利き腕を切り落とされたものたち
「ともに旦那さまにお仕えする身として、最善を尽くしましょう。パトリオパッツィ殿」
パトリオパッツィには紳士であることの研修として、フレデリクのそばに一日つくことになった。
その栄えある出発点に選ばれたのは、伝説的な昼寝の数々の舞台となったイングリッシュ・ガーデンである。
「わたしは飼い犬になった覚えはないんだけどね」
「飼い犬? 違います。わたしは紳士お傍付き紳士であり、あなたは旦那さまの私設劇場の支配人です。それと、お客さまのなかには犬の特徴を大いに有するディネガもいるので、あまり犬という言葉を否定的に使うことはオススメできません」
「いいよ。音楽がそこにあるなら」
パトリオパッツィは空を見上げる。
提督たちの住居の上には三つの街とふたつの倉庫、それに利用目的の分からない巨大な実験施設がある。
だから、空を見上げることはできないはずだが、そこにあるのはパトリオパッツィの目と同じ碧い空である。
ユウキはともかく、提督については自分はなかなかどうしてとんでもない相手を対戦に選んでいたのだなと思いつつ、紅茶に口をつける。
「パトリオパッツィ殿。紳士にとって欠かせないものは何だかご存知ですか?」
「もちろん。音楽さ」
「おっしゃる通り。音楽を愛する心は大切です。旦那さまはご自分ではオペラはそれほど好まないとおっしゃられますが、本当はオペラが大好きなようです。ですが、それを口に出して、旦那さまのお立場を難しくすることは好ましくありません」
フレデリクは満足した表情で、パトリオパッツィに何かを求める。
「……その、トカゲを捕まえて飼い主に見せに来た猫みたいな顔は何だい?」
「分かりませんか? 紳士に必要なもの」
「ツンデレ?」
「そうではありません。旦那さまのツンデレ資質をわざわざ口に出して言ったりしない、慎み深さ。これこそ紳士にとって欠かせない徳目なのです。慎み深さです。大切なことですので、二度言っておきましょう」
「皮肉じゃなくて?」
「エスプリとおっしゃるのがよいでしょう。確かに気の利いた皮肉なジョークもまた必要です。しかし、皮肉を好み過ぎる方は小さな道徳をおろそかにしがちです」
「わたしはどちらかと言うと、皮肉屋で反道徳的だけど、いいのかな?」
「我々はこの荒廃と不足の時代を生きていかなければいけません。ときには完璧主義を緩める寛容さがより高い紳士的素養を高めることがあるのです」
「ふむ。きみの話し方はなかなかいいね。その遠回しに攻撃を加える、追尾型ミサイルみたいで」
「お褒めにあずかり光栄です。そう言えば、劇場のプログラムは決まりましたか?」
「いま、考えているところだよ。ただ、あの劇場の致命的な欠陥を見つけてしまって、それをどうしたものか考えている」
「パトリオパッツィ殿。荒廃と不測の時代に求められる寛容さを思い出してください」
「いや、あれはさすがに。あの劇場は客席が人間用にできている」
「あ」
「ランツクネヒト型ディネガや円錐型ディネガ、アドバルーン型ディネガが観劇できるようには作られていない」
「ふむ。それについては旦那さまに相談いたしましょう」
「相談して、どうにかなるのか?」
「それがどうにかしてしまうのが、旦那さまなのです」
――†――†――†――
提督は提督であり、紳士であり、魚雷屋であり、駆逐艦乗りであり、第四戦隊司令官であるが、それと同時に海の男でもあった。
彼はパトリオパッツィに買い物遠征に行くよう言い、その案内役にユウキを大抜擢。
「同じ利き腕を切り落としたもの同士、うまく行くだろう?」
と、いうのが理由だった。
ふたりは黙って、お互いを見た。
気まずさはある。ないわけがない。
だが、『こいつ、提督よりは扱いやすそうだな』という気持ちは共通していた。
「わたしは構わない」
「おれは気がすすまない」
「だが、中佐をつけるわけにはいかないだろう? 敵艦認識の一覧表が更新されていないらしいから、パトリオパッツィくんを攻撃するかもしれない。そうだ。ついでにニラを買ってきてほしい。いま、切らしている」
「つまり、『攻撃目標を指定してください』が止まらないってことか。……何だか、急に外出したくなった」
「それでこそだよ、カレイジャス。ドイツの決闘サークルの大学生みたいに、お互いを剣でつつき合って、終わったら抱擁して、許しあえばいい。まちがってもフランスのジャーナリスト風の決闘はいけないよ。ドイツは頑丈な民族性をしているが、決闘については軟派だ。きちんと防具をつけて、先の丸い剣でつつき合って終わりだ。ところが、軟弱な民族性のフランスでは決闘は本気だ。銃を使うから、必ずどちらかが死ぬ。その理由が片方が片方を新聞の紙面で毛虫呼ばわりしたとかそのくらいだ」
