煙草の効用
三日後、ユウキはヴィクトリアと共に訓練プログラムの試行のため、居住区域から出かけていった。
フレデリクは戦闘で失った新たな脚として、外殻装甲脚をつけた。
いくつかの候補があり、なかにはロケット弾を発射できるものもあったが、フレデリクが選んだのは燕尾服に合う優雅な雰囲気の装甲脚だった。
この装甲脚を装備して、紅茶を淹れると他のものよりもずっとおいしい気がした。
実際、ふたりはティーポット持参で配給センターを訪れて、ひとつひとつ装甲脚を確かめながら、お茶を淹れた。脚のパーツが紅茶とどんな関連性を有しているのかは分からないまま、英国紳士の勘で選んだ。
配給センターの職員たちはこの奇妙な要求に頭を悩ませたことだろう。
提督がフレデリクをお供に、パリッと糊を利かせたシャツをつけ、私服で遊歩エリアを歩いているとき、軍務省のエア・キャリッジがあらわれて、任意同行を求めた。
別に行ってもよかったが、フレデリクに手帳で今日の予定を確認させることを忘れなかった。
予定といっても、ユウキの部屋を改造拡張するくらいしかないほとんど白紙の手帳を開き、
「旦那さま。午後三時から約束がございますが、その時刻まででしたら」
「ふむ。では、同行しよう。ところで、誰が会いたいと言っていたかな?」
軍務省の三十一階に待っていたのはユウキによく似た青年だった。
この国の軍服はまったく階級が読めないが、これがヴィクトリアが言っていたシンという名の司令なのかもしれなかった。それならこちらも軍服で来たのだがと若干後悔したが、今さらあれこれ言うのも見苦しい。
「あなたは不思議な方ですね」
司令は言った。
「ここに来て、一か月と経たないのに元老院はあなたについての分析を急ぎ、〈林檎〉はあなたのいう海軍の魔法について静観すべきか活用すべきか悩み、そしてユウキは大きく変わりつつある」
「人は人によって変わることもあります。わたしとて、カレイジャスと出会い、変わっている、と思いますが、ここの風俗を取り込むのは少々難しい。服装も、嗜好品も、主力艦隊も、好みに合わないのですよ。ところで、あなたがカレイジャスの兄にあたる人物であるとききましたが、これは本当ですかな?」
「ロットが同じ、ということですが、言い換えれば兄弟ということになるでしょう」
「では、おききしたいのですが、他に530人の兄弟姉妹がいたというのは本当ですかな?」
「はい」
「彼らはみな戦死したのですか?」
「ええ。〈ディネガ〉との戦いで」
「そうですか」
「何か?」
提督は内ポケットからシガレットケースを取り出した。
「よろしいですか?」
「それは煙草、ですか」
「この都市には一本も存在しないことに驚きました」
「二千年前の消耗品です。鎮静作用であれば、コード入力で得られますから」
「煙草を吸ったのと同じ効果を得たいとき、そう自分自身の体に命じることができるというわけですな」
トントンと煙草をケースに軽く打ち、フレデリクが擦ったマッチでつける。
「以前から不思議に思っているのですが、なぜこの文明は〈ディネガ〉と戦うのですか?」
「あなたの見敵必戦と同じ理由です」
「なるほど。そういうことですか。司令閣下。あなたに伺いたい。その戦いはあなたの兄弟姉妹を失うほどの価値はあるのですか?」
「……」
「〈ディネガ〉は凶暴で人間を敵視している。それは分かります。最小限の武器を使う知能はあり、肉体は瓦礫を漁って得た機械と融合する。恐るべき敵です。しかし、この空の都市を犯すほどの武装は見られませんでした。それでも滅ぼしたいのならば、この都市には対地攻撃機能があるでしょうから、それを使えばいい。それなのに、カレイジャスやカレイジャスの兄弟たちをわざわざ送り込み、陸戦をさせる、その理由が分からないのですよ」
「……あなたは〈ディネガ〉と話をしたそうですね?」
「ええ。あのイエズス会士と」
「何をきいたのかお教えいただけますか?」
「〈ディネガ〉はかつて人間だった」
「……」
「二千年前。まだ、煙草が当たり前だった時代、何かがあった。そして、人類は〈ディネガ〉になった。生き残ったまともな人類は自分たちだけの国をつくり、そして、今に至る」
