花嫁の弔い
恵太が大学の学生課に紹介して貰ったバイトは割がよかった。
決められた時間ただ待機しているだけで給料が貰える。入試のバイト並みに楽なものだった。ついでに昼食も付いてくる。
一つだけ問題がある。
ドンッ、ドンッ。
コンクリ打ちっぱなしの広い空間に、無数に置かれた棺桶の中からその音がいくつも聞こえる。
死者が暴れている音だ。
火葬される死者が一時的に安置される場所で、恵太は蘇る死者を見守っていた。
人が死んだのち、起き上がるようになってから、もう随分経った。
人間は死ぬと一部の例外を除き、おおよそ72時間後に蘇る。
蘇るというのは正しい言い方ではない。一度死んだ者が再度目覚めたとき、生前の本人の人格は失われ、ただ呻き、人を襲うものと化す。起き上がった者ーー「蘇り」と呼ばれる者たちは生きている人間に襲い掛かる。不思議と「蘇り」同士では争わない。
あくまで彼らは動く死体だ。言葉を話すこともできず、意思疎通を図ることもできない。
恵太が実際に働いているのは葬儀社が経営する火葬場に隣接された安置所である。
恵太たちの役割は、安置所の中にいて死者の傍らにいることである。一応、不測の事態が起こった場合、迅速に保安部に連絡する役目もある。しかし、棺は頑丈な作りで、「蘇り」が自分で出てくることはまずない。現代版寝ずの番、といったところだ。
現在、一般人が許可もなく死者と共に同じ空間にいることは許されていない。理由は無論、蘇った死者に襲われる危険性があるからだ。亡くなってから72時間以内なら、起き上がることはないとされるが、そうではない事象も稀だがある。そもそも死亡時間が正確にわからず、蘇る時間がわからないこともある。そのため、法律で一律禁止された。
例外は葬儀関連業者、ならびに医療関係者、警察関係者である。民間の葬儀社については許可申請制だった。恵太も働くにあたって、会社に申請させられた。恵太の場合は大学の学生課経由だったせいか、すんなり許可された。身元が保証されていれば、許可は下りるものらしい。
恵太がこんなバイトをしているのは、もちろん金のためだった。貧乏家庭出身の恵太は親からの仕送りは望めず、生活費全額と学費の一部も自分で捻出しなければならなかった。
この仕事は誰もやりたがらないからか時給はかなりよかった。メンタルさえやられなければ、いいバイトである。ちなみに恵太の他にも何人か学生課からこのバイトを紹介されたが、全員一ヶ月も持たずに辞めた。
「溝口くんってメンタルつよつよだよね」
正社員の等々力が新たに棺を安置しながら言った。
「そうですか? 普通だと思いますけれど」
「いやいや何言ってるの。学生バイトでこんなに続いたの君くらいだよ。うちの新入社員ですら、この『見守り』で脱落して辞めてく子多いんだから」
はあ、と恵太は気の無い返事をする。
他のバイトや新人社員は恵太よりも切羽詰まっていないだけだと恵太は思う。自分だって好きでこんな仕事を選んでいるわけではない。だが、今と同じバイト代を得るためには自分の身を削らないといけないし、本来の学業が疎かになる。親に無理を言って通わせて貰った大学なのだから、きちんと卒業したかった。
等々力と数名のスタッフはいくつかの棺を安置していく。等々力は棺上部に作られた死者の顔が見える小窓を開けて、手元のタブレットの死者の名簿と確認していた。
人が亡くなるとすぐに火葬場か葬儀社に送られるため、まだ蘇ってはいない。たまに遺体の発見が遅れ、運んでいる最中に蘇り、既に暴れている死者もいる。既に棺の中だったのならまだマシだが、時には既に蘇っている死者を棺に入れることもある。無論それをするのはその道のプロである。
「おわっ!」
いつも冷静な等々力が大きな声を上げた。
怪訝に思い、恵太は彼の傍に行った。他のスタッフも何事かと集まってきた。
等々力が覗き込んでいた棺の窓の中を見て、恵太もぎょっとする。
