釣り針が刺さってなくてよかったな
提督がイングリッシュ・ガーデンの園亭で紅茶を飲んでいると、提督の少女テュルがやってきた。
互いのやり方で敬礼し、紅茶を勧めると、少女は海藻茶よりもおいしいと言い、提督に礼を言った。
とくにポットのなかで踊った茶葉は本当に味のよいものでフレデリクは茶葉によって蒸らす時間を0.000001秒単位、お湯の温度は0.0000000001度単位で調節できた。
「問題なく過ごせているようでよかったよ」
と、言ってから、右手で覚醒しそうになった左手をバンバン叩いた。
むしろ問題があるのはテュルのほうなのではないかなあと思ったが、彼女は彼女のやり方でこの不運な特質に挑もうとしているのだから、その敢闘精神に水を差すべきではないなと思って、黙っていた。
「我々としても居候の身ですからな。この新しい地で暮らせるよう及第点をいただこうと慎ましく暮らしているわけですよ」
「ギウィ・フィッシュは手が足りて、ブクッと鰓がつけると喜んでました。肺呼吸生物のボクたちのいうところ『ホッと息がつける』ってわけです」
「ひと口話にぴったりの表現ですな」
「そう言えば、ユウキさんは今、いないのかな?」
「カレイジャスですか? 出かけましたよ。おそらく、訓練ですな。リトル・レディから、ああ、リトル・レディというのはカレイジャスのAIなのですが、そのリトル・レディ曰く、なかなかの強敵に出会ったそうです。それで己を鍛えたいのでしょう。カレイジャスはなかなかの負けず嫌いですからな。詳しくは知りませんが、特殊な訓練のやり方があって、それをやれば、戦力を大きく上げることができるのですが、そういうおいしい話には、まあ、裏がありそうなものです。カレイジャスに御用ですかな?」
「いや、特に用はないんだ。ただ、きいてみただけ」
「何かしたとか? 無銭飲食は?」
「大丈夫さ。そんな話じゃないよ。ただ、彼が会ったっていう、そのテラリア人に興味が湧いて」
「オペラが好きらしいですよ」
「オペラ?」
「それに、いささか抽象的な表現ですが、彼は捨てられたそうです。実際は予備役に編入されたのでしょう。予備役にまわされた軍人はみな自分たちは捨てられたのだと不貞腐れるものです」
「それだけど、たぶんそのままの意味だろうね」
「あの高い空から捨てるわけですか? ポイッと?」
「うん。ポイッと」
「それは、まあ、軍と国家に思うところができてしまうでしょうな。たとえば、ブリテンの軍人がマン島あたりにポイっと捨てられたら、これはさすがに落ち込むというもの」
「たいてい、テラリアが廃棄するのは使い物にならなくなった人間なんだ。でも、たぶん、そのパトリオパッツィという人は、使いこなせないから捨てられたんだろうと思うよ」
「確かにリトル・レディの話をきいていると、残酷な仕打ちを好むようでした。ただ、わたしが思うにテラリアという国は残酷を理由に兵士を捨てるようなことをしそうにありません。それでも捨てるとなると、よほど使い勝手が悪いと見なされたのでしょう。我々も命を狙われて追放された手前、悪い印象が拭えないのもありますが、それを差し引いても、前線の兵士たちを道具と同じものと見ているのは間違いない。しかし、どうでしょう? ある建築会社の経営者は部下の人間よりも、重機を大切にしていました。ずっと高い値段だからと」
テュルは両手を重ねて、頭突きした。
「ボクが怖いのは、戦闘力が十分にあるのに棄てられた兵士がディネガを虐殺するんじゃないかと。テラリアの特務中隊の兵士の目的はディネガを殺すことだから」
「ディネガを多数殺害して、自分は棄てられるような存在ではないと自分自身を納得させる。それはまた面倒な考え方の御仁ですな。パトリオパッツィとやらは。ともあれ、カレイジャスが帰ってきたら、もっと詳しくきいておきます。もし、可能なら、直接あなたのもとへ説明に行くよう言うつもりです。レディ」
「ありがとう、提督」
「こちらこそ、提督」
ふたりはピシッと敬礼した。
――†――†――†――
