奇妙な事件簿 鮭の切り身事件
いつも支えてくれた図書同好会の皆さんに送ります。
沖縄県警は多忙だった。世界最大の宝石展が開かれているのだ。約数百点の宝石・装飾品が展示される、大きな展覧会だ。県警は島内の警備員を全投入して宝石を守っている。というのも、その展覧会の目玉がホープダイヤモンドだからだろう。このダイヤモンドは、世界最大のブルーダイヤモンドで、別名『不幸を呼ぶダイヤモンド』とも呼ばれている。県警のどの課も大忙しの中、刑事課はマッタリとしていた。「奥野さん、ひま、暇ですよ。」眠たそうにそう言ったのは上間奈菜だ。内巻きのショートボブの黒髪は今や鳥の巣と化している。「私は暇は良いと思いますがね。」落ちついて言ったのは奥野牧久だ。刑事課の警部である。「ちょっと!奈菜このポットの水、いつ替えたの?」激怒しているのは、奈菜の同僚の高石花だ。「替えたと思うけど。」「いつの話よ!あんたには貸が四つあるんだからね。どうなるかわかってんの?」高圧的な花に身を縮ませながら、奈菜はいそいそと水を替えようとした。しかし、突然開いたドアに弾き飛ばされてしまった。「ぎゃあああああ!」奇声を上げながら飛び込んできたのは、白衣の男だった。知念祐介だ。しかしだれも驚かない。これは冬の風物詩だ。「暇、暇、暇、暇、暇、…。」「あんたが暇なのは年中でしょうが。」花がびしっと、指摘した。暇すぎてイライラしているようだ。「もう、何か月も仕事してない…。助けて奥野さん!手術台が埃をかぶってる!」ちなみに、祐介は検死官だ。「夏まで待ったらどうです?」牧久が微笑んだ。「夏は水死体祭りでしょう…。ほら、たった今、上間君が死にかけていますよ。」「?奈菜?何でここに寝てんの?」「あ、あんたが…。」奈菜が呻きながら立ち上がった。「あんたが飛ばしたんだよ!」珍しく、奈菜が怒った。しかし、身長は背の高い祐介には敵わず、迫力がない。「そうよ!あんたがドアで飛ばしたのよ!」花が奈菜に味方した。「ゴメンわからなかった。」「ゴメンですまないよ!あんたは良いよね!能天気で!そんなんだから、古生物学者になれなかったのよ!」奈菜が言ってはいけないことを言ってしまったようだ。祐介が怪訝な顔をした。「少なくとも、僕は夢があった。君はなんだい?公務員になれればどうでもいいって言ってたよね。」さっきまでの軽口のたたき合いとは違い、祐介の声は恐ろしいほど冷たかった。「私は夢をかなえた!あんたはできなかったでしょうが!」鈍感な奈菜は、何にも気づかず、まくしたてた。「やめなさい。」静かな声が奈菜を引き止めた。牧久だ。短い言葉の中には、少し、脅しの要素が入っていた。「皆さん、本当に暇なんですね。この前まで、私の変装を解こうと、意気込んでたではありませんか。」そう、牧久の今の顔は変装した顔である。毎日変装しているので、誰も牧久の素顔が分からない。「変装は私の十八番ですが、あなたたちに対する嫌悪感は隠しきれませんよ。…宝石展に行きましょう。私が個人的に見たいものがありましてね。」牧久が微笑んだ。「私行く。」花が言った。「私も行く。」奈菜がため息をつきながら手を挙げた。「…僕は行かない。現実主義者と一緒にいると、吐き気がする。」祐介が奈菜と、花をにらんだ。「おや、私は現実主義者じゃありませんよ。」牧久がニヤッとした。「話し相手が欲しいのです。別にあなたの意志を求めてはいません。」「…わかりましたよ。」祐介が渋々承知した。「バスに乗っていきましょう。それほど遠くないですし。」牧久が言った。随分と楽しみなようだ。手にはパンフレットがしっかりと握られていた。
