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HMSカレイジャス

 提督はあまり酒に強くなかったので、お湯割りラムグロッグを二杯飲むと、足元がふらふらして、まさにグロッキーになった。


「よ、よ、よいよい、よよい、よい、よいパン屋だったな。カレイジャス、知っているかね? パン屋を、そう、パン屋を、よろしいパン屋を試す方法はだ、いつだって、トマトスープにある。パン屋がパンをおいしく焼けるのは、ほら、ほら、当然のことだろう? ヒック」


 ちなみにいま、提督がユウキだと思って話しているのはフレデリクである。


「素晴らしいパン屋はスバラシイ・トマト=スープを作ることができる。そう、で、ツンツクツンはまさに最高のトマト・スープを出してくれたよ。そのことは否定しないだろう、フレデリク。ト、ト、トーマトの味が濃厚で、ノーコーで、それで、あれだ――(右手で目のあいだをつまみ、左手で指をパチパチ鳴らしながら)――そう、スパイシーだった。トマトが植物ではなく、魚だったのは盲点だったが、しかし、そんなことは些末なことだろう? だって、ツンツクツンはパン屋なのだから!」


 提督がフレデリクだと思って話しているのはホログラムのヴィクトリアである。そして、


「しかし、ですな、リトル・レディ。あのグロッグはなかなかでしたが、わたしはサイコーのグロッグを飲んだことがあるのですよ、リトル・レディ。そのレシピを特別に教えて差し上げましょう、リトル・レディ。まず、ネルソン提督の右腕を樽に放り込み、ジャマイカ産のダーク・ラムが樽の三分の二ぐらいまで注ぎ込み。それにありったけのレモンを絞っておいて、あとはお湯をくわえる。シナモンと丁子はなしにしましょう。これを熟成させるわけです。これは海軍博物館の特別室に保管されていましたが、わたしは士官候補生だったときにずいぶん飲んだのですよ。いや、いや、いや、あれこそ最高のグロッグですな。やや! 行き止まりの袋小路ですな。しかし、ご心配は無用ですぞ。あそこにベンチがあるので、あそこで休まれたらよいでしょう」


 と、言いながら、だいぶ前に帰った自宅のソファーにハンカチを敷いて座らせようとしている相手はユウキである。


 ユウキは目でヴィクトリアとフレデリクに助けを求めたが、ふたりは小さく首をふって、とりあえずされるがままになっておけと合図した。


 これだけ泥酔するのはジェントルマンとして、マズいはずなのだが、提督はだいたい酒を飲んだ日のことは覚えていなかった。


 いまは制服サーヴィス・ドレスのまま、ベッドに背中から倒れたので、フレデリクが皺にならないように丁寧に外套を脱がせていた。


「……アシュバートンくん」


 提督がそう言い、三人はそういえば、お互いファーストネームしか知らないので、このなかでラストネームがアシュバートンなものは手を挙げなさいと通信ツールでやりあったが、誰も自分がアシュバートンになった覚えがないので、誰も名乗りを上げなかった。


 ただ、ユウキはこの寝言で提督の弱みを握れるかもしれないと思ったのだろう、聴覚への集中コードを発動させて、不明確な発音の切れ端ひとつ逃がさない構えで次の言葉を待った。


「……各員が英国のために義務を尽くしたことは……神とブリテンと偉大なるネルソン提督がご存知だ……」


 …………。


「総員退避を……アシュバートンくん……ヴァルハラで会おう」


 …………。


「きみたちと共にこの……このカレイジャスで戦えたことはわたしの誇りだ……」


 ヴィクトリアが、そおっと、フレデリクはもっとそおっと、ユウキを見た。


 見ると、耳まで赤くなっていた。


「やめろ。こっちを見るな。――おれはもう寝る。お前らは勝手にしろ」


     ――†――†――†――


 翌日、ユウキは目の下に隈を作って、食堂に降りてきた。


「おやおや、寝不足かね。カレイジャス?」


「別に」


 実際、一睡もできなかった。

 マホガニー製の休養ポッドに入っても休眠コードを入れられても眠ることができなかった。


 眠ると、提督が艦とともに沈み、沈んだ先にユウキがいた、あの日のことを思い出すのだ。


 提督は腹が空いているらしく、紳士として許されるギリギリの速度で目玉焼きを食べている。


 一体誰のせいで寝られないと思ってるんだ?