観葉樹に左右を挟まれたガラスドアを開け、またガラスドアを開け(提督の家は外のドアと内側のドアのあいだに部屋がひとつ挟まっていた)、外に出た。
お互い相手を殺す一歩手前までいったものが、おててつないで仲良く買い物できるとは提督以外は思いそうにない。
「……欲しいものはあるのか?」
「あることはあるが、そっちに予定がありそうだから、まず、付き合うよ」
赤ランプと崖の街に入ると、蟹原理主義者たちが仕組んだ調理用の蟹たちの集団脱走が発生していて、住人の誰もが今晩のおかずをタダで手に入れようとして、腰をかがめていた。
「ユウキくん、だっけ? きみはここに何を求めているんだい? 喜劇のインスパイアにはなりそうだけど」
「これから、あんたを殺す寸前まで行くのに世話になった連中に挨拶まわりする」
「ああ、それは素晴らしいね。ほら、ごらん。こいつがわたしの腕を切り落とした功労者のひとりだ。腕を切り落とすのは便利なことだからね。たとえば、蟹がわたしの右腕をハサミでつかもうとしたら、こう言える。『おっと危ない。腕を切り落としておいてよかった』」
「ちゃんと元通りについただろ?」
「まあ、そうだ。きみの言う通り、元通りさ。で、誰に会うんだい?」
カータは自分の家から三段上ったところで、やはり腰をかがめていて、おかず代を浮かそうとしていた。さすが武術の達人だけあって、例のシルクハットには蟹が十匹以上入っている。
「彼は?」
「おれの身ごなしを徹底的に改造した」
「へえ」
「おい、カータ」
カータはベンチの下に逃げた蟹を取ろうとしていたが、彼は目の前の蟹に目が眩んで、身体をさばく理を忘れ、敵を捉えるつもりで動き、指をはさまれ、叫んで、転がって、帽子を蹴飛ばして、蟹を全部逃した。
「ああ! 今晩のおかずが!」
「カータ!」
「なんだ!? んっ! なんだ、ユウキじゃねえか。そっちのは誰だ?」
パトリオパッツィはにこりと笑って、芝居がかった動作でお辞儀をした。
「初めてお目にかかる。わたしはパトリオパッツィ。あなたが手助けしたユウキくんに腕を切り飛ばされた劇場の支配人です」
「へえ、おれはカータだ。猫族ディネガで、誰の腕も切り落としてないが――ん、おい、いま劇場って言ったか?」
「ああ。言ったよ」
やったぜ!とカータは飛び上がって、宙返りをして、剣舞興行の可能性がひらけた喜びを表現した。
――†――†――†――
カータは蟹を相手に武術の理を忘れて指を挟まれたとは思えない、見事な剣舞をやってみせた。
ユウキは二度、パトリオパッツィは五回、首を刎ねられかけたが、音楽と組み合わせ、観客とのあいだの距離をしっかりとれば、なかなかの演し物になりそうだった。
「で、いつビッグマネーは入るんだ?」
「単独公演は難しいかもしれない」
「えー」
「提督に武術学校を作ってもらえばいいだろ」
「施しは受けない主義なんだよ」
カータ曰く、剣舞は相手がいるとさらに映える。
と、言いながら、ユウキに共同戦線を張ろうというが、何に対する戦線なのかもわからないし、気が乗らない。
「わたしがやろう」
黒のジャケットを脱いで、ベストと蝶ネクタイはそのまま、グレイのワイシャツの袖をめくると、ユウキの〈漆黒の猟騎士〉を指して、
「貸してもらえれば嬉しいんだがね」
と、にっこり笑う。
「おれの利き腕切り落とした相手に自分の刀を貸すと思うのか?」
「普通はそうだろうけど、わたしたちは普通じゃない」
「その普通じゃないが、兵士として普通じゃない、人間として普通じゃないならいい。だが――」
「提督」
「いやだ――くそっ、どうにでもなれ」
ストラップを外し、〈漆黒の猟騎士〉を鞘ごとパトリオパッツィに渡す。
あれだけ殺戮にこだわっていたパトリオパッツィだったが、実際に剣と鞘を手に舞うと、カータの青龍刀と刃を合わせるタイミングは外さなかったし、高く放り投げた刀を鞘にぴったり落し、また抜刀しての一連の動きには死闘には無駄だが、剣舞として、これ以上にない洗練された動きを見せることができた。
「うーん。敵を倒そうって動きじゃないけど、身をさばく理がちょっと違うんだよな。なんでだ?」
まくった袖をそのままジャケットを着て、ふふ、と笑う。
「音楽があるんだよ」
「へー。きいたか、ユウキちゃんよ。音楽だってさ」
「別におれには関係ない。それと、その呼び方はやめろ」
「カレイジャスとどっちがいいよ?」
三十分、ユウキは息が苦しくなり、冷たい汗をかき、手で胸をかきむしるまで考えた結果、大いなる妥協で『ユウキちゃん』を選んだ。
「わかった、わかった。おれは師匠だぜ? 弟子を呼び名でいじめたりしねえさ」