静かな美術館の中には高価そうな美術品や、宝石がライトアップされていた。「奥野さん。何を見に来たんですか?」祐介と牧久は一緒に美術館の廊下を歩いていた。「昔、私が解決した事件に、仲間陸という男が無残な殺され方をした事件があったのを知っています?」「有名ですよね。塩酸で、皮膚がどろどろの状態で公園に捨てられていたんですよね。それが何か?」牧久はパンフレットから目も上げない。「あの事件も宝石関係の殺人でしてね。胸騒ぎがするんですよ。警備責任者にお話を聞こうと思いましてね。アポを取りました。」祐介が怪訝な顔をした。「僕は検死官ですよ。奥野さんの一番弟子は奈菜じゃないですか!」「それが何か?上間君は君が私といるから高石さんとどっかに行っちゃいましたよ。怒ってるんですよ。君は上間君に怒ってるのではないんですか?」牧久が目を上げた。からかっているのだ。「いや別に…。でも、僕じゃなく奈菜を選ぶべきだと思いますよ。奈菜がかわいそうじゃないですか。」「上間君の心配をしているんですか?あんなに怒っていたのに!呆れますねぇ。」牧久がコロコロ笑った。牧久の素顔は知らないが、紳士のような雰囲気だ。しかし、こういうところだけは子供のように思える。祐介はむくれてそっぽを向いた。「この部屋ですね。」牧久の立ち止まったドアの前には、『カフェテリア』と表記された看板が掛けてあった。「いいですね。沖縄にカフェテリアなんて、あるんですね。」祐介が言った。「内地に行ったことがあるんですか?」牧久が祐介を見つめる。「ええ、十歳まで本土に住んでたもので。…奥野さんはどこで育たれたんですか?」「私ですか?七歳まで沖縄に住んでました。」「…七歳まで?」「それから十五歳まで音楽留学でウィーンに行っていました。」牧久は驚く祐介に目をくれず、真っ白いドアを開けた。中は清潔な白いテーブルの置かれた綺麗なカフェテリアだった。周りではスタッフたちが、コーヒーを飲んだりしてくつろいでいる。「私たちも何か飲みましょうか。」そういう牧久に祐介は怪訝な顔をした。「探さなくていいんですか?」「まだ来てませんよ。」牧久は余裕の表情でエスプレッソマシンの前に立った。「顔は知ってるんですか?」祐介はレモネードをコップに次ぎながら聞いた。「いいえ。知るわけないでしょう。」不思議だ、という顔の祐介を置いて、牧久は椅子に座った。それから数分後。祐介が三杯目のレモネードを取りに行こうとしたとき、牧久が立ち上がった。「長濱さん。こっちですよ。」見ると、ひとりの女性が用心深い目で近づいてくる。「あなたが奥野さんですか?なぜ私の顔を知ってるんですか?」長濱と呼ばれたその人がもっともな質問をした。「簡単な推理ですよ。メールが送られてきたとき、キーボードの打ち間違いがかなりあった。セキュリティ責任者なのにパソコンが打てないわけがない。おそらく目が悪いのにその時は眼鏡をかけ忘れていた。そこから眼鏡を付けているということが分かります。それと、パンフレットが送られてきたとき、長い髪の毛が挟まっていましたからね。少しうねっていましたから髪をお団子のように束ねていることが分かります。それと‥どこか怪我なさっているでしょう。おそらく、パンフレットと一緒に引き出しの中にシップを入れていましたね。パンフレットが少しシップのにおいがしましたよ。眼鏡をかけていて、お団子に髪を束ねていて、どこか不自然なしぐさの人はあなたしかいなかったのですぐにわかりました。」女性の口元が少し緩んだ気がした。「ホームズの様な推理眼をお持ちですね。自己紹介をしましょう。私は長濱真琴と言います。ここのセキュリティ責任者です。」「私は沖縄県警の、刑事課の奥野牧久と言います。」牧久が祐介を見たので、祐介は慌てて自己紹介をした。「検死官の知念祐介と言います。」「検死官の方と警部さんが何の用です?」「いえ、胸騒ぎがしましてね。前にも宝石がらみの事件があったもので。ここのセキュリティは普段誰が管理してますか?」「私です。」「ハッカー出来ないようにプログラムされていますか。」「ロシア政府の方にやってもらっています。展覧会の主催者がかなりの心配性でして。」真琴が苦笑いした。「ほう。どなたですか?」「ピョートル・イリイチ・サマルスキーという人です。」「お父さんとお母さんがクラシック好きだったんですか。」「ええ、そうだったと聞いています。この名前の作曲家は…確か…。」「チャイコフスキーですね。」牧久が少し微笑んだ。クラシックのことになると、いつもこうなるのだ。「そう!その人です。