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1984年

 カルト教団の行列を追っていると、突然、彼らが消えてしまった。


 だが、提督は慌てなかった。


「こんなことはドイツの通商破壊艦を追いかけているときはよくあることだ。わたしにいい考えがある」


「さすがでございます。旦那さま」


「……」


「……」


「……」


「……あの旦那さま?」


「ふむ。これまではたいてい『わたしにいい考えがある』と言えば、いい考えが勝手に出てきたわけだが、やはり水が違うとダメなようだ」


 そのとき、真っ赤な顔をしたユウキが千鳥足の後で、よりかかっていたトタン板から音がすると言い出した。

 小さなフックのようなものを引くと、留め金が外れて、トタン板が倒れて秘密の入り口が三人の前に姿を見せた。


「やったっ。シン兄ちゃん、見てた?」


「うむ。見ていたとも。さすがは我が弟。殊勲章が授与されるよう推薦状を書いてやろう」


「えへへ」


 いざ前進と、入ってみたが、通信ケーブルがこんがらがってトンネルの壁といい床といい区別なく埋め尽くしていた。

 何度もケーブルに足を引っかけそうになったし、なぜか直前まで見えなかった磁気ドラムメモリに脛をぶつけたりと協商勢力は幾多の困難に見舞われたが、囚われのヴィクトリア姫を助けるべく、ケーブルを踏みつけ、磁気ドラムメモリは神を冒涜する言葉とともに蹴飛ばし、さらに前進すると、ナイル水源を探しに出た探索隊だって見たことはないであろう、不思議なものをいくつか見た。


 たとえば、イカ足ディネガが自分の足の一本一本に改札バサミ型のハッキング・デバイスを挟んで、自分で自分をハッキングしている姿だ。


「旦那さま」


「なんだね、フレデリク」


「あちらのディネガですが、非常に奇怪なことをしております」


「ふむ。きこう」


「あの足についている装置は他人の情報を読みとる装置なのですが、それを自分自身につけている、つまり自己秘密を自分で解き明かそうとしているのです」


「なに、フレデリク。驚くには及ばない。人間は常に自分自身を見つめなおして、前進するものだ」


「旦那さまのご高察には頭が下がります」


「そのような隠者が営利誘拐に協力するとは思えぬ。ヴィクトリア姫がどこにいるのか教えてくれるかもしれないぞ。そこの御仁、ひとつききたいのだが、つい今さっき、ヴィクトリア姫をさらった一団がここを通ったと思うのだが、どちらへ言っただろうか?」


 天井に開いている穴から差すネオンの灯りに照らされながらイカ足ディネガは目を閉じて、ブツブツ何かを言っている。


「おい、シン兄ちゃんがきいてるんだぞ。無視すんな!」


 と、ユウキが足を蹴飛ばすと、蹴飛ばされた足がふわりと持ち上がり、


「むぎゅ!」


 ユウキの上にかぶせるように降りてきた。

 大王イカクラスのゲソの下でジタバタしているユウキの足を、提督が左足を、フレデリクが右足をつかんで、ずるずると引っぱらなかったら、そのまま窒息していたかもしれない。


「仕方ありません。少し手荒いですが――」


 と、フレデリクはイカの足を挟んでいる改札バサミをひとつ外すと、それで自分の人差し指を挟んだ。


 すぐにイカ足ディネガが悲鳴を上げて、足を振りまわして、全ての改札バサミを外す。


「あちちちちちち! なにしやがんだ!」


「申し訳ございません。こちらもヴィクトリアさまの身の安全がかかっているものでして」


「お前、いったいどんなデータ流した? 常夏の海で小さなパラソルがついたカクテルを飲んでたところから急転直下、バーベキュー・グリルにのせられたんだぞ!」


「対ハッカー殲滅データです」


「お前、自分のなかにどれだけえげつないデータを飼ってるのか知ってるのか。ったくよぉ」


「こんばんは、イカの隠者殿。今日の出会いを記念した花火を打ち上げることができないのは免じていただきたい」


「なんだ、このじいさん?」


「わたしは大英帝国海軍中将アンドリュー・ホクスティム三世。こちらはわたしの執事のフレデリクと、それに……庭師見習いのカレイジャスです」


「何の用だよ? ヒトのこと、バーベキューにしかけたんだから、それなりの要件だろうな?」


「奇妙な一団に少女がさらわれたのです。その行方を追っています」


「奇妙な一団?」


「全員が仮想システム直結のゴーグルをしていました」


「世界線教会の連中か? アタマのイカれたあいつらのことを教えてほしくて、アタマがイカれた十二桁の数字を繰り返しておれに流し込んだのか?」


「はい。ちなみに二十六桁のものもあります。お試ししますか?」


 微笑むフレデリクを見て、ユウキが、ススス、と提督の後ろに隠れた。


「シン兄ちゃん、あいつ、何だか怖い」


「マツヨイグサの花壇で見つけた雑草を根まで焼き尽くしたときもあんなふうに微笑んでいた」


 冗談じゃねえ!とゲソ・ディネガがざっと説明した。

 我々の持つ肉体は一時的な保存箱に過ぎず、本体は異なる世界線を行き来する精神であり、その精神は高度な演算処理の後、データ化できる。つまり、データこそが存在の根幹である、という教義を真面目に信じている連中だった。


