファッションと讃える提督がスネークウッドのステッキを突きながら歩いているのは広い芝生がある遊歩階であり、ドームで光量と気温を調整された太陽の下、テーブルと樹木、白いパラソルが特殊な乱数モデルに基づいて配置されている。
オートマタたちはイオン交換水のグラスを運び、三色の蛍光から構成される製造チャンネルがベイクド・バーを焼き上げる。
白い卵型のエア・キャリッジがあらわれても、客たちは気にせず、水とバーの食事を摂っている。
キャリッジの識別マークは軍務省。継ぎ目の見えない滑らかな車体には高熱射出装置が隠れていて、人間をベイクド・バーに変えることができるし、軍務省にはAクラス以外の市民に兵役を課す権限もある。
ユウキは必要なとき、昼夜を問わずにこうして呼び出される。
その勤務体系には涙を禁じ得ないが、提督もそれに巻き込まれている。
ただ、ドイツの魚雷艇が艦隊に突っ込んできたら、深夜早朝関係なくブリッジへ駆けあがり、サーチライトを振り回して迎撃態勢を取らなければいけないのだから、これに文句を言うつもりはない。
しかし、エナメル材質追放運動の領袖として、今後は汽艇で移動できるよう手配をしなければいけない。
移動中、頭のなかでキャンバス地の幌をかけ、船尾のポールに英国国旗、船主にノルデンフェルド機関銃をつけた汽艇を思い浮かべる。
残念ながら、この都市の構造上、実際に水を走ることはできない。空を飛ぶことになるが、そのくらいの妥協はする。ローマに来たら、ローマの掟に従うものだ。
素晴らしい汽艇を無から具現化する直前、大きな湖の中央に、鋭すぎる氷山に似た建物が見えてきた。これが軍務省だった。目に見えないレールであらゆる階と繋がっていて、エナメル材質追放運動に抵触しそうな乗り物が行き来している。
このキャリッジもレールの上を走り、角度と反射で隠れていた発着場に到着した。
提督が驚いたことに、このビルでネクタイを締めているのは彼ひとりだった。男女ともどもフランス人の曲芸師のようなぴったりとしたスーツを身につけていて、ホログラムをいくつも浮かべて、自分の業務に打ち込んでいる。ホログラムは青く、手で触れると、赤く光り、白いカーゴがあらわれたり、記憶媒体が回収されたりしている。
「ここでは毎朝、乗員の前で、その日の昼に出す予定の食事を味見する儀式もないのだろうね。ところで、あの丸い物体はなんだね?」
「AIだ」
「提督徽章? だが、奇妙なことに見ている限り、あれが多ければ多いほど職位が低く、少ないほど偉いようだ。そして、一番偉いのはあそこに座っている十三歳くらいの少年かな? AIがひとつしか飛んでいない」
的外れだが的外れではない。
通常、兵士にはそのヘルメット内に複数のAIがインストールされている。だが、第一特務中隊で精鋭とされているユウキにはAIがついていない。
それは運用やプライドの問題ではなく、コミュニケーションの問題だった。
AIとの最低限のコミュニケーションが取れると思っていないので、つけていないのだ。だが、研究部門は補助なしでここまでの戦績を弾き出せるなら、AIがあれば、より高い能力が発揮でき、対〈ディネガ〉研究も進むと睨んでいる。
これまで研究部門は何度かユウキにAIをつけようとしたが、ユウキはそれをひと言も発せず、じっと相手をカメラ越しに見つめることで、拒絶してきた。
今日の召喚もAIをつけるよう勧められるためのものだ。
提督はこの都市が味気ないとみているが、他の都市と変わらず、それなりの打算があって動いているし、好き嫌いがあるのだ。
軍務省の内部は大きな空洞だった。見上げれば、何らかの官僚機能を持つらしい碧い水晶の小部屋がいくつも吊るされている。半透明の強化プラスチックに乗ると、クラスに応じたホログラム・コンソールが開き、移動する。
ふたりは移動基部に立ち、ユウキが行き先を兵站管理部とコンソールに入力すると、リフトが浮かび上がった。意外にも揺れが大きく、そのルート選択も少し荒々しいところがあった。もし、提督の背が二メートルあれば、首が飛んでいたくらいにニアミスしたことが二回もあった。
「陸軍省に比べれば、ずっとマシだ。全てが後手後手にまわり、最近の仕事は鉄道ダイヤの組み立てばかり。それ以外は騎兵突撃を至上とする自殺志願。テニソンが謳った〈軽騎兵の突撃〉だ。クリミア戦争からこれっぽっちも進化していない。やはり、海軍省はいい。海軍には伝統を守りつつ、最先端のテクノロジーを取り入れる進歩の気風がある」
「嘘だろ?」
「おや。なぜ、そこで驚くのかね?」
「……別に」
ユウキが提督と過ごした時間は二十四時間に満たないが、それでもこの老人の気質は嫌というほど教えられた。その提督から進歩だの最先端のテクノロジーだのという言葉が出たのは何かの冗談に思えたのだ。
それから提督はドレッドノートという戦艦がどれだけ優れた戦艦であるかを延々と語った。かの艦の進水式以来、戦艦の歴史ががらりと変わり、世界じゅうの政府はいかにしてドレッドノート級戦艦を建造するための資金を捻出するかに頭を悩ますことになったのだ。
そして、いまはユウキの頭を悩ませていた。
「わかった……もういい」
「わかった? ほう。では、ドレッドノートの最大速力は言えるわけだ」
「それは……16.0ノット」
