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ストレイキャット

「フレデリク。少し散歩をしてくる」


「お供いたしましょうか?」


「いや、ひとりで歩いてこよう。今日の夕食は何かな?」


「ガンギエイのヒレのソテーを予定しております」


「わたしはエイヒレに目がなくてなあ」


「ソースですが、焦がしバターソースとチキンレバーのリンゴ・ソース、どちらにいたしましょう?」


「今日は焦がしバターソースの気分だ」


「では、そのようにいたします。いってらっしゃいませ、旦那さま」


 域内ケーブル・カーをいくつか乗り継いで、幟の街か公園みたいに開けた場所に行こうと思ったのだが、たどり着いたのは赤いランプがあちこちにかかった、夜の香港のような街だった。


 提督は香港勤務をしたことはないが、シンガポールから何かの用事で駆逐艦三隻を率いて立ち寄ったことがあった。

 まだ清王朝は倒れていなくて、波止場や人力車のたまり場に辮髪を引きずる苦力クーリーたちが早口で何かをまくしたてながら喧嘩をしていた。纏足の女性を見るたびに、我が国のコルセットとどちらが地獄かを考え、案内役の宣教師がいなければ、あちこちで行商人に取り囲まれ、部屋はガラクタでいっぱいになっていただろう。


 ただ、香港と違うのは街全体が赤錆びた鉄の断崖絶壁にへばりついていることだ。

 底の見えない深い谷を挟んであるのはよく分からない歯車の群れだ。


「トカゲ蟹はいらんか! 刺激剤蒸しのトカゲ蟹!」

「最新流行の三又角みつまたづのだよ! こいつを移植すれば、サイ型ディネガに大モテだ!」

「悔い改めなさい! 物質主義者よ!」


 階段で上ったり下ったりする道に沿って、間口が狭く奥行きもない小さな店屋が並んでいた。客が見ている前でデブった両生類ディネガから絞った乳にアルコールをまぜる酒屋があり、骨のない軟体ディネガがひとりになりたいときに入るセラミックの壜を客のサイズ別に並べた店があり、様々な色の石をつないだ首飾りや耳飾りを売っているのは大きな虎の顔をした獰猛そうなディネガ。こんな小さな店すら持てないホログラム職人はふたつのバケツに映像加工ソフトと端末を入れ、かつぐための天秤棒に自分の作品であるホログラムたちを座らせて、あちこちまわって仕事を探していた。


 ときどき二階建て分くらいの大きな店が出てくるが、改造クリニックで、頭の機械化で仕事の効率が上がったことを大きなポスターにして貼りつけていた。ただ、幟の街でここ三か月のあいだにあったひどすぎる交通事故はみなここで改造を受けたものばかりだったので、二日後に抜き打ちの検査が予定されていた。検査があることはトップクラスの安全管理官しか知らないので、一週間後にはこのクリニックは消えてなくなっているかもしれなかった。


     ――†――†――†――


 カータは提督が赤ランプの街にやってきてから目をつけていた。蟹の籠に囲まれた店で蟹ビールを飲むときに払ったコインが〈今月の優秀コイン〉に選ばれた銀貨だったからだ。


 こんなおやつを見せられて、何もせずに行かせたのでは野良猫耳少年の名がすたる。


「よーし、いっちょやったるか」


 孤児のカータはこの赤ランプの崖の街で毎日を生存のための戦いとして生きてきた。

 だが、自分がかわいそうだと思ったことはない。


 なぜなら、一番かわいそうな連中は語尾に「にゃ」がついてしまったからだ。


 これについては自分を捨てた親たちに感謝はしないが、その遺伝子には感謝している。

 どんなに真面目な話をしても「にゃ」が台無しにするし、どんなに面白い話をしても笑われるのは「にゃ」のせいだ。


 さて、提督から銀貨をスリとることは決まった。

 スリをするときはまずリスクを分析する。

 外套に妙な皺や脹らみがないので銃は持っていないようだ。

 ベルトには短剣がある。こういった狭い街路では有効な武器だし、あれを使い慣れていると、なかなかマズい。気づいたら、手首を切り落とされるなんてこともあり、そうなると再生クリニックの御厄介で、こちらがスリにあったみたいに高額の治療費をとられる。

