孤独を知らない悪しき魔女 02
汚れる作業をするときにルーナが着る服は、もっぱら割烹着だった。
フリルのついたエプロンを着るのは、ルーナにとって人生で初めての経験だ。
伸ばしっぱなしの髪を適当にくくって丸め、三角巾を被る。
鏡で見た感じでは女の子らしすぎて違和感があったが、フォルモントの方が数倍違和感があったため良しとした。
英雄フォルモントがフリルはついていないとはいえ、エプロンを着けて三角巾を被る姿を見る機会が自分にあるだなんて、ルーナは想像したこともなかった。
フォルモントは意外にも庶民的なようで、もたもたしているルーナより先に床に転がっている明らかなゴミを持参した袋に放り入れていた。
「……掃除とか、するのね」
「ああ、ガキの頃はよく家事させられててな。一通りのことはできるはずだ」
「貴族出身ではないの?」
騎士に平民がいないわけではないが、隊長クラスになると平民はほぼいないと言ってもいい。
戦闘技術などで正当な評価をされることは珍しく、貴族だからという理由で上層部に置かれるのが、この国の騎士団だ。
ルーナも掃除の手順がわからないなりに、書きかけのメモなどをフォルモントが持っている袋に入れながら聞くと、彼は頷いた。
「そ。隊長クラスで珍しいだろ。でも、オレはほら。英雄だから。英雄を庶民だからって理由で下級騎士にしとくより、上に上げちゃった方が士気もあがる」
「平民で出世すると、面倒なことが多くない?」
「ルーナも出世したからこそ、面倒なことがあったと」
干からびた薬草を拾って顔を上げる。
こちらを見下ろしているフォルモントは、笑顔なのになぜか恐ろしく見える。
彼の背後の窓から射す光が逆行なのが悪いのだろうか。
見てはいけないものを見た気がして、いそいそとゴミを集めながらルーナは答える。
「そりゃ、いろいろあったわよ。城に行けば、この街に居るより面倒なことばっかりだわ」
「そうか。研究成果の提出とかで、城に行くこともあるもんな。で? 誰に何された?」
「誰に何って……。あんたに言ってわかるわけ?」
「わからなくても、わかるようにしておくさ。顔と名前を覚えるのは得意だからな」
「覚えてどうすんのよ」
「安心しろ。手は出さないから」
「だから、どうすんのよ!」
「誰に意地悪されたんだ」としつこく聞いてくるフォルモントは妙に恐ろしい。
答えてはいけない質問な気がして「忘れた」と伝えたが、それは事実だ。
ルーナはフォルモントのように人の顔と名前を覚えることが得意ではないし、意地悪をしてきた人間をいちいち覚えていられない。
研究を盗まれかけたことも、書いていった論文を燃やされたことも、誰がやったかなんて覚えていたら心が保たないだろう。
「エーゲリアの連中にも意地悪されてるだろ? 悪しき魔女なんて呼ばれて」
城でルーナにちょっかいを出していた人間を探ることは諦めたらしい。
フォルモントは苦々しく呟く。
その噂を知っていたのかと少し驚いた。
「知ってたの?」
「知ってるよ。防衛隊長だもの」
当然のごとく頷くフォルモントにぽかんとしてしまう。
「じゃあ、なんであたしのこと名前で呼ぶの?」
「は?」
「あたしを名前で呼ぶと、呪われて声が出なくなるって噂があるんでしょ?」
「なんじゃそら。……そういや、目が合うと呪われるとか、触れると腐るとかそんな噂もあったな」
今思い出したとでもいうような態度で、フォルモントは顎に手を当てる。
ルーナは愕然とした。
彼はその噂をすべて知っていて、ルーナの名を呼び、目を見て話し、果てには頭を撫でていたのだ。
考えてみればフォルモントはエーゲリアの防衛隊長なのだから、そのエーゲリアで流れる噂については知っていて当然だ。
でも、まさか知っていてあんな接し方をする人間がいるだなんて思ってもみなかった。
今度はルーナがぽかんとしていると、フォルモントは「なんだよ」と眉を寄せて不満そうにする。
「オレがそんなことでルーナを差別すると思ったか?」
「差別しない人はいなかったから……」
「じゃあ、オレは特別ってわけだ。あ、いや、アイゼンもだったか……。でも、やっぱりオレは特別ってことにしたいしな」
確かにアイゼンもルーナの目を見て話し、家名ではあったが名も呼んでくれていた。
彼もエーゲリア防衛隊の副隊長なのだから、噂を知らないはずがない。
噂を知っていて尚、自分に普通に接してくれる人間がいるのだということに驚いているルーナに、フォルモントは更に驚くことを提案してきた。
「じゃあ、オレはルーナのことはルゥって呼ぼう。なんか親しげでかわいいし」
「るぅ!?」
「オレのことはなんて呼ぶ? ノックス隊長なんて、よそよそしいだろ。命預けてる仲なんだからさ。あ、顔ファンだから照れちまう?」
ニヤッと口角をあげてキメ顔をするフォルモントからは、自分の顔面への自信を感じる。
普通であれば少々イラつくところではあるのだが、顔が良すぎて彼の顔面への自信は当然のように思えた。
キラキラのフォルモントの顔に一瞬見惚れて、ぽやぽやしてしまった気持ちを頭を振って払う。
それからルーナは、「無理無理無理!」と両手を振った。
「無理よ。なによ!? あだ名で呼べってこと!?」
「そうそう。親しい奴はフォルって呼ぶんだけど、それでどう?」
「どうって……」
「呼んでみて」
床にしゃがんでゴミを集めているルーナの前に、フォルモントが屈む。
床の染みを見つめるルーナの視界に、フォルモントの影がかかった。
心臓がドキドキいっている。
誰かをあだ名で呼ぶなんて経験はしたことがない。
緊張を押し殺して、そろりと顔をあげる。
ルーナの赤い目は、知らない間に羞恥に潤んでいた。
「フォ、フォル……」
決死の思いで名を呼ぶと、フォルモントの月色の瞳が見開かれる。
恥ずかしすぎたルーナが下唇を甘く噛むと、フォルモントは困り果てたようなため息をこぼしつつ頭を抱えた。
「はああ……」
「な、なに!? 間違ってた!?」
「間違ってない。大正解。ありがとう、ルゥ。一生そうやって呼んでくれ。ありがとう」
なぜかやたらと感謝してくれたフォルモントが、ルーナの肩をぽんぽんたたいて立ち上がる。
一体全体なんなのだと混乱しているルーナに構わず、フォルモントは背を向けた。
「さて、ルゥ。呼び名も決まったところで、今日は一日お掃除をがんばろう。心臓のメンテは夕飯の後だっていいだろ?」
「あんた、この後仕事なんじゃないの?」
苦手な掃除もフォルモントの綺麗すぎる顔面にいちいち感動してしまう時間も、昼までには終わるだろう。
そう思っていたルーナに、フォルモントは「いいや!」と首を横に振った。
「残念だったな、ルゥ。仕事を理由に追い出そうったって、そうはいかないぞ。なんせ、今日のオレは非番だ」
親指で自分を指さして笑うフォルモントの笑顔は、傲慢なガキ大将のようだった。