【オリジナル大人百合】先輩が後輩に耳かきしてお話するだけ
棒が穴に入った。
横になった天野さんは腕を一度小さく振動させ、目をぎゅっとつむって、身体を硬く縮こませる。
「あまり奥まで入れませんから安心して」
「はい……!」
私の部屋で起きた事実の一部を抽出してみたけれど、特に意味はない。まあ、そんなわけないけれど。
棒というのは、竹串の耳かき棒のことで駅前のドラックストアで3本セット400円のものだ。普通のものよりも細い。
部屋にはカーテンが端を覆うお気に入りの大きな窓から、昼下がりの陽光が差し込んでいた。部屋の主たる私は白いソファの腰掛け部分を背もたれにして、カーペットを敷いた床に正座している。横には座卓があって、広げたティッシュと、中身の飲み干されたカップが二つ置いてあった。
私に膝枕されている天野さんの頭頂部は私のお腹の方を向いており、くっついている膝小僧のちょうど間に置かれている。彼女は右耳を天上に向け横向きで寝そべって、緊張からか身体をこわばらせながら、白いクッションを胎児のポーズで抱いていた。天野さんの白パンツに黒パーカーな胴体と四肢がすぐ傍にあって、呼吸に合わせて僅かに上下する胸の運動まで分かる。そして、私はそんな彼女の耳の穴を覗き込んでいる。
私は天野さんに耳かきをしようとしていた。
棒の先端が届きやすいように、左手を耳の淵に添えて、親指を耳朱手前に置く。浮かせた耳かき棒のさじになっていない裏面を、外耳の壁に沿ってマッサージするようにくるくる動かす。天野さんは、まだ全身が霧雨に囲まれたように、緊張がぬめりを帯びていた。安心を呼び起こすために話がしたくて、わかりきっていることを尋ねる。
「痛くないですか?」
「は、はい」
天野さんが微動だにせず答える。痛いことをしていないので当然。
「いま、触ってるのは耳かき棒の裏なので痛くはなりません。浅いですしね。力が抜けてきたら耳のふちの汚れからとります」
「な、なんかプール前の塩素消毒槽とかシャワーを思い出します」
「そのうち慣れますよ」
しばらく続けると、天野さんの全身の力が徐々に緩んできた。それを見計らってさじを移動させる。耳の上の付け根部分、ふちの始まりの窪みに優しく先端を触れさせて、ゆっくり弧を描き下まで掻いていく。
「そんなとこもやるんですね」
「こういうとこに汚れが溜まりやすいんですよ」
掻いたさじに微量に溜まった垢を、机の上に広げたティッシュになすりつけて落とす。んー、期待するほど汚れてない。ここに来るまでに洗ったかな。確かに私でも洗うな、それは。残念。
また、耳の上の付け根部分に戻り、今度はさっきのすぐ下の窪みを探る。肌を傷つけないように、ゆるくゆるく。
「力加減はどうですか?」
「えと、いい感じです」
横顔の天野さんがはにかむ。その拍子に彼女の燃えるような赤毛のが耳の上にはみ出した。さじを離して、ミディアムロングのそれを指でといて、撫でつけて整えなおす。天野さんはされるがままに、時々指や肩をぴくりとさせながらも、穏やかに呼吸をしている。
……無防備すぎて嬉し恥ずかしい。膝の上に、他人が自分を信頼して身体を預けてくれることに対する素朴な感動があった。頭って人間の急所なんだもの。
「眠たくなったら寝ても大丈夫ですよ」
「うー、……はい。ありがとうございます」
さすがに眠るまではできないだろうけど、一応許可を出しておく。
また、さじを耳に触れさせる。次は耳の穴から続く耳の真ん中下にある窪みだ。ここはそんなに汚れはでないので、あくまでもマッサージ目的である。さじ裏で軽く押して、なんらかのツボを刺激する。耳はツボだらけなので、てきとーに押せば何かしらに当たり、気持ちがよくなるらしいのだ。
「そろそろ、また中に入りますよ。ゆっくりやりますから」
「はい……」
「ちょっと汚れが見えますね。取っていきますよ」
「……」
さすがに天野さんのクッションを抱く、腕の力が強くなる。両手とも、むぎゅうとその端を握りしめていて、クッションに痛覚があれば暴力だったなあとか思った。
左手の親指で耳朱の手前を外側に押して、耳の穴を正面に向かせる。これで穴の中がだいぶ見やすくなる、というのはただの願望で、実際は耳の奥は光が当たらないので全く見えない。まあ、耳掃除自体はやりやすくなるけど。
また背面を壁側にして入り口付近の壁につける。それを慎重に入れて最初と同じ動きをした後、くるっと棒を回して、さじ側で弱く中をかしかしと掻いてみる。
「どうですか?」
「ん……、だいじょうぶです」
そーっと、そーっと、さじを持つ側の腕の力を意識しながら、穴の中を降りていく。天野さんは時折、手や腕だけをぴくっとさせる以外は全く動かなかった。先端をゆるく中につけては離し、出てくる微量のパサパサの垢をティッシュに落としながら、何度も続ける。