サマルスキーさんはいつも何かにおびえていましてね。今回のスミソニアン博物館から借りたホープダイヤモンドに関しても不幸が来る!って怖がっていましたよ。」真琴が思い出したように笑い出した。つられて祐介も笑いだした。「ところで、真琴さんはどこの出身ですか?」牧久がそう聞いた。祐介はそんなの聞かせてくれるわけないだろうと思ったが、真琴は笑いながら答えた。「北海道の孤児院で暮らしてました。父と母は、私と妹が生まれてから亡くなりました。」「妹さんがおらっしゃられるんですか。今どこに住んでますか?」「国頭あたりですかね。私は今度から外国のほうで仕事をするので見送りに来てくれると嬉しいな、と思っています。」「最近会っていないんですか。」「ハイ。仕事が忙しいそうでして。何の仕事をしているのかもわかりませんよ。」真琴が寂しそうに烏龍茶をすすった。「ここの警備システムは何でストップできます?」「私のパソコンとつながっていて、私のパソコンでしか制御できません。」「そうですか。おや。」牧久が携帯を開いた。「上間君が何か問題を起こしたようですねぇ。助けを求めてます。では長濱さん。ありがとうございました。」真琴は快い笑顔で牧久たちを見送った。
「奈菜ったら携帯も持たないでどこかに行っちゃったんですよ。マジありえない。」花が牧久に愚痴っている。「奈菜さんは携帯を持っていたはずですが。」牧久があきれたように言った。奈々が起こした問題、それは迷子になったということだった。「そうですか?でも、奈菜の携帯番号、奈菜が私を怖がって教えてくれなくて。私知りません。」「私も知っていませんねぇ。」牧久がため息をつく。「僕持っていますから電話しましょうか?。」祐介が言った。「電話番号知ってるんだったら、ちゃっちゃと言いなさいよ!」花が怒った。祐介はボタンを押すと耳にあてた。何回目かのコールの後、ガチャっと音がした。「もしもし?」『祐介?奥野さんと一緒じゃないの?』「花と合流した。今どこにいるの?」『自分も探してるんだけど。ここかな?』電話越しからドアの開く音が聞こえた。「何を探しているの?」『出口。なんかトイレ入ったら道が分からなくなって。今、ずっと灰色の廊下進んでる。』「どこだよそこ。」祐介は心配になってきた。「人はいないの?」『いない。…あれ。何これ。』電話の向こう側から困惑するような声が聞こえる。「何?」『…鮭の切り身。』「はぁ?」祐介は耳を疑った。鮭の切り身?なんだそれは。『待って…。嘘でしょう!祐介!大変だ!』「何!」電話の向こう側で奈菜がパニックになっている。『ホープダイヤモンドが…!』そこまで奈菜が言いかけたとき、耳をつんざくような叫び声が聞こえた。『祐介!』「奈菜!?」祐介は奈菜を呼んだが、携帯電話の音声が途切れてしまった。「奈菜!?」「どうしました?」牧久が怪訝な顔をする。「奈菜が!叫んで、パニックになって、切れました!」祐介は暗い液晶画面を示した。「どうせ奈菜のドッキリですよ。ほっときましょう。」花が言った。「知念君。落ち着いてください。上間君は何か言っていましたか?」牧久が聞いた。「灰色の廊下を進んでるって言ってました。それと、ホープダイヤモンドって言っていて、あとは…鮭の切り身って言いました。」牧久は首をかしげた。「鮭の切り身ですか?灰色の廊下…。ホープダイヤモンド…。ただのドッキリとは違う気がしますね。スタッフに言って探してもらいましょう。」「僕も行きます。気になりますし。」祐介が即座に行った。しばらくするとスタッフと、真琴が駆けつけてきた。「どなたかいなくなったと聞きましたが?」「ハイ、刑事の上間奈菜さんが消えてしまいまして。電話をしたのですが叫んで切れてしまいましてね。心配で仕方がないので一緒に探してくれませんか?」牧久が言った。真琴は正義感のある目で言った。「ハイ、もちろん。場所の手掛かりになることは言っていませんでしたか?」「あ、灰色の廊下と言っていました。」祐介が言った。「わかりました。廊下をすべて探してみます。」そういうと真琴はスタッフたちを引き連れて、散らばっていった。「私たちも探しましょうか。」牧久は人ごみの中に消え、祐介は駆け足でどこかに向かった。花だけがぽつんと取り残された。「ドッキリだと思いますよ。」花の意見は揺れ動く人ごみの中にかき消されてしまった。