それは女性の遺体で、丁寧に化粧された顔に純白のベールを頭に付けていた。女性が身に付けているのは花嫁衣裳だった。ウェディングドレスにしては首筋まできっちり覆われているのは少し珍しいと感じた。
「ドレス姿の仏さんは珍しくないけれど、花嫁さんかあ……」
「まだ若いのに可愛そうですね」
別の社員がそう言った。
「だねえ。新婚か、それとも……」
そう呟いて神妙な顔でタブレットをしばらく見てから、「溝口くん」と突然恵太を呼んだ。
「はい」
「臨時ボーナスに興味ない?」
この人は何を言っているのかと思ったが、恵太は力強く「あります」と答えた。
スーツ姿の恵太は緊張しながら、花嫁さん――ウェディングドレスの死者が安置された棺を複数のスタッフとともに、棺台車に移動させた。
今日は花嫁さんが火葬される日だった。
あのあと、等々力から花嫁さんの納めの式にスタッフとして参加する仕事を受けた。等々力曰く、進行は正社員の等々力がやるから、恵太は指示に従って簡単な雑務をすればいいとのことだった。提示された金額に恵太はすぐに飛びついた。いつものバイト代と比べものにならない時給だった。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
等々力に声を掛けられ、棺台車の持ち手を握り、そっと押した。
花嫁さんと共に、家族が待つ火葬炉前へ向かった。
安置所と火葬場は繋がっていて、外に出ることなく、火葬場に移動できた。
職員しか通らない道を通り、幾つも火葬炉が並ぶ場所に着く。棺の前に喪服姿の人間たちが何組もいた。いつもの職場と違い、死者よりも生者が多い光景に恵太は少し不思議な気持ちになった。
「冬島家ご家族さま、お待たせいたしました」
そこにいたのは花嫁さんの両親と思しき中年の男女と、花嫁さんぐらいの年齢の若い男女だった。
彼らは無宗教らしく僧侶や神父などはいなかった。
恵太は火葬炉の前で棺台車を止めた。
納めの式を進行させる等々力の後ろで恵太は静かに待機した。不躾にならない程度にそっと家族たちを見る。
位牌を持った父親と遺影を持っているのがもう一人の娘らしい。二人は沈痛な面持ちでいた。母親はずっとハンカチを目に当てている。若い男性は遺影を持った娘の隣にいて、彼女の背にそっと手を当てている。きっと花嫁さんの相手だった人だろう。
粛々と納めの式が進む中、ガタンと物音がした。
棺の中から。
それからーー
ドンッ、ドンッ。
静かな空間に荒々しい音が響く。
「美菜子! 美菜子!」
母親がハンカチを捨て、棺に駆け寄り、縋りつく。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
「開けて! この子はまだ生きているわ!」
隈ができ、血走った眼で母親はこちらを見た。
「お前、やめないか」
「お義母さん、落ち着いてください」
父親と男が母親を止めようとする。
「あなたたち何言っているの! 美菜子は生きているのよ」
「あの子は死んだんだ。これはもう……」
「生き返ったのよ! 『蘇り』なんかじゃないわ!」
「大変恐れ入りますが、冬島美菜子様はお亡くなりになられてから72時間経過されました」
静かな声で等々力が告げる。
「残念ながら、もう」
「蘇り」です。
という言葉を発さずとも、その場にいた全員が等々力の言おうとしたことを理解できた。
母親は床に泣き崩れた。父親からも嗚咽が聞こえた。男は何も言わず、下を向いた。
その横で、棺の中からドンドンと叩く音が聞こえ続けた。恵太が棺を火葬炉の中まで運び、扉が閉まるまでずっと。
扉が閉まるまで、恵太は教えられた通り、深く頭を下げた。
そっと息を吐いてから、頭を上げると、遺影を持った娘の顔がちらりと目に入った。
それを見て、恵太はぎょっとする。
女の口元は僅かに微笑みの形を作っていた。
女はすぐに後ろを向くと、両親たちと控室へ去っていった。