 そもそも提督が乗っていた艦と自分につけられたあだ名が同じだったくらいでこんなふうに動揺する自分も気に入らない。


 朝食を終えると、ヴィクトリアを連れず、トレーニングができる場所を探しに出た。

 何もしていないとあの提督の余裕ぶった顔が浮かぶからというのは気に入らなかったが、しかし、ユウキ自身はパンが焼けるわけでもないし、トマト・スープが作れるわけでもないし、完璧に家事をこなせるわけでもない。


 ここにはテラリアにいたころの存在理由がなかった。


 かといって、新しい存在理由もない。


 気づくとエレベーターに現在修理中のデジタル・ボードがかかっていて、ボードのなかで十本の腕を持ったディネガが工作機械を手に持って、猛然とエレベーターを直しているアニメーションが繰り返し流れている。


 ユウキはかなり下の街区にやってきたようだった。


 いくつかの回廊から潮が柱にぶつかって二手に分かれ続ける渦の音がひっきりなしに鳴り響いていたからだ。


 線路があって、三両か四両編成の電車がやってきては客を吐き出し、客を吸い込む、鉄道独特の呼吸をしていて、用が済むとベルを鳴らしてすぐに出て行ってしまう。

 だが、数分もしないうちに列車がまたやってくるので、無様に走って、恥をさらすくらいなら、次の電車を待ったほうがいいと思い、乗客たちはこのあたりのディネガ独特の優雅な雰囲気をまとっている。


 晴れた空は窓や回廊から見えるが、肝心の駅はひどく暗くて、そこに焦げた煙をたてる屋台が加わって、視界不良は極まりつつあった。


〈キャタピラ野郎は禁止!〉というボードが左右の柱から針金で吊り下げられたマーケットがそばにあり、キャタピラをつけたディネガに床を切り刻まれるたびにビニールテープから無限の可能性を引き出して、涙の出る修復作業を繰り返した跡が見事ヒビだらけに残っていた。


 マーケットには怪しげで奇妙なものがあふれていた。


 売り物のスニーカーを十本の足全部に履かせた頭足類ディネガ、〈故障の原因になるので小型ディネガを入れないでください!〉とマジックで殴り書きされたリサイクルマシーン、くたびれた油を捨てずに使い続ける謎のフライ屋、ぎっしり並んだゴミ塗れの電気メーターとケーブルがデタラメに伸びる窃電せつでんコンサルタント事務所。

 石板と鋼鉄アームからなるディネガがヒトデ投げゲームの屋台で新聞を読んでいて、見事ヒトデを的に当てたらもらえるアメフラシの黒焼きは魚型ディネガが住む街の地下でつくられ、ボール箱に詰められて、ディネガランドじゅうに出荷されている。


 電球付きの派手な幟が道に迫り出した騒がしい街へ出た。

 尖塔、骨董店、薬局、モザイク着色の双子の神さまを祀る小さな祠。

 街全体がディネガランド外殻部の上にあり、見上げれば電線に散らされた空と雲。


 道路の中央を電車が走っていて、走っている自動車はみなエンジンとタイヤをうまい具合に自身のタンパク質と融合させたディネガたちだった。あるものはタクシー、あるものはトラック、あるものは移動屋台、あるものはただスピードのために走っていた。

 車体についてはテクノロジーの進歩と効率重視の風潮を素直に受け入れたディネガもいれば、クラシカルな車体にこだわり、車内に花を一輪差すための装飾ガラスの筒型花瓶を用意しているディネガもいた。


 全身長い毛に覆われた五人の長老ディネガが経営している百貨店前の工事現場では道路工事に従事している円錐ディネガたちがお昼休憩となって、鋼鉄より堅いドリルに変形させていた自分たちの体をもとのぷよぷよした体に戻すと、まるで計っていたような素晴らしいタイミングでアイスクリーム・バンと融合したディネガがやってきた。


 ディネガの数だけ生業があり、おれには何もない。


 引き返そうと思ったそのとき、肩をポンと叩かれた。


 リアムの見た目は相変わらず上級駆逐員ハイ・エグゼキューショナーのものなので、咄嗟に声をかけられるとハンドガンで撃ちそうになる。それを知っているキヅキから渡されたであろう白いワイシャツは脱いで、腰に巻いてしまっていた。


「本来なら代用皮膚があるし、その手のクリニックもあるんだけど。僕は彼女の右目と左腕を吹き飛ばしているからね。古いやり方だけど、戦闘用のスーツを皮膚に代用したら、こっちも向こうにやられていると彼女の自尊心をくすぐれるわけなんだ。円満な結婚生活の秘訣は自尊心だよ、ユウキくん。ところでここでは何を?」


「何もしていない。することがないから、ただうろついている」


 んー、とリアムは腕を組み、見えないハチドリでも追いかけるみたいに目を左右に動かした。


「ひょっとしたら、いけるかもね。ちょっとついてきてくれないか?」

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