その知らせが届いたのは、捜索を始めてから四時間後の六時過ぎのことだった。奈々が見つかったというのだ。しかしその知らせは嬉しいものではなかった。スタッフたちは奈菜を囲んで大急ぎで牧久たちを呼んだ。ドアが勢いよく開いて飛び込んできたのは祐介だった。「落ち着きましょう、知念君。」牧久がなだめた。しかし祐介は止まらず、スタッフのところに走っていった。「…!」スタッフたちが囲んでいたのは奈菜であった。奈々が見つかってどんなにうれしかっただろう。しかし、ただ一つだけ、嬉しくないことがあった。奈々は動かなかった。しゃべりもせず、ヒマワリのような笑いを見せてくれない。ただうつろな目が、暗い舞台裏の高い天井を見つめていた。「・・・亡くなってから二時間ほどたっています。」真琴が気まずそうに言った。「どこにも見当たらなかったので、まさかと思い、ここを探してみたら…。」奈菜の死体は床に倒れていた。その真上には手すりの無い階段が続いている。「警察を呼びましょう。状況を見てもらわなくては。」牧久が言った。てきぱきとした動きで携帯電話を開き、凶報を伝えた。祐介はショックで前が何も見えなかった。周りが暗かったところもあるだろうが、それとはまた違う暗闇が祐介を包んでいる。それは隣で泣いている花のせいでもっと暗くなった。親友との突然の別れ。それは明るい祐介にとっては厳しい試練であった。
よりにもよってやって来たのは牧久を目の敵にしている警部、座間味康弘だった。「奥野君、コレはどう見ても事故だね。君の部下は迷子になって、電話していて、手すりがないことに気が付かなかった。」「おやおや、小学生でも思いつきそうな推理をどうもありがとう。」二人の間には見えない火花が散っているようだ。「報告書には事故と書いておくよ。検察官も引き上げるからな。調べたいのなら勝手にどうぞ。」康弘は得意満面で引き揚げていった。「…あの能無し石頭警部!」花が吐き捨てるように言った。「あのような人は放っておきましょう。時間の無駄です。」牧久がここまで言うのはずいぶんと珍しいことだ。「知念君。大丈夫ですか?」牧久が心配そうに言った。祐介は心ここにあらずというような顔だ。「いえ、ただ気になることがあって…。」「何ですか?」「奈菜は、灰色の廊下と言っていた。灰色の廊下にいたはずなのに、宝石展からここに来るまでの廊下はクリーム色の廊下なんですよ。」「それは私も気になっていました。」「えっ!ちょっと待ってくださいよ!」花が慌てた。「じゃあ奈菜が死んだのはここじゃないってことですか?」「ご名答。とはいえ推測ですがね。」牧久が残念そうに言った。牧久は傷口を覗き込んだ。「頭蓋骨陥没ですか。…?座間味さんの検察官たちは目が節穴なんでしょうかねぇ。」牧久はピンセットで何かをつまみ出した。「何ですか?それ。」牧久が取り出したのは一ミリほどの小さなレンガのかけらだった。「どうして奈菜の頭にレンガのかけらが?」花が不思議そうに首をかしげた。「わかりませんか?」牧久が聞いた。「奈菜さんは別の場所、いわゆる灰色の廊下にいた。そこで何かを見つけ、知念君に伝えようとしたが見つかってしまいレンガで殴られ、死亡。犯人はこれを事故だと見せるために、灰色の廊下からここに死体と携帯を持ってきて事故に見せかけた。と、なると。」「まさか。」祐介が驚いた顔をした。「これは殺人事件になりますね。」突然の大事件に花は慌てふためいた。なんせその被害者は、友人なのだから。「後悔するでしょうね。」牧久が静かに言った。「誰がですか?」花が聞く。「犯人ですよ。…よくも私の一番弟子を…!」二人は牧久がこんなに怒ったのは今までで見たことがなかった。牧久の目には、涙がにじんでいた。「あれ?」それに気づいたのは、花だった。「奥野さん。魚臭いんですけど。」「そうですか?鼻がつまっていて。わかりません。」牧久が顔をしかめた。「奈菜のポケット…。」花が奈菜のポケットに手を突っ込んだ。「何これ?」「何です?」牧久が興味深そうにのぞき込んだ。「・・・・・。鮭の切り身…。」花がつまんでいたのは、まぎれもなく、鮭の切り身だった。
