女神の闇①
それはもう何日も飼い葉桶の汚れた水しか、それさえもほんの僅かしか口にしていなかった、空腹に耐え手足は枝のようにやせ細り、骨の輪郭が見えるほどに頬がこけた小さき獣は、汚れて不衛生な暗い部屋の隅にうずくまり、まだ辛うじて見えているはずの左の黒い瞳を虚ろに漂わせながら、声を出さず拳を固く握りしめ薄い肩を震わせて自らを害するものに怯えていた。
害する恐ろしいものは魔物だろうか、人間なのだろうか。
もうすぐ昼の12時になる頃だろう、この時間には彼女の実家の富良野で両親に結婚の挨拶を済ませているはずだった、なのに今この実験施設の白いコンクリートの床に赤く染まった物体を呆然と見下ろしている俺が居た、どうしてこうなったんだ。
枯れかけた草を土を赤い血で染めて、ハウンドが鋭い牙で獲物にとどめを刺し内臓を喰いちぎる、いつもと変わらない平穏な日常。
人類に知られている範囲では3つある大陸のうち中間の大きさであるナトム大陸にある、二番目の国土を持つ王国カリドラの領地その北端に位置する聖地メテオルス山はここ数日、この季節としては珍しく晴天に恵まれ暖かく空も世界の果てに突き抜けるように青く澄み渡っていた、しかしやはりもう直ぐ冬を迎えると言うこの季節は日が落ち始めると、先程までの陽射しは嘘のように、氷を思わせるような冷たい風が吹き枯れ始めた落葉樹の葉を吹き寄せる。山肌を金色と赤色に染め分けた秋の太陽の光が今日という日を燃やし尽くそうと一瞬輝きを増したように思えた。
このメテオルス山の中腹にある第一神殿、此処には極彩色に彩られ金銀宝石に飾り付けられた様々な神獣の姿が彫刻され夕日に浮かび上がる、その神獣の足元には蹂躙される沢山の人間たちの像が彫り込まれ、それはいずれも神獣とは比べるもないみすぼらしくぼろ布をまとった衰弱した奴隷達の像によって表現されている。
15000年程前に造られたこの神殿と当時の神殿職人たちによって作られた彫刻は信者の心が離れると時と共に朽ち果てていたが、300年前に現王により大改修が施され今ではこの国で最高位の信仰の中枢の神殿となっている、今そのアーチを模した水晶と黄金で飾り付けた豪奢な入り口に陽射しが強く差し込んでいる、だがその豊かな光は奥までは届かない、世俗を拒絶するように、心を病むような暗さに神殿の内部は厳しく冷たく淀んでいる、この神殿にもしも今祈りに来た者がいるとすればきっと自分の気がおかしくなったと思うかもしれない。
その時、常人には見えることのないこの神殿の主である女神アシスは奥の廟に佇み頭の中はまたも「はずれ」を引いた事で呪いの言葉が渦巻いていた、先ほどまで話しをしていた転生者との口約束などはすでに忘れ去っていた。
この世界の始まりから生きている女神は見た目は20歳後半の豊満な姿だが度重なる転生召喚の失敗によって目は血走り肌は老婆のように荒れている、この数か月の間に悠久の時を生きてきたその力は失われつつあった。
短い歩幅で何度も音もなく神殿を歩き回るその姿には魔境を徘徊する飢えた魔獣とさしたる違いは見出せなかった。
それでも身に付けている白を基調としたゆったりとしたシルクの衣装に派手な金銀の刺繍がされ、体のラインが見て取れるほどの薄い布で辛うじて聖なる雰囲気を残してはいた、また神力で化粧を施しているため通常で有れば目をそらすことが出来ない程の崇高な美しさの筈の姿は、よく目を凝らせるならば黄金の髪は老婆の白髪のように乱れ陰鬱に暗い陰を引きずっている哀れな有様。先程からその女神の肩の白い塊がもぞもぞ動いている、その塊は紫の嘴をもつカエルに似た白い綿のような手足の無い小さな握りこぶし大の生き物で、ビクッと何かに反応すると薄紅色の霧を吐きながら飴のように変形し女神の足下に移動した、そして移動した先から床の魔法模様と一体となり溶けるように消えてしまった。
置き去りにされた霧は追いかけるように丸く纏まり床に落ちた、床は一瞬どす黒く変色し血の焼けるような刺激臭と共に泡立ちやがて何事もなかったように元の床に戻った。
女神は苛ついていた「今度のやつも竜のエサか、使えない中年どもめ!」忌々しく声を荒げるも女神は何かを恐れてでもいるのか急に声を落とし言葉を吐き捨てた。
その苛つきは集中を妨げていた、女神からは霊的死角となる神殿入り口から中心に向かって延びる長い回廊の隅に据え付けられた、長いマダラで漆黒の尾羽を引きずる、欠けた耳と牙を持つ魔獣の彫刻の陰から、先程から見つめていた林檎の形に似ているシミが一瞬あざけるように笑い消えたのにも気が付かないほどに。
初めて執筆公開しました、何処まで頑張れるかやってみます。