1ペニーはだいたい50円(諸説あり)
たっぷり十メートル後ろへ吹っ飛び、重ねたマットレスにめり込む。
「カレイジャス。進歩は確実にきみのものだ。実はマットレスを一枚減らした。それでも関節が外れただけなら、きみは確実にその火力をものにしている」
ユウキは肩から壁にぶつかって、外れた関節を戻し、また弾を込め始めた。
提督がつくった射撃場には両脇に花壇があった。天井からはキッチナー卿、ジョン・フレンチ、ダグラス・ヘイグといった陸軍の将軍と、それにロイド=ジョージとウィンストン・チャーチルを描いた的が垂れていた。
もうひとつの射撃場は〈動的射撃対象反射行動試験〉と呼ばれていたが実際は蒸気機関につながったゴムベルトでレールの上を右から左、左から右へ的が滑っていくだけのものだった。ハイドパークの縁日では的はアヒルの形をしているが、ここでは的はキッチナー、フレンチ、ヘイグ、そしてロイド=ジョージとチャーチルである。
「縁日だったらぬいぐるみがもらえるが、この場合、もらえるのは胸がスッとする感覚だ。彼らに弾丸を見舞うことで胸がスッとするには海軍の予算を削り落として自分たちにつけようとする陸軍の阿呆どもに何十年と反抗し、さらに恩知らずの政治家たちによって第一海軍卿から引きずり降ろされる必要がある」
ズドン!と音がして、ユウキは吹っ飛んだ。
どれどれと固定三脚の小さな望遠鏡にかがんでみると、チャーチルの顔がきれいさっぱりなくなっていた。
ユウキはというと、ついにマットレスが全て一度に破れて、ボロクズのなかでもがき、十分かけて何とか外に這い出てきた。
「カレイジャス。きみに必要なのは銃の撃ち方ではないと思うのだがね」
「じゃあ、どんな訓練だ?」
「心当たりがある。ちょっと出かけてみよう」
――†――†――†――
「カネは前払いでもらってるからよ。ま、おれに任せときな」
提督がユウキを連れていったのは崖の街の何でも屋、カータのもとだった。
ズズーッとカータがすすっているのは、ボンガン亭の海鮮ごった煮粥。
中身は蟹の殻、鱸のハラワタ、死んだ貝など、海産物の非可食部分と思われる部位を店主のボンガンが安く手に入れて、全部鍋にぶち込んだもので、それを一杯小さなコイン一枚で売っていた。もちろん〈今月の優秀コイン〉に選ばれなかったもので、大丈夫。
ただ、この日のごった煮には大量の鯛の頭と鮫のヒレがあったため、素晴らしいダシととろける具ができて、この値段にしては非常にうまい奇跡のお粥となっている。
「先日、わたしが支払った三ポンドは使い切ったのかね?」
「貯めてる。金持ちになるつもりはないけどな」
「その心は?」
「金持ちってのはカネがある貧乏人だ。そのカネで何がしたいか分からないなら、無一文のほうがまだマシってもんだ」
「ふむ。それには同意する。目的のある貯金はいいものだ。もっといいのはアメリカの百貨店王の娘と結婚することだがね。デイヴィット・ビーティ―は一度、駆逐艦を事故で失った責任を取らされて、退役に追い込まれそうになったが、そのとき細君が『わたしのデイヴィーが退役ですって? いいわ。わたしが軍艦を弁償すればいいんでしょ!』と言ったのには驚いた。実際、弁償しようとしたし」
「あやかりたいもんだね」
カータは、ズズーッと、おかわりのごった煮をすすって、どんぶりを置くと、ユウキにちょっと顔貸してくれ、と言って、店の裏口を顎で差した。
このセリフが出ると、起こるイベントは決まってくる。
裏口から路地へ出るなり、かかと落とし。ユウキはそれを左腕で受けて、伸ばした二本の指で相手の目を狙った。
だが、そこにあったはずのカータの顔は後ろへ滑るように消え、右足の付け根を起点にシーソーのように下がった上半身からひねり放たれた左の蹴りがユウキの胸をとらえた。そのとき、一瞬だが、ユウキの身体がふわりと浮いた。それは瞬きする間の出来事で、すぐに吹っ飛んで、積み上がったゴミ缶の山に背中から突っ込んだ。
提督はガランガランと落ちてくる四角いソース缶を眺めながら、煙草をつける。
「今日、カレイジャスは何回、あんなふうに背中から突っ込んだか分からない。それで、カータくん、カレイジャスはどうだね?」
カータは腕組をして、ふん、と笑った。
「全然ダメだな。倒すための動きだけだ。身体をさばく理が全然なってない」
「理?」
「武術だよ。こりゃ、持ってるものを全部捨てさせて、一から叩き込みなおさないとな。まあ、おれとしても教え甲斐があるし、追加料金は発生するんだろ」
「訓練内容による。たとえば、カレイジャスが蹴りを受けて、飛ぶ前、本当にわずかな時間だが、空中でふわりと静止した」
「目がいいんだな、じいさん」
「一万メートル先の敵艦に弾が当たったかどうか見なければいけないのでね。あれがどんな仕掛けか知らないが、体得すればカレイジャスには大きな戦力になるだろう」
「あれは気功ってんだ。あればっかしは資質の問題だ」
「海軍の魔法みたいなものかな」
「知らね。それより一本くれ」
「煙草を?」
「それ以外、何があるんだよ」
「わたしは構わないが、キミぐらいの年齢で喫煙を繰り返すと、背が伸びなくなる」
「……ホント?」
「ああ。それでもいるかね?」
提督はシガレットケースを開いた。
「……やめとく」
ケースはパチンと音を鳴らして閉じた。
「それが賢明だ。それで契約を確認したいのだが、カレイジャスをきみのところに預けて、好きなように鍛えてもらう。基本は素手だ」
「追加料金で睡眠学習もやるぜ」
「なんだね、それは?」
「このソケットを頭につないで寝れば、寝ているあいだにいろいろ技が体得できる。寝覚めは最悪だけど」
「では、それをやってもらおう。払いはシリング銀貨でいいかね?」
「ああ、構わないぜ」
「あ。一枚、ペニー銅貨が混じった。それは返してほしい」
ちょうど、カータが提督にペニー銅貨を返すところで、ユウキは缶の山から這い出てきた。
その様は、まるで提督が自分を一ペニーでカータに売ったように見えたことだろう。