「……ユウキは知っているのですか?」
「いえ。どんな反応をするか分からない。ともあれ、カレイジャスが〈ディネガ〉と戦い続け、ガラスの水槽で子どもたちをつくり続ける理由は分かりました。あなたたちは〈ディネガ〉を知りたい。あなたがたと〈ディネガ〉を分けたものが何なのか知りたい。でなければ、このテラリアの人間が突如〈ディネガ〉になるかもしれない、その可能性がほんの数ミリでもある限り、子どもたちを闘いで消費してでもデータを集めないといけない」
「……一本、いただいてもよろしいですか?」
提督はうなづいて、立ち上がり、シンの前でシガレット・ケースを開けた。
一本選び取って、提督が自分のマッチを擦ると、シンは深々と煙を吸い込み、咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ! ああ、これは……確かに効率的ではない。体にも害だ。でも、不思議なことに、安らぐ」
「そのうち安らぎは消えて、ただの習慣になってしまう」
「気をつけましょう」
ちらりと目配せする必要もなく、心得ていたフレデリクは静かに部屋を出た。
シンは煙草を指に挟んだまま、ウィンドウのそばに立ち、水面が輝く湖を見下ろした。
「これから話すことはテラリアでも一部の人間だけしか知らないことです」
「口は堅い」
「〈ディネガ・エネルギー〉。当時はそう呼ばれていました。宇宙よりあらわれた強力なエネルギーです。それがこの星の人間に降りかかり、そして、ほとんどの人間は〈ディネガ〉となりました。〈ディネガ〉にならず、生き残った人間はひとつに集まり、生き残りをかけて戦いながら、科学力を進歩させ、ついにこのテラリアをつくりました。そして、忘れたのです。テラリアに居住する条件として、〈ディネガ〉と歴史の忘却を設定したのです。信じられないかもしれませんが、テラリアの住民はこの世界が創造されたそのときから、自分たちはテラリアの人間だと思い込んでいます」
「高度な科学都市で前提にされる非進化論。不思議ですな。それで、〈ディネガ〉を調査するのは?」
「あなたの推測通り、我々はいまだに自分たちが生き残った理由が分からないのです。ただ、また〈ディネガ・エネルギー〉のようなものがこの星に照射されれば、我々とて生き残れるかは分からない。我々の役目は多くの人間を忘却で保護しながら、〈ディネガ・エネルギー〉を明らかにし、確実な安全策を構築することなのです」
「……まあ、戦時体制でいちいち新聞記者に正直なことを言う愚は知っているつもりですよ。カレイジャスには言いません」
「申し訳ありません」
「これは単なる好奇心なのですが、カレイジャスにいずれこれを教えるつもりはあるのですか?」
「それが――決められないのです」
帰り道、提督は考えた。
天国でも地獄でもヴァルハラでもなく、ここに自分がいる意味。
〈ディネガ〉が元は人間だったとは言っても、それは二千年前のことだし、二千年前の〈ディネガ〉がそのまま生きているとは思えない。生まれて死んでを繰り返し何十世代も過ぎている。
ユウキは〈ディネガ〉が二千年前は人間だったときいても殲滅に怯むとは思えない。
もっと違うものがある。そんな気がした。
だが、わたしは軍人だ。政治家ではない。
「フレデリク」
「はい、旦那さま」
ふたりの前には幾何学的な庭園が開けていた。白い花を咲かせる緑樹。水路沿いの静かな道。刈り込まれた灌木の並び。
「イングリッシュ・ガーデンにしたほうがずっといい。そう思わないか?」
「申し訳ございません、旦那さま。イングリッシュ・ガーデンを見たことがありませんので、おこたえできません」
「では、カレイジャスの家をまた増築しよう。なに、きっと気に入るはずだ。蔓は自由に巻かれて、柳も楡も左右対称などの制限を受けない。園亭は緑に隠れてしまいそうなくらいがいい。ああ、フレデリク。きみにイングリッシュ・ガーデンを見せるのが楽しみだ。リトル・レディも喜ぶ。カレイジャスは――まあ、彼については保留しよう。それにしても、美しいもの、穏やかなもの、大切なものだけを愛でて暮らすことができれば、どれだけ幸福だろうなぁ」