「痛くありませんか?」
「だいじょぶです……」
若干たどたどしく天野さんが答える。目に見える範囲の汚れをさじで掬って、暗くてよく見えない部分は、さじの先の感覚で探り、痛くならないように気をつけて掻き出した。それでも、入口から約1㎝以上には触れないように気を付ける。
下の窪みの中で、先端がなにか硬いモノに触れたときは思わず高揚して唾がとばっと出た。それを飲み込んで喉を鳴らすと、ゆっくり、ゆっくりその硬いモノの表面を撫でて、気持ちを落ち着ける。かりっ、かりっ……と、先から棒を通して、手に乾いた感触が伝わってきて、少しずつ垢が全貌を現す。
「わぁ~……!」
「え?」
「動かないで。大きいのがあります」
「ぅ、」
また天野さんが身体を縮こませ、クッションを抱き潰す。その間に、出てきたブツを確保しようと試みた。いま、天野さんに動かれたら、鼓膜まで落ちてしまうかもしれない。根気強く、丹念に指を操って、さじにそれを乗せて完全に外に取り出すことに成功する。
「おわー、取れました」
「ううー、見えない」
「あとで見せますから」
「ううー」
だいたいきれいになったので、次は赤ちゃん用の綿棒を手にとる。このために、わざわざ例の駅前のドラックストアで買ったのだ。大量に余っても掃除や化粧で使えるので問題ないところが美点である。
綿棒はふつう耳かき棒よりかは気を遣わなくてもいいが、赤ちゃん綿棒はかなり細いのでそうもいかない。ちっちゃな脱脂綿の塊を穴の中にゆっくり這わせると、天野さんが、ん……、と、小さく声を漏らした。
「痛くないですか?」
「はい……」
天野さんが上擦った声で返事する。なーんかやらしーぃな~~~~……とか思いながら、細かい粉を綿の表面に巻き込んでいく。軸を人差し指と親指で挟んで優しく持ち、ゆるゆると回転させ、中の壁に触れるか触れないかの間隔を保ちながら回す。絶対に荒く動かさない。
「っ……、…………」
口を半開きにして目をつむっている天野さんの、クッションを握る指がピクピクと、小さく痙攣している。気持ちいいですか? と尋ねようとして罪悪感と恥がブレーキとなり、やっぱりやめた。普通にエロいだろ。
「どうですか?」
「く、く、すぐったいですこれ。なんか涎出そう」
「いやですか?」
「いえ……」
天野さんが照れながら答え、口を真一文字に結ぶ。触れてる耳に血液が集ってほんのり赤くなっていた。綿棒が汚れたので、新しいのに変えてまた続ける。およそ5kgな頭をずっと膝上に乗せて正座しているせいで、そろそろ脚が痺れてくる予感があった。
「居待さんなんか、……慣れてますね」
「角栓取る動画とかたまに見ますから」
「因果関係がわかんないっす!」
「ほら、こっちはこれで終わりましたから反対向いてください」
「はぁい」
天野さんが従順に身体の向きを変え、頭を乗せなおす。私はまた彼女の耳回りの赤毛を整えて、その毛質を確かめるように指で弄んで、ついでにこめかみ付近もすくようにわしゃわしゃと撫でた。
「ふ、ひゃ……」
彼女の噛み殺し損なった欠伸が、そのふくふくほっぺの筋肉を揺らす。このまま続けると本当に寝てしまいそうだ。
ふと、意識がふやけて、視点が撹乱し、物体の輪郭が曖昧になる。外から自動車が走る音、犬の吠える鳴き声が聞こえてきて、日曜の午後の長閑さを助長させていた。さっき食べた焼きそばのおかげで、お腹は適度に満ちているし、空調設備を使用しなくても季節は快適な温度を提供してくれている。
膝上の天野さんだけが、この平穏な日常の中で異質だった。
一週間前の日曜日、寝る前に天野さんとメッセージアプリでやり取りをしていたら、何を思ったのか天野さんがそれまでの流れをブチ切って、居待さんに耳かきしてほしいですの要望を伝えてきた。快刀乱麻、剛毅果断、勇猛果敢すぎる。それをかって即許諾した私も私だった。『いいですよ』と送った後で、ベッドから半身だけ起き上がってから、少しの後悔が肺を浸食した。
「うーん……」
いや、距離感がおかしい。
天野さんは課の後輩で始めは色々あったが、今では異様に私に懐いており、私もまんざらでもない感じだそうだ。……まぁ、誰だって太陽みたいに明るい女の子に慕われたら、そりゃ嬉しいですからね。お姉さんこれくらい許しちゃう許しちゃう。そして、客観的にみれば、私が快くオッケーしてる時点で、天野さんの距離の計り方はそこまでおかしいものでもない、のだろう。私が他人にビビってるだけで。というか天野さんはまず同性に対して元々かなり友好的な人でまあ、そこ付随する思考に思うところはあるけれど、追及できないでいた。閑話休題。