次の日。
「ふむ、この鮭の切り身は、かなり塩分濃度が高いですね。」そう言ったのは牧久の古い友人の、小濱志麻子であった。牧久と祐介がいるのは小学校の理科室である。志麻子は小学校の理科教師をしている。放課後、サイエンスクラブの子どもたちがせっせと自分の研究を進めている中、傍らで、大人たちは腐りかけた鮭の切り身を調べている。「塩かぁー。私は塩には詳しくないんですよね。」志麻子が残念そうに言う。「私も塩には興味は沸きませんですから。…海が嫌いなものでしてね。」牧久も肩を落とす。そして二人は最後の希望とばかりに祐介を見た。「…僕!?いやいやいや、わかるわけないでしょう。塩なんて!」三人は肩を落とした。「あ、そうだ!」志麻子が何かを思いついたようだ。「夕!おいで!」志麻子が呼んだのは眼鏡の、いかにも研究者という雰囲気を漂わせた男子だった。「この子は兼城夕っていう子でね。塩について研究してるの。塩のことなら何でもわかるよ。」「それはそれは!捜査が行き詰ってしまうところでした。」牧久も目を細めた。「夕、この鮭の切り身の塩。何の塩かわかる?」夕は眉間にしわを寄せながら鮭の切り身を受け取った。「…何のために?」「ちょっとした事件がありまして。」牧久が答えた。夕はビーカーと、三脚と、アルコールランプと金網を出すと、聞いた。「これが何かの事件の証拠なら、今からやることはしないほうが良いと思うんだけど、いいんですか?」牧久は少し悩むと、言った。「いいですよ。」夕はビーカーに水を入れると。中に鮭の切り身を入れ、煮た。やがて、水が少し濁ってくると、火を消し、水を少し蒸発皿に垂らし、火にかけた。しばらくして、夕が言った。「この塩は、おそらく北海道付近の塩でしょう。この鮭は新巻鮭だと思います。塩分濃度がほぼ新巻鮭と同じ濃さですから。」「新巻鮭ですか。」牧久が考えた。「新巻鮭と言えば…高橋由一ですかね。」「たかはしゆいち?誰?」志麻子が聞いた。「高橋由一は画家です。新巻鮭と呼ばれる絵がとても有名です。」「それとこれと何の関係が?」「わかりません。」牧久が頭を抱えた。「もうちょっと簡単に考えましょうよ。」祐介が言った。「そうよ。新巻鮭と言ったら…。北海道かしら。」志麻子が言った。「北海道…。」祐介はどこかで北海道に関係することを聞いた気がした。「奥野さん!見つけました!北海道!」祐介が大声で叫んだので、子供たちが振り返って祐介を見た。しかし祐介は興奮気味に言った。「長濱さんは北海道出身です!」長濱とは真琴のことだ。「それなら長濱さんの部屋に新巻鮭があってもおかしくない!」「ちょっと待ってください。」牧久が携帯を開いた。「もしもし?長濱さん。突然すみません。展覧会の、スタッフたちは主催者のサマルスキーさんと長濱さんも含めますが、確か会場に寝泊まりしてるんですよね?…そうですか。廊下の色は何色です?ほう。ありがとうございます。」牧久はぱちんと電話を閉じた。「灰色です!」「いやったぁぁぁ!」子供たちは廊下の色に喜ぶ大人を見たことがなかっただろう。不思議そうにこちらを見ている。「もしかしたら、奈菜は、長濱さんの部屋に入って、鮭の切り身を見つけた。ホープダイヤモンドに関する何かを見つけて、戻ってきた長濱さんに殺された。」祐介が言った。「そして上間君は死ぬ前に、せめて証拠をつかもうと、ポケットに鮭の切り身を入れた。それです、ありえます。」牧久と祐介は大いに喜んだ。理科室にいる志麻子と、生徒たちはぽかんとその様子を見ていた。プルルルルル、と、携帯の着信音が鳴った。牧久のものだ。「ハイ。高石さん。え。殺された?」理科室がざわついた。「ハイ。今すぐ行きます。…。知念君。第二の被害者です。急ぎますよ。志麻子さん。また来ます。」牧久は祐介と一緒に走って出ていった。理科室はシーンと静まり返った。その静けさは爆発音で破られた。「こら!試験管の中で水素を爆発させない!試験管が割れたでしょうが!」志麻子の怒声とともに、理科室に平穏が訪れた。