「よし。何も恥じることはない。人間得手不得手があるものだ。最初からおさらいしようではないか。キーになるのはふたつの数字。2と10だ。ドレッドノートはポーツマス造船所製、起工は1905年10月2日、進水は1906年2月10日、10と2、2と10。ひっくり返せば覚えやすい。それで、就役は1906年12月2日、10+2と2。またまた覚えやすい。常備排水量は18,110トン、満載排水量は21,845トン。最大速力は?」
「……21.0ノット」
「素晴らしい。2と10だ」
提督のスペック羅列は兵装へともつれ込もうとしていたが、ふたりの乗る移動基部が兵站管理部へと到着したことで強制終了を見た。
兵站管理部というくらいだから、提督は油をひいたばかりのライフルが棚に並び、豆とビーフの缶詰が軍艦ごとに分かれて積み上げられ、ラム酒の配給を担当する士官が神のごとく君臨しているものだと思ったが、そこには白いばかりで何もない、がらんとした部屋だった。
ひとりだけ白衣らしきものを着た女性がいて、看護婦かなと思ったが、彼女はエンジニアだった。
早速、AIの使用についての問答が始まったが、AIは肩につける印だと思っている老人はここにきて、AIが何であるかをきちんと知らされた。
「人工知能? それと人間とどう違いがあるのだ?」
「……は?」
「人間には知能がある。これは否定しないだだろう?」
「ああ」
「では、知能ある人間はどう作る? まさか、コウノトリが運んでくるはないだろう?」
「コウノトリ? なんだ、それは……」
「材質の違いです」女性エンジニアがこたえる。「もし、船に自動操縦装置が人間の手によって開発されて、あなたはそれが人間だと言いますか?」
「言わないですな。レディ」
「つまり、それと同じです。ユウキくんの戦闘を支援する専用の装置と思ってください」
「なるほど。装置が人の知能を持ったと。きいたかね、カレイジャス。物事がきちんと順序立てて説明されるとはこちらのレディのような話し方を言うのだ。しかし――」
提督の脳裏にはガラスのポッドに浮かんだ生身の脳みその絵が一瞬よぎったが、レディの言葉を悪くとるのはよくないと思い、善意で気色の悪い絵を塗りつぶした。
「――戦闘を支援するとは素晴らしい機能ですな。偵察や警戒、それに最も困難である兵站を担ってくれる。素晴らしいですな。是非ともいただきましょう」
「おれはいいとは言っていない」
「きみは戦闘をしたい。そうだね?」
「そうだ」
「戦闘には勝ちたい。そうだね?」
「そうだ。いったい何を――」
「戦艦は砲手だけでは戦えない。弾着観測手や衛生兵、炊事兵、主計兵、機関兵がいなければいけない」
「それがなんだ?」
「いいかね、きみ。このAIを装備しないということはきみは砲手だけで敵艦隊と戦おうとすることに等しい。戦艦の任務は敵を撃破して終わりではない。敵を撃破して拠点の軍港に戻り、乗組員を無事安全に陸に上がらせるまでが戦艦の、艦長の、提督の務めなのだ。きみも兵士としての覚悟が決まっているなら、勝ち、無事に戻るためには何でもできることはするべきなのだ」
ユウキが戦闘支援AIを受け入れたことはちょっとした噂になるだろう。どうも言いくるめられた感じがしたが、そもそもユウキはコミュニケーションが得意ではない。それゆえにAIを拒んできたのだが、今回はそれが仇となった。
結局、どんなAIを装備するかはエンジニアと提督が勝手に決めた。エンジニアがいくつかの候補を用意し、そして提督は大西洋でドイツ海軍の通商破壊艦隊を探すのと同じくらい悩んで候補のAIを選ぶ。AI選定過程で実際にそれを使って戦うユウキの意志が反映されることはなかった。
最終的には丸っこくてディスプレイに愛嬌のある表情が映し出される、新型の反射浮遊デバイスを実装されたAIが選ばれた。そして、そのAIが人間の少女くらいの年齢に設定されていて、AIの正式名称が白亜の装甲巡洋艦シャルンホルストの全長みたいに長かったので、提督の国の女王の名からヴィクトリアと名づけることになった。
「よろしく頼みますよ。リトル・レディ」
もっとも命名者である提督は、ヴィクトリアをリトル・レディと呼ぶのだが。
「よろしくお願いします。えーと」
「わたくしはアンドリュー・ホクスティム三世。提督と呼んでいただければ望外の喜びです、リトル・レディ」
「わたしのコードネームはリトル・レディでいいんですか?」
「いえ。名前はヴィクトリアですな。しかし、敬称がリトル・レディになるわけです」
「ちょっとややこしいですね」
「使えれば名前なんてどうでもいい」
ユウキのぶっきらぼうな物言いでディスプレイの顔がちょっとジトっとした目つきをした。
「こっちの失礼なヒューマンは?」
「カレイジャスといいます。リトル・レディ」
「違う。ユウキだ」
「ふうん。ユウキね」
「なんだ?」
「いえ。気難しそうな人についちゃったなと思って」
「つけてくれと頼んだ覚えはない。使えなければ取り換えるまでだ」
「リトル・レディ。どうか彼の態度言動を大目に見てあげていただけますか? 彼はそういう年齢なのです」
「なるほど。そういう年齢なんですね。じゃあ、しょうがないですね」
「なんだ、そのそういう年齢とは?」
「特に深い意味はありませんよ。それにしても――これが古のデータにあるジェントルマンなんですね。悪い気はしません。ああ、それとユウキさん。わたしはカレイジャスって呼び名のほうが好きです。なんか強そうですからね」
「……勝手に言っていろ」
「でも、ユウキさんと呼んで差し上げます。わたしは心が広いAIなのです」