 提督が存在していることを考えると、ゲソ曰くアタマのイカれたと称される彼らの主張はそう間違ったものではない。提督は間違いなく、別の世界からやってきた存在なのだ。


「ただ、最近はやつらもただ仮想現実ソフトで満足することを覚えたんだよ。だって、いくら頑張ったって、サーバーより先には行きようがねえんだ。やつらの教祖はまだあきらめてねえみてえだが、知ったことか。だって、そうだろ? 異なる世界じゃよ、イカには市民権がなくて、ただ串焼きでしか存在できねえかもしれねえんだぜ?」


「そんなことはない。イタリア海軍との合同演習で食べたイカの香草パン粉焼きは非常に美味だった」


「それの何がフォローになってんだよ、クソジジイめ。ともかく、やつらに会いたいなら、そこのケーブルのあいだにある路地を行けよ。とっとと失せな。おれはセルフ・ハッキングすんだから、もう邪魔すんなよな」


     ――†――†――†――


 相変わらず磁気ドラムメモリは死角から提督たちの脛を攻めてきた。

 データだけでは生きていけないと思ったらしい、鉄仮面ディネガが米とスパイスをどこかから仕入れて、浅いが広い鍋にしこたまピラフを作り、このあたりの食事ミニマリズムを満足させていた。


 そのうち壊れた移動屋台が放置されて迷路みたいになった広場に出た。

〈データ・ヌードル〉のホログラムがざらついた影を浮かばせていて、ガラクタみたいにいろいろな機械をくっつけたディネガたちが仮想現実の世界に先端触手までどっぷり浸かっていた。


「ふむ。中国人街ライムハウスのアヘン窟のほうがまだ健全かもしれない」


 提督のいた時代、アヘンは万能薬エリクサーと呼ばれていた。頭痛がしたら、アヘンチンキを一滴二滴垂らしたコーヒーを飲めば簡単に治るし、赤ん坊に一滴飲ませると、その晩は夜泣きをせず、母親たちはぐっすり眠ることができた。アヘンの有毒性を訴える科学者たちもいるにはいたが、そこまで深刻には取られなかった。

 提督は『麻薬は毒である』という考え方が存在しなかった、最後のおめでたい時代の人間だった。


「煙草のほうが体に毒だと言っていたからなあ」


 と、言いながら、提督はシガレットケースから一本取り出し、フレデリクに火をつけてもらった。


「コカイン入りの歯痛止めドロップだって売っていた。アヘンで静かに陶酔するほうが、安いジンで酔っ払うよりも道徳的だった」


「旦那さまも麻薬を?」


 提督は首をふった。


「あの手のことを嗜むものたちは明らかに挙動がおかしい。少なくともわたしの艦隊ではアヘンは医療用モルヒネの形でしか存在させなかった。ドイツ軍の駆逐艦を見つけたのに、アヘンで砲手が使い物にならないなど恥だ」


〈世界線教会本部〉のネオンがチカチカする建物はまるで彼らの仮想現実が現実にあふれ出たようだった。

 使われなくなった蛍光色の幟で壁を包み、落書きだらけのソーラーパネルを全て下のほうに向け、バルコニーには少なくとも三機の電気複葉機が突っ込んで、壊れた電極から十秒に一回火花がこぼれ落ちていた。


「フレデリク。教会というものは荘厳さが重要だ。結局、我々はステンドグラスを通じてしか神を見ることができないわけだから、そうなると、教会は何があっても荘厳でなくてはならない。もし、皇太子プリンス・オブ・ウェールズの結婚式がウェストミンスター寺院ではなく、雨漏りすら直せないレスターディウス派のスウェーデン式教会などで挙げられたら、誰が彼を敬うだろうか、いや、敬わないだろう」


「旦那さまの反語はいつきいても心を振るわされます」


「わたしも信心深いほうではないことを告白するが、それでも教会をひとつ任されたら、これよりはきれいにする。ステンドグラスは重要だが、費用的な問題でどうしても用意できないのであれば、我々には清貧という逃げ道がある」


「おれ、シン兄ちゃんがキョーカイを掃除するなら手伝う!」


「よしよし。素直でいい子だ。たぶん、教会が何を意味しているのか分かっていないと思うが、そんな些末なことには目をつむろう」


 潜水艦のハッチみたいな重いドアを押し開けると、外見を裏切らないガラクタ部屋が待っていた。丸テーブルがあり、端子部が剥き出しのケーブルが何本も天井から垂れていて、反対側の壁には〈今月の優秀コイン〉というネオンサインがあって、へこんだ壁に防弾ガラスをはめ込んだ展示棚にいろいろな形をしたコインが飾ってあったのだが、ベコベコの靴ベラやサイダーの蓋に混じって、提督がどこかで使ったシリング銀貨も飾ってあった。