事件があったのはコザの市場だった。「殺されたのは誰で・・ええ!真琴さん!」祐介は遺体を見てびっくり声をあげた。「いいえ。」花が言った。「亡くなられたのはその妹の美琴さんらしいわ。」祐介が驚くのも無理はない。真琴そっくりの女性が倒れていたからだ。「妹がいるとおっしゃっていましたが双子だったとは…。」牧久が言った。「刺殺ですね。」祐介が言った。検察官が祐介に何か伝えた。「牧久さん!ここにもまた鮭の切り身が見つかったようです!」祐介が言った。牧久が驚いた顔をした。「同一犯ですか。…。真琴さんはどこですか?」牧久が聞いた。かなり慌てている。「もしもし?長濱さんですか?すみませんがあなたは今の今までどこにいましたか?…。そうですか。」牧久は恐ろしい速さで電話を切ると、スタッフの一人に電話をかけた。「もしもし?この前お伺いした奥野ですが。…はい。そうです。その奥野です。忙しい中失礼しますが長濱真琴さんは今日仕事は何時から何時までいましたか?‥‥。そうですか。ありがとうございます。」牧久はぱちんと携帯を閉じるといった。「今日真琴さんは姿は見てはいませんがパソコンからセキュリティに指示は出していたのでおそらく屋内にいたと思う、とスタッフが言っています。また、サマルスキーさんが部屋の中でプログラミングをしているので、真琴さんの邪魔をしないようにと、言っていたと報告がありました。真琴さんにはアリバイがあります。その前に、真琴さんには妹は殺せない。心底妹を愛していたようですから。」牧久はかなり疲れているようだ。やっと思いついた推理が的外れなものだったからだ。「上間君を殺したのは誰なのでしょう…?私は絶対に彼女のために犯人を見つけるといったのに…!」牧久は精神的に極限に近づいているようだ。「奥野さん。休んでいたほうが良いのではないですか?」花が心配そうに聞いた。「だめです!時間がないかもしれない…。急がなければ…。」牧久がかくっと倒れた。倒れる牧久を受け止めたのは背後にいた康弘だった。手には麻酔を持っている。「奥野さんに何をしたの!」花が怒鳴った。検察官たちが振り返る。康弘は言った。「こいつは事件を解くためにはどんなことだってする。今のこいつは命だって投げ出しかねない。休ませてやれ。いつもの冷血なこいつに戻るまで。」康弘は祐介に眠っている牧久を渡すと立ち去った。「何あの人。いい人じゃん。」花が見直したように言う。祐介はパトカーに乗って牧久を刑事課に送り届けた。奈菜が死んでから二日しかたっていないのに、随分と昔に思える。祐介がドアを開け、飛び込んできたあの日、単に暇だからと言って飛び込んできた昨日が嘘のようだ。牧久はソファーですやすや眠っている。「暇じゃなくなっちゃったよ。」祐介は暇が嫌いだったが、今ではその暇が懐かしい。落ち着いた暇な日に戻れるならどんなことだってするだろう。祐介は少し寂しそうに奈菜の席を見ると、夕日に染まった刑事課から出ていった。部屋には牧久の寝息だけが響いていた。
「奥野さんは?」花が聞いた。まだ事件現場は忙しかった。雨が降ると証拠が消えてしまうので、急いで現場を調べているのだ。「寝てる。」祐介は鮭の切り身をまじまじと見ながら答えた。「ねぇ祐介。それ食べるわけじゃないよね。」「もちろん。少し舐めるだけ。」花が止めようとしたが遅かった。祐介は鮭を少しだけ舐めた。「きったなーい!それ、道に落ちてたのよ。」「すっごいしょっぱい。」「話を聞け!」二人が話していると真琴が駆けつけてきた。「新巻鮭?それ?」「あ、はい。」祐介が答えた。「そう。」「真琴さん。美琴さんはどうして新巻鮭を買いに来たんですか?」花が聞いた。「北海道の孤児院の先生に送るつもりだったの。本来私が買いに行くはずだったんだけど、仕事が抜けられなくて。…。私が行けばよかった。」真琴が泣き出した。「泣かないでください。あなたのせいじゃありませんよ。」祐介が慰める。さっきまで犯人だと思っていた人を慰めるなんて、なんだか不思議だと思った。「犯人が早く見つかるといいですね。」祐介はそう言って真琴を見送った。「かわいそうに。妹思いな人だったのに。」花が悲しそうな顔をした。「本当だね。」祐介もうなずいた。しかし、その言葉とは裏腹に祐介の心はすっきりとしていた。