 ただ、装飾を見てみると、なかなか高価そうなので、こっちを狙おうかという思いがなかなか断ち切れない。


 ストレイキャットの掟『獲物はひとつ。バカモノはふたつ』。


 初志貫徹で銀貨だけを狙おう。


 しかし、このヒト型ディネガはずいぶん買い物をする。

 ここに来るまでに買ったのは偽植物素材の蒸し器、カンダラカン酒の蒸留セット、船の模型、プラスチック・ボトルに入ったスパイシー・ソースを五本、卓上ニキシー時計、謎の石板、業務用フライヤー。


「全部、この住所に届けてくれたまえ」


 そう言って、次の買い物に突撃していく。

 そのたびにシリング銀貨が払われて、カータは自分の取り分がむしり取られているような気がした。


 兵は神速を貴ぶというわけで、すっからかんになる前に獲物をスることになった。


 小さな体に無限の俊敏。

 欄干の下をさっとくぐると、そのまま崖に落ちるかわりに上から垂れた鎖とケーブルの絡んだロープに捕まり、手袋の上からつける機械の指に爪を剥かせて、するすると登る。

 一階上の道へさっと滑り込むと、驚いて卵を落とした発酵卵売りが「これだから猫どもは!」と文句を言った。


 カータの計算ではいま、この真下の割と幅広な通りをカモは歩いているはずだ。

 そこで、下り階段へ向かうが、鈍足な亀ばあさんが階段をほとんど止まって見えるほどの速度で降りていたので、階段を降りるかわりにその欄干に飛び乗って滑り降りることにした。


 ブーツの底が鉄の欄干から赤い錆を剥ぎ取るバキバキという音がし、降りた先は胞子問屋の前で割れば次の日にはそこいらじゅうキノコだらけになる壜が並んでいた。


 見えた!


 あの老人はステッキをコツコツつつきながら、店のほうを見ながら歩いていた。


 カモを見れば、体は自然と動く。

 少しもわざとらしくないところを見せながら、カータは提督に斜め三十度の角度で軽くぶつかった。


「おっと、ごめんよ」


 そして、まんまとスリ取った。

 財布を丸ごとやってしまうと発覚がはやいので、一度取った財布から〈今週の優秀コイン〉をざっといただいて、財布を戻す。


 コンマ一秒の早業だが、そこは鍛錬あるのみだ。


 ……ちょっとだけクリニックでドーピングはしたが、本当にちょっとだけだ。

 それに処置後は一週間、いつも耳に何かが触れている気がして、パタパタと動きっぱなしだった。

 猫の耳はちょっと何かに触れただけで意志に関わらずピクピクパタパタするので、一週間身体精神もろとも疲弊状態を味わった。もうやめてくれと思っても、耳は勝手に動くのだ。


 つまり、何事にも代償はある。偉大なるカツオマタタビ神は鍛錬をさぼって改造手術で穴埋めしようとするものへの罰を特に重く設定している。


「しかし、こりゃ三十枚はあるな。左右のポケットに均等に振り分けなきゃ真っ直ぐ歩けないぜ」


 尻尾の毛が逆立ち、ハッと振り返る。

 さっきの老人の視線を感じたのだが、赤く照らされた老人のかぶる白い帽子は階段を登る人混みのなかに消えかけている。


(気づかれたかな?)