ヴィクトリアからきいていた住所に言ってみると、毛むくじゃらの三つ目のディネガが石板にノミを当てて、ハンマーで文字を刻んでいた。
そんなことをしているわけだから、部屋は石の粉が満たされていて、咳は止まらないし、軍服に白い汚れがついてしまいそうだった。
毛むくじゃらは真ん中の目をギョロっと提督に向け、たずねた。
「刑事ですか? 民事ですか?」
「ん?」
「裁判ですよ。刑事ですか? 民事ですか?」
「ここは人間の少年に特別強くなる訓練を施す施設ではないのですかな?」
「確かに裁判はうんざりするし、何度も繰り返せば、精神は鍛えられるかもしれないが、ここは法律事務所だ。訓練施設じゃない」
「失礼しました。部屋を間違えたようです」
「いいですよ。離婚訴訟。息子がドラッグで捕まった。そんな面倒事を抱えたら、また来てください」
外へ出て、幟の街を歩いていると、キヅキがやってきた。
「これは、レディ。思わぬ僥倖です」
「相変わらずのようだな、提督。ここには馴れたのか?」
「ええ。先ほどここの提督が来て、やはり我々が慣れて暮らしているのかを訪ねてまいりました。レディはこちらにはどのような用事で?」
「バッテリーを買いに来た。リアムのあの奇妙な音楽機械のために」
「伴侶同士がお互いを慈しむ美しい結婚ですな」
「そんなきれいなものではないさ」
「謙遜なさらずとも。ああ、ところで、このあたりで最も上質な魚の餌を売っている店をご存知ですかな?」
「ここから二ブロック行ったところを右に曲がれば、釣り具屋がある。そこに釣り餌も売っている。釣りにでも行くのか?」
「そんなところです。リアム殿にもよろしく」
二ブロック行った先を右折したところには間口の狭い釣り具屋があり、カツオドリのディネガがインスタントのウミガメのヌードル・スープをすすりながら、クイズ番組に夢中になっていた。
「そうじゃねえ。ビャミラだよ、ビャミラ! おい、よせ、頼むよ、Cを選ぶな――あーっ! このバカめ!」
提督がいた時代にはテレビはなかったので、こんなふうに箱に向かって叫んでいたら、一発で精神病院送りだった。
「失礼。この店で一番高い魚の餌はあるかね?」
店主は挑戦者たちが彼の機嫌を損ねるような解答を連続させている映像から目を離さずに、翼で冷凍ボックスを指差した。ガラスの蓋を開けて、代金が〈一番イカしたコイン十枚〉と書いてある餌をひとつ取り上げると、〈今月の優秀コイン〉に選ばれたシリング銀貨十枚を置いて、店を後にした。
「違う違う違う! AじゃないAじゃない! よおしっ! そうだ! 今回はCでいいんだ! Cだ、Cだ、Cだ――Cだっつってんだろうが! このボケ! ぎゃああ、Bを選びやがった! 信じられねえ!」
その足で今度は〈自警団本部〉へ。
廊下は相変わらずガラクタに埋まっていて、全ての品に時価の札がついている。
ドアをノックすると、ガラガラしたチューニング・ボイスがきこえてきた。
「誰だ?」
「わたしですな」
「わたしじゃ分かんねえよ。名を名乗れ」
「大英帝国海軍中将アンドリュー・ホクスティム三世」
「ああ、じいさんか。入れよ」
ブザーが鳴って、ドアの鋼鉄ボルトが外れる音が二度した。
ギウィ・フィッシュは相変わらず魚だった。
もし、魚じゃなくてコモドオオトカゲに変わっていたら、提督の計画は大きく見直される必要が出てきたところだ。
「悪いがな、じいさん。いま、あんたに紹介できる仕事はないぜ」
「ふむ。カレイジャスには?」
「カレイジャス?」
「わたしの従者のひとりです」
「背の高い金髪の?」
「そちらはフレデリクですな。さあ、とぼけても無駄です。カレイジャスに仕事を斡旋したでしょう?」
「それについては守秘義務ってもんがある」
結果から言えば、ギウィ・フィッシュは五秒で落ちた。
釣り具屋で買った餌は上海の薬屋で見かけそうな小さな丸薬だったが、それを見せると、ギウィ・フィッシュはカレイジャスがウェポン退治に向かった座標を吐き、提督が電子化されていないので、骨董品ものの地図を取り出し、そこに丸をつけた。
そこは劇場だった。