「あの等々力さん……」
「どうした?」
「……いえ、何でもないです」
等々力の態度は普通で、女の顔を見ていなかったようだ。いや、恵太の見間違いかもしれない。
ご遺体の火葬が完了するまで、恵太も休憩することとなった。缶コーヒーを買い、ロビーの片隅のソファーにそっと座った。大して何もしていないはずなのに疲れた気がした。
そうしてしばらく恵太はぼんやりとしていた。
「あの、少しいいですか?」
突然声を掛けられ、そちらに目を向けると、花嫁さんの姉妹がいた。
「あっ、あ……え、あ。この度はご愁傷様でした」
恵太は慌てて立ち上がり、彼女に向かって深くお辞儀した。正直、これが適切な態度なのか自信がなかった。
「あたま、上げてください」
「は、はい……」
「わたし、冬島美菜子の姉です。先ほどはお世話になりました」
そう言って彼女は軽く頭を下げた。
「隣、いいですか」
「あ、はい、どうぞ……」
彼女は隣のソファーに座った。恵太も腰を下ろした。
恵太は彼女に何か話しかけるべきかと思ったが、何を言えばいいかわからず黙った。
「わたしの隣にいた彼、わたしの元婚約者だったんです。妹と婚約する前は」
え、と思わず恵太は言ってしまった。
「式に向けて頑張って準備して、もうすぐってときに、妹の妊娠がわかったんです。父親は彼でした」
「彼も父も母も、彼の父も母も土下座して、結婚をやめてくれと言われました。妹の子供を父親のいない子にさせないために」
「妹は泣いて謝りました。彼と結婚することを許してくれって。お腹の子供のために、わたしの甥か姪のために」
「彼は言いました。妹とその子のことを守りたいんだって」
彼女は淡々と、本を朗読するようにそう言った。
「わたしに選択肢はありませんでした。もうあんな男と結婚したいとも思いませんでしたけれど」
「そうして、妹とあの男の結婚が決まりました。本当なら、今日が二人の結婚式でした」
「でも、妹は自殺しました。姉への良心の呵責に耐えきれないと遺書に残して」
そこまで言うと、彼女は恵太の方を向いて、微笑んだ。
「あの女がそんな殊勝なことすると思いますか?」
恵太は喉が乾くのを感じた。しかし、缶コーヒーを飲むどころか、指一本も動かせなかった。
「多分、わたし妹の腹を蹴るべきだったんでしょうね。そこまでしなくても、あの女に手を上げればよかった。いえ、言葉で詰ればよかった。なんで、わかったってだけ言ったんだろう」
「仮死状態にして、喉を潰すよりも簡単なことだったのに」
彼女は笑みを深める。
「どうしてだったと思います?」
恵太はごくりと、唾を飲み込んだ。周りの音が遠い。
「わ、わかりません……」
そう答えると、彼女は少しだけ目を伏せてから、「そうですよね、わかりませんよね」と言った。
そして、彼女は立ち上がる。
「では、失礼します」
背を向けて、去ろうとする。
「あ、あの……!」
恵太は立ち上がり、彼女を引き留めた。
「なんで…………おれにそんな話したんですか?」
その話は本当なのかと聞こうとしたが、口から出たのは違う言葉だった。
彼女は振り返ると、こちらに戻ってきた。
「絶対に人に話してはいけないけれど、誰かに聞いて貰いたい話ってありません? 身近な人には話せないけれど、事情を知らない人に聞いて貰っても、わかってくれない。そんなのありませんか?」
「それに、あなたはこの話を誰にもできないはずですよ」
「だって、あなたは生きているあの女を炉の中に置き去りにしたのよ」
あれからも恵太はバイトを続けた。恵太に選択肢はない。
「うわっ、マジか」
棺を安置していた等々力が大声を出した。
「どうしたんですか?」
「この仏さん、あのときの花嫁さんのお相手だよ」
その言葉に恵太は黙り込む。
「自殺かね…… 無理もないか。可愛そうに」
「ところで溝口くん、臨時ボーナスに興味ない?」
「ありません」
恵太は即答した。