 だが、老人はスられたことに気づいた人間百人中百人がやる動作――体じゅうあちこち触りまくった末に大きな声でドロボー!と叫ぶ行為をしない。


 それどころか銀貨を使って買い物を続けているようだ。


「おかしいな。銀貨は全部スってやったはずなのに」


 ストレイキャットの掟『スった場所でガムを踏むな』を破って、老人の後をつけてみた。


 老人は人混みのなかでも他のディネガにぶつからず、優雅に滑るように歩いている。

 不意にその姿が消えた。落した小銭を拾うためにしゃがんだのでなければ、すぐそばの、ランタンがコードでつながった裏路地の入口へ曲がったことになる。


「おいおい、嘘だろ? ガスマスク団の縄張りじゃねえか」


 ガスマスクをつけた愚連隊が老人を取り囲んで、ぺしゃんこにして、有り金全部いただく様がホログラムで浮かぶようだ。


「ま、おれにはカンケーない」


 と、思っていたのに気づくと、ガスマスクをつけたディネガたちが老人を囲んでいる路地の奥にいた。


「有り金全部置いていきな、じいさん」


 一番大きなボスらしいディネガが言った。イノシシの顔を持っていて、特別大きなガスマスクをしていた。追剥の報酬を貯めてクリニックでやってもらったのだろう、頭だけの蛇の口から腕が生えるように見える肩アーマーと謎の軟体動物の顔が膝に移植されている。


 老人はポケットから小さな銅貨を一枚取り出して、それをそっと地面に置いた。


「ふざけんな! もっと銀貨があっただろうが! ちょっと痛い目みねえと分からねえらしいな。おい!」


 そう言われて、伸びた上顎の鼻がイカのものになった狼型ディネガと上半身が異常に細く下半身が脹らんだアンバランスなディネガが老人の体に手をかけようとしたそのとき、カータは跳躍して団長ディネガの頭を踏んで、そこから壁を走って、騒乱の場を大きく迂回して、踵で壁を蹴った。


 宙返りののちの着地の足は地面の代わりに狼のイカ鼻を選んで、これが飛び蹴り。

 本物の地面に着地してからは背面からの中段蹴りでアンバランスなディネガをゴミ缶が並ぶ壁まで吹っ飛ばす。


「なんだ、てめえ!」


「おい、じいさん」


 団長を無視して、老人にたずねた。


「おれを用心棒にしないか? いまなら格安だぜ」


「きみは近衛連隊勤務を希望するのかね? わたしは海軍の人間だし、もちろん王族でもないから近衛連隊については全く関与ができない」


「難しいことはいいからいくら出せるか言いなよ」


「三枚」


「はあ? 三枚!?」


 と、いいながら、カータは鉄パイプを持って襲ってきたふたりの団員を拳と打ち下ろしの蹴りでぶちのめしている。


「いまなら格安と言っただろう? 嫌なら別に構わんよ」


「それは本来おれが言うセリフだ。くそ、ここまで関わったら、もう後には引けねえじゃんか!」


 てめえ、小僧の罵声が飛び交うなか、カータは翼が生えたみたいにあっちで膝蹴り、こっちで掌打とガスマスクをぶち壊し、ついにとうとう団長との一騎打ちとなった。


「猫耳の小僧め、どうやら本気を出さないといけないようだな」


「そいつは楽しみだ。って、あれは何だ!?」


「え? なに?」


 と横を向いたところで正拳突きが横っ面に見事に入り、団長は一番あっけなく倒れた。


 カータはパンパンと手の埃を落し、


「慢心総じてガスマスクを割る。おい、じいさん。助けてやったんだから、ちゃんと礼金をはずめよな」


「構わんよ。ただ、その前にわたしから拝借した三十シリングを返してもらいたい」


「は?」


「きみとぶつかった後、体が三十シリング分だけ軽くなった。わたしはヒトの性は善だと思っているから、きっと魔が差した、後で返しに来てくれるだろうと思っていたわけだが、どうだね?」


「……チッ。わかったよ。ほら、ポケットを広げな」


 銀貨がジャラジャラとポケットのなかに流される。


「はぁー、損したぜ」


「では、報酬だ。手を出したまえ」


 総督が財布から取り出したのはヴィクトリア女王の横顔が打ち出された三枚のポンド金貨だった。


「え? は? これ、金? 本物か?」


「きみがわたしに返した分の二倍の価値がある。ここでの交換レートは知らないが。さて、用心棒くん。わたしはもう少し街を歩く。きみはここに詳しいようだから、案内をお願いできるかね?」

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