 見たところ、体は毛むくじゃらで手足が両生類のものらしい老ディネガがいるだけだ。

 ダブリンあたりのアーケードによく置いてある覗き見機械ピープショーみたいなものをいじっている。これは一ペニー入れれば、トルコのハーレムの秘密とか魅惑美女のインドダンスといったエッチな絵が動いているのを見ることができるスケベな遊戯機械だ。

 子どもから立派な紳士まで道を歩いていて、妙にエッチなものが見たくなったときに重宝される。


「そこのご老人、ひとつききたい」


「世界はいくつもある。わしはその信仰を捨てたりせんぞ。若いもんばバカばかりで簡単な娯楽に流れるが、なに、真実はきっとわしの考えた通りに用意されているのさ。そのとき、わしは異なる世界線の存在を感じる。あとは見るだけだ。だから、なのさ。屋台を修理して貯めたカネを全部こいつに突っ込んだんだからな」


「ヴィクトリア姫がどこにいるのかお教えいただきたい」


「そうさ。たとえば、わしに話しかけて、わしの作業を邪魔するヒト型ディネガが他の世界線からやってきたと言えない理由があるか? 確実にわしらは世界線を移動できる。ただ、肉体を置いていくってだけさ。精神なんて不安定な呼び名をやめて、データにすればいい。たったそれだけのことなのになんで、それをわしはできんのだ!」


 そう叫んで、老人は工具を投げたが、それは慌ててよけた提督の向こうへと飛んでいき、ドアにぶつかった。


 開いたドアから印刷機がまわる音と誰かを褒めたたえるシュプレヒコールが遠くきこえた。


「これは、まあ、間違いないだろう。リトル・レディはこの先にいる。銘々が高尚な義務に打ちふるえながら、姫をお助けしようじゃないか。さあ、協商戦隊、出撃!」


 提督はナイトとして毅然とした態度で敵陣に踏み込むために、スネークウッドのステッキを騎士剣のごとく両手持ちに構えた。

 その昔、つまり、まだ士官学校生で年齢もユウキとそう変わらないくらいの昔、イタリアから大量に輸入された安い竹のステッキを使って喧嘩殺法を熱心に体得したことがあった。

 ただ、これは英国紳士にはどうあっても似合わない代物だった――喧嘩殺法ではなく、イタリアの竹のステッキがである。


「さあ、相手にとって不足なし。姫を救い出すぞ。皆のもの、突撃だ。協商勢力に勝利を!」


     ――†――†――†――


「ビッグ・レディ万歳!」


 姫を助けに行って魔王の城へたどり着いたら、姫が邪神として崇め奉られていた。


「ビッグ・レディは我々を見ている!」


 部屋の、かなり大きな面積を占める一角で、たったいま刷られたばかりのポスターを見て、提督はおやおやと苦笑いする。


「これはこれは。キッチナー卿の志願兵募集ポスターによく似ているな。こんなふうに見ている人を指差して、『ブリテンはきみを必要としている』と書いてあるのだが、なぜかみな、こちらを指差すキッチナー卿の指を自分の人差し指で押すのだ」


 だが、このとき、こちらを指差しているのはペロッと舌を小さく出したヴィクトリアである(あざとい画を、と言われて、これが採用されたのだ)。


 教会のホールには大きな舞台があって、そこではヴィクトリアがバーチャル・アイドルとなり、偶像崇拝の対象になっていた。


「みんな、今日はありがとーっ」


「ビッグ・レディ! ビッグ・レディ!」


 偶像崇拝はディネガたちの視覚を司る器官からゴーグルを奪ったわけだが、この世界に実体をもたぬヴィクトリアのホログラムを崇拝することは、はたして仮想現実からの帰還と言えるのかどうか。


「あ、提督。見てください。このヒトたち、みーんなわたしの崇拝者です。提督もファンクラブ、入会します? いまなら特別会員になれますよ?」


「その光栄に預からせていただきます。しかし、さらわれてほんの数十分足らずでこのように崇敬を集めるとはさすがですな。リトル・レディ。あなたに敵うものはホレイショ・ネルソン提督その人くらいです」


 ユウキががなり立てる。


「おい、AI! 帰るぞ!」


「えー。せっかく調子に乗ってきたのに。わかりました。今日はみんな、ありがとう。ヴィクトリアは普通のAIに戻ります!」


 親衛隊となったディネガたちの悲痛な叫びを置いて、その場を脱し、ようやく、自分たちの居住区に戻ってきた。


 途中で、ユウキはまた眠ってしまい、シン兄ちゃんこと提督が背負っていた。


「今日は忙しい一日だったな」


「そうですねー。ただ、そこにいるだけなのに世間がわたしを放っておいてくれない。美少女AIの辛いところです」


「シン兄ちゃん……」


 提督は肩越しにユウキを振り返ると、閉じられたまぶたに光るものがあった。


 情にほだされたわけではないが、ふむ、と心のなかで腕組し(本当に腕組みをしたらユウキは滑り落ちる)、これまでの人生をふり返った。


「わたしは――結婚もしなかったし、家庭を持たなかった。海軍こそが我が家だと。だが、まあ、家族というものも悪いものではなかったのだろうと思いはするよ」

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