「いまちさん、じょうずです」
「それはどうも」
反対側の外耳道もかりかりと掻いていく。力を入れないように、さじの先がいきなり当たらないように、アイラインを描く時くらい慎重に。
「もしかして子供とかいたりしますか?」
「どうしてです?」
「実はお子さんにやってたから上手いとか」
念のためさじを離しておいた。
「いるっていったらどうします?」
「えっ?」
横顔から見える、天野さんのまるくて黒い瞳がひとつ、私を見上げる。その視線には好奇心と真剣さが同居していて、思わず唇を軽く噛んだ。
「いるんです?」
「いませんよ」
「なんだ」
「結婚してたことはありますけど」
そこまで話すつもりはなかったけれど、つい口に出た。いや、いつか話そうとは思ってはいたので丁度いい。
「は……?」
ちょっと、待って待ってと天野さんが起き上がった。色素が鮮烈な髪の、左右への微震に目がとまる。
「えー、えー、嘘だ。冗談でしょう?」
「三年で離婚しました」
「えー、うわー、マジですかー……」
天野さんが苦笑いに近い表情を形成する。こちらとしては狙い通り驚いてくれたのでそこそこご機嫌だ。
「それは、詳しく聞いてもいいお話なのでしょうか?」
「話してもいいですけど、耳かきは?」
「えーでは、やりながらで」
「相づちはあまり打たないこと。耳が動いて危ないですから」
「はい」
神妙な顔つきになった天野さんがまた、私の膝に頭を乗せて寝転ぶ。私はまた棒を持ち直して、耳殻に触れた。
「特に面白い話でもないですけど。大学時代に付き合ってた人と結婚して、この仕事になる前に別れてって私から言いました」
「居待さんでも恋人とかいたんだ」
だから話さないで、って、
「どういう意味ですか?」
「えっ! と、悪い意味ではなくてですね。なんか、浮き世離れしてるイメージがずっとありましたから。そういうの、いたんだと思って」
「そうでもないでしょう」
「そう、ですね。はい。えー、その旦那さんだった人。いまどうしてます?」
「んー……、どうでしょうね。その辺の道端でのたれ死んでたら、さすがに連絡来ると思いますけど。どこで何してるんでしょうね」
ほんとによく知らなかったので意味深に誤魔化した。すると天野さんは私の物言いを真に受けて黙る。素直でよろしい。
お互いに無言のまま耳の汚れを取り続ける。ごりごりさりさりばりばり。……という音は私には聞こえてこないけれど、天野さんの鼓膜はそんな感じに揺れていると思われた。竹串に飽きたので赤ちゃん綿棒に移行する。今度はくすぐるようにではなく、耳の中を優しく撫でつけるように動かす。天野さんの垢の質は乾いたものだったので、そこでベビーオイルの用意を忘れていたことを思い出して悔しがった。今度は必ず……いや、もうしないと思うけど。
「もうそろそろ終わりますよ」
「うー……ん」
心地よさそうに目と口を閉じている天野さんが不明瞭に発声する。外耳道の上の窪みのところに綿棒をふんわり押し込んでイジイジしてから、さかさまに持ち換えて、全体を軽く拭いた。役目を果たした細い綿棒を、ティッシュの上に並べた使用済みの列に加える。
「はい、終わり。お疲れ様でした」
「……ん」
そう告げると、のそりのそりと天野さんが名残惜しそうに頭を持ち上げて座る。なんだか年寄りのシーズーみたいな動きだな。まあ天野さんはボーダーコリーなんだけどね。それはいまどうでもいいけど。
「えー、……結構なお手前で」
「お粗末さまでした」
「ものすごく痛かったらどうしようって心配してました」
「そこそことれましたよ。これ、さっき言ってた大物」
座卓の上の成果物を視線で指して見せた。それを見た天野さんは唇を一度引き締めた後、血行が良くなった頬をほころばせて一言。
「恥ずかしいですね」
その感覚はかなり常識的だと思う。私の脚は血液の循環が滞って痺れていますが。つつかれたらマズい、けど、天野さんはそういう悪ふざけを私にするかな? よく分らない。顔面に笑顔を張り付けたまま、さりげなく脚を崩して座りなおす。
天野さんは柔和な笑みを浮かべてつつ、ぎこちない動作で空のカップを回収して立ち上がってキッチンへ向かった。我が自宅はリビングとキッチンは繋がっていて、そのまま会話が可能だ。新しいコーヒーを淹れながら天野さんがお礼を言ってきた。
「なんか、すごく……、リラックスできました。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ久々にやったんで楽しかったです」
「涎垂れてびちゃびちゃにしちゃわないよう、ずっと口開けないようにしてて気が気じゃなかったです」
それはリラックスできたのだろうか?