すっかり真っ暗になった夜。宝石展の中に人影が動いていた。高価な装飾品がきらめく中、人影はホープダイヤモンドに向かっていった。どういうわけかサイレンもならない。人影は薄く笑うとダイヤモンドのケースを開けた。「‥‥無い?」人影は慌てた。計算どうりじゃなかったからだ。「あなたの探しているものはこれですか?」パッと懐中電灯の光が付いた。牧久だ。「やはりあなたでしたか。」光に照らされ現れたのは真琴だった。「長濱真琴さん。…こう呼ぶべきでしょうか?長濱美琴さん?」真琴が、いや、真琴の姿をした美琴が動揺したのがはっきりと分かった。牧久の手の中にあるダイヤモンドをにらんでいる。「あなたと共犯のサマルスキーさんも逃げられませんよ。」「なぜ…。わかったのです?」美琴が聞いた。「あなたは孤児院の先生に買ってきてくれ、という名目で新巻鮭を真琴さんに買いに行かせた。まじめな真琴さんは大事な妹のために外出しても、パソコンで仕事をしていた。その性格をよくわかっていたあなたは、待ち伏せをして真琴さんを殺害した。そして、真琴さんの服を着て、真琴さんに自分の服を着せた。そしていかにも鮭を買ってきたかのようにサマルスキーさんが用意してくれた新巻鮭の切り身を死体の横に置いた。上間君が間違えて入ったのはサマルスキーさんの部屋だった。そこにある計画表と鮭を見た上間君はサマルスキーさんに殺害され、事故死と見せかけられた。あなたは初めからホープダイヤモンドを奪うために姉を殺害し、パソコンを奪い、セキュリティを停止して、中に入り、ダイヤモンドを盗み、ブラックマーケットで売ろうとしていた。当たっていますよね?」牧久が微笑んだ。しかしその笑顔には確かな怒りが込められていた。「あなたはなぜ私が真琴ではないと分かったの?」美琴は抵抗する気もないようだ。あきらめきっている。「簡単ですよ。電話で話したとき、真琴さんなら妹が死んで大泣きしているはずだった。あなたのような強欲な人間は悲しむという感情も嘘のようですね。」牧久が言い放った。美琴は打ちひしがれて下を向いた。「連れて行きなさい。」牧久は隠れていた警官にそう告げると、会場から立ち去ろうとした。「待ってください!」美琴が牧久を呼び止めた。「何ですか?」「ごめんなさい。あなたの部下のこと。」牧久はあざけるかのように冷たく微笑んだ。「いえ、別に謝らなくてもけっこうですよ。私は、と言うより私たちはあなたを絶対に許しませんから。きっと、亡くなられた真琴さんもそう思っているはずです。」牧久は美琴に背を向けると、今度こそ立ち去った。
しばらくたったある日。牧久と祐介は刑事課でお茶を飲んでいた。「知念くんもわかっていましたか。」「ええ。あれは真琴さんじゃないってすぐにわかりましたよ。けがをしてるはずなのに湿布のにおいがしないんですから。」牧久は笑った。「にしても、ホープダイヤモンドの噂は本当でしたね。美琴さんはダイヤモンドを盗もうとして不幸になってしまった。」「いいえ。違いますよ。美琴さんが不幸になったのはダイヤモンドが決めたことではなく、自分自身がしてしまった行いのせいでした。自分の人生よりも石ころの方が大事だったんですかね。」「奈菜も喜んでいますかね。」「‥‥ええ、きっと。」牧久は奈菜の席を見て微笑んだ。まるでそこに、奈菜がいるかのように。
このお話を作るにあたってキャラクターのモデルになってくれた図書同好会の皆さんに感謝します。
急に主人公奥野牧久になってくれた元会長や、最後までなんで女子になったんだ、と愚痴っていた会長。
そんな面白い図書同好会が大好きです。これからも、図書同好会副会長として、よろしくお願いします。