いつかそのエゴが
イエズス会士の亡骸は三つの砲弾と一緒に帆布にくるまれ、敬礼する提督に見守られながら、水葬された。
だが、センチメンタルになっているヒマはない。課題は山積みだった。
まず、テラリアには帰ることができない。
それどころか、テラリアから追っ手を差し向けられる。
「せっかく改装したカレイジャスの家を置いていかなければいけないのは残念だ。あの庭も気に入っていたのだが」
「もっと他に考えることがあるだろ」
ふたりは潜水艦のブリッジから別々の方向を眺めていた。
フレデリクは司厨室で簡単な食事を準備していて、ヴィクトリアはそれを手伝っている。
舳先が割る水が甲板を洗い続け、水平線はいくつかの積乱雲と接して、暗い色の雨と世界じゅうの神秘を照らし出せそうな雷を飼っている。
ひょっとすると、大雨に見舞われるかもしれない。
「考えることはいろいろあるが、そうだな――きみの兄上がどうなっているか。それが心配なのではないかな?」
「司令のことは関係ない」
「自分にあの卑劣な暗殺者どもを送ったのが、きみの兄上かもしれないのだがね」
「……ロットが同じだっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「わたしは彼は監禁状態にあると思っている」
「……その根拠は勘か?」
「願望だ」
「よりひどいな」
「だが、余計なことを考えて、心を煩わされても仕方がない。いま、我々協商勢力にできることは座標9400445なる場所に行くことだけだ。そこに何が待ち受けていようと、何らかのこたえにはなるだろう」
猫の額ほどの広さの士官用食堂にはジョージ五世の小さな肖像画がかかっていて、ぐらぐら揺れる電球の下、ざっくばらんなステーキが大きなバターをとろかしながら、鉄板の上に横たわっていた。
「アメリカ人はフランス人の次に嘘つきだが、ステーキについて語るときは絶対に真実を述べる。曰く、肉は元気を与える。元気があれば悩み事が小さく見える」
このサーロインは最高級ではない。
が、フレデリクはこれを調理用のハンマーで念入りに叩き、筋をきちんと切って、柔らかくしてあった。
ユウキはしばらく手にフォークとナイフを持ち、ステーキをじっと見ていたが、そのうちナイフをポイッと捨て、ステーキのど真ん中にフォークを深々と刺した。
「カレイジャス。まさかとは思うが、きみはそのフォーク一本でステーキを持ち上げて、かぶりつく気ではないだろうね?」
それに対する返答として、ユウキはステーキを持ち上げて、ガブッとかみついた。
「いいかね、カレイジャス。ステーキを食べるときは最低限でもひと口大に切るぐらいは――」
と、ここでユウキにとって意外な助け舟ならぬ助けドレッドノートがフレデリクからやってきた。
「しかし、旦那さま。ユウキさまの食べ方は、元気いっぱいに見えます」
「わたしもそれに一票ですね」
「ああ。陛下。彼らの食事マナーに対する奔放さをお許しください」
と、提督がジョージ五世の肖像画に詫びていると、
「肉はまだあるか?」
――ユウキはざっくばらんなステーキをぺろりと平らげて、おかわりを要請していた。
「空腹なのでございますね。お待ちください、ユウキさま。スペアリブがございます」
断ち切られた肋骨つきの、焦げ目が魅惑的なスペアリブがやってきた。
ユウキはフォークをじっと見つめ、ポイッと捨てると、手を肋骨へ伸ばす――。
「待ちたまえ。もうナイフを正しく使ってくれとは言わない。ただ、お願いだから、手で骨を、あ――」
手で骨をつかみ、バリッと肉を外すと、ガツガツムシャムシャ食いついた。
「陛下。本当に申し訳ございません」
「でも、提督。いまのユウキさんはとても元気に見えますよ」
まもなく、かたん、と完食されたリブの骨が皿に放られて、ユウキが立ち上がる。
「あ、ユウキさん、どこに行くんですか?」
「ブリッジだ。外の空気に触れてくる」
「いってらっしゃーい」
「……」
「提督。思ったより平気そうですね」
「カレイジャスのことですかな?」
「はい。なんていうか、任務がなくなったら、自分の存在価値を見失いそうでしたけど、思ったよりお肉も食べて、食欲あるわけですから」
「確かにそうですな。フレデリク。きみはどう思う?」
「ユウキさまは大変打たれ強い方でございます。ただ、やはりお兄さまのことが気になっておられるようです」
「まあ、それについてはそのうち何とかしよう。それよりも――リトル・レディ?」
「な、なんですか、提督。その、じとーッとした目は?」
「リトル・レディ。あなたはまさか手づかみで食べていたりしませんよね?」
すると、ヴィクトリアのディスプレイに映った顔が提督から目をそらしつつ、
「や、やだなあ。女の子が両手に骨付き肉持って、左からひと口がぶり、右からがぶり、なんてするわけないじゃないですか~」
やろうと思えば、フレデリクにヴィクトリアの現在のデータの食べ方を調べさせ、ホログラムで投影することもできたが、レディにそんなことをするのはジェントルマンシップに大きく反する。
だから、提督はジョージ五世の肖像画に「本当に本当に申し訳ございません」と念入りに謝罪するにとどめたのだった。
――†――†――†――
温く、透明な緑色の水のなかへ目をつむり横たわったシンが沈んでいく。
音はしない。
タンクは深く、ある程度の深さに到達すると、シンは沈むことをやめ、かといって浮くわけでもなく、その状態のまま、動きを停止する。
目を覚ますための措置をとらなければ、永久に眠り続ける監獄。
ユウキはまぶたを開いた。
彼の温い緑色の想像は星空のあいだに消えていった。
エゴ。
「兄さん」
たった一度だってそう呼べなかった。
そんな簡単なエゴすら。
怖かったのだ。何が怖いのか分からないのが怖かった。
自分がどうなってしまうのか、分からなかった。
こんなふうに胸を締めつけられるなら、なぜ、自分を作ったものたちはエゴなど授けたのだ?
星の数だけ苦悩がある。
提督がこんなことを言った気がするが、いつのことだろうか?
しばらく考えて分かったのは、提督はそんなことを言ったことはなかった。
いま、自分のなかから出てきた言葉だ。
提督と会ったことで、シンが望む自分になれるなら、なろう。
星の数だけの苦悩の果てに何があるとしても、恐れるのはやめよう。
そして、いつか言うのだ。
兄さん、と。