天野さんが淹れたてのコーヒーを携え帰ってきて、私の隣に座り周囲にほろ苦い香りが漂った。私はいつも通り、コーヒーが冷めるまで待った。天野さんは一緒に持ってきたグラニュー糖とフレッシュをカップに投下して混ぜながら、私の表情を窺う。私はさっきのティッシュを丸めて、容赦なく近くのゴミ箱に入れた。……ちょっと後ろ髪を引かれないこともないけど瓶に詰めて保管するわけにもいかない。
「それでさっきの話ですけど、……続けても大丈夫ですか? 別の話にします?」
「特に代案も思いつかないので暫定的に可で」
「結婚式しました?」
「……しましたね」
「写真あります?」
「あー、どこかにはあると思いますけど」
「見たい!!」
天野さんが無邪気に目を輝かせる。んー。
「あ、引っ越しの時に整理しちゃいましたね。そういえば」
「えっ、え~……。もうないんですか」
パソコンの中には残っているだろうけど。
「ウェディングドレス着たんですか?」
「着ましたね」
「うわ~! すごい!」
一口カップに口をつけて、どこか夢見るような顔で、見たかったなあ、と、天野さんは嘆息した。それが多量に舞い、湯気と独特な焦げ付くような香りとに混ざり、僅かな憂いが生まれる。
当時、私はまだ平々凡々な人間をやっていて、髪の色も薄い金ではなく、黒髪だった。瞳もそうだったと記憶している。既に何もかも過去のことで、たまに思い出して懐かしむくらいの余裕は持てる出来事である。まあ、天野さんは先天的だからね。
「えーと」
天野さんがどこまで踏み込んでもいいのかを考えている顔をした。今更だな。
「なんでも聞いてくださって大丈夫ですよ」
「旦那さんはどんな人でした?」
「どんなって……、優しい人でしたよ」
「どういうところに惹かれて結婚したんです?」
「んー、特にそういう……。その手の凹凸がなかったところですかね。他人に依存しなくても生きていけそうなところが尊敬に値しました」
「それは……、褒めてるんですか?」
「最上級」
口の端を上げて笑って見せる。天野さんはそれをみて瞳をぐるぐると回した。多分だけれど、特に意味のないジェスチャである。
「つまり居待さんの好みはしっかりしてる人ということですね」
「好み、というとニュアンスが違いますね。結婚する条件に見合う人がそれなだけで」
「じゃあ私とは結婚できそうもないですねー」
「天野さんは結婚相手というより子供ですから」
「その旦那さんとの間にお子さんがいたら、私はこうしてませんよね」
いきなり、若干怪しい角度からの投球が来た。
「そうでしょうね」
ばしっと簡単に肯定する。事実、その通りだと思うから。
「私も、母が……、親がああじゃなかったらこうしてません」
台詞の内容とは裏腹に、天野さんがカップを両手に持ち幸福そうにこぼす。
いくら不幸でも幸福だけに焦点を合わせていれば、誰でも幸せだと感じるものだ。そして、彼女にとっての幸福とは私であるらしい。私視点で見れば、レティクルで狙われているのと何が違うんだろうかと憤慨したくは別にならない。
それでも、さっき天野さんが耳かきされる前に言ったような、抵抗感はあるわけで。
彼女の持つカップから湯気がまだ立っていて、それが彼女の顔にかかっている。私は自分の分のそれからも、変わらず湯気が出ているのをぼんやりと見た。
……どうも彼女の傍にいると、自分が何らかの大きな力に引きずり込まれて呑まれていくような、そんな感覚がある。それと同時に、期待のような、何かいいことが起こりそうな、予感めいたものまであった。
前者と後者は矛盾していて、そのはずなのに見